ヘアサロンの魔法
この前は北海道、その次は鹿児島、そして今度はアメリカですって!?
っもう!!私、堪忍袋の緒が切れました!!
*
彼と行く所は大抵、少し洒落たカフェが多かった。高い天井、話しやすい雰囲気と、ゆっくり流れる時間と。ジャズのBGMに包まれながら、落ち着いた店内を見回して、趣味はとても合っていたんだと今更ながらに実感する。
「別れよう」
しかし、第一声に、私の期待は見事に打ち砕かれたのである。
フリージャーナリスト兼カメラマン、という、休みが不定な人間がやっと捕まって、こっぴどくこっちから別れてやろうと思っていたのに。
「このままだと、君を傷付けてばかりだ。守ってやることもできない。私も考えると辛くなる。だから…」
「別れよう、ってことね」
「…ああ」
切なそうに、申し訳なさそうに言ってんじゃないわよこの野郎ッ!最後まで優しい男じゃ私も振り切るに振り切れないじゃない。この吐き出し足りないもやもやとした怒りをどうしろっていうの。
最後になるだろうから、久しぶりに会ったから。「ああ、やっぱり別れるには惜しい女だ」って思わせるためにしてきた化粧も、お気に入りのワンピースもパンプスも、どれもこれも彼の意志に働きかけはしなかった。
なにこれ。これじゃなんだか私が振られたみたいじゃない。
「…ふざ、けんじゃないわよ」
膝の上で揃ってふるふると震える拳に、怒りと悲しさで滲んでくる視界。
絞り出した声だけど、目の前の彼に届けるには充分だったようだ。
「勝手に、いつもいつもドタキャンして、一人にして、何が「傷付ける」よ。何が「守れない」よ。じゃあ聞くけど、あなたはそうしようと努力してきた訳?できなかったんでしょう?私が相手じゃそうする気にもならなかったのよ。合わなかったのよ。一致しなかったの。二年かかって、やっと分かったわ」
自分で言って虚しくなってきたけれど、意地でも涙は食い止めて、こぼさないように踏ん張った。
なんでも仕事優先のこの男。熱心で結構なことだ。だが、私がつらい時やしんどい時、音信不通になることは珍しくなかった。本当に付き合っているのか?と友人に言われたことすらある。そのせいか、私は割と一人でなんでもできるようになってしまった。「ちょっと相談したいことがあるから電話できない?」とメールをしても、数日返事が無いなんてザラで、「この前の件、落ち着いたからもう大丈夫」と自己完結のメールを送ることもしばしば。他に女がいるのかもしれないとすら思った。影も形も見当たらなかったけれど。
「今度は一緒に夢を追いかけてくれる人が見付かると良いわね」
私が今まで、こんなに気持ちをストレートにぶつけたことはなかった。だから、目の前にいる男はそっちの方に驚いているみたいだったけど、私が息を吐いている間に口を開いた。
「……君も、きっと見付かるさ。可愛いし頭も悪くない。良い女だ。支えてくれる、良い男がきっと見付かるよ」
「予言をどうもありがとう」
これ以上は聞きたくなかった。良い女だと思うなら、しっかり捕まえておきなさいよ。一緒にアメリカへ来てくれ、って、言いなさいよ。
もう、一緒にいられない。
その事実だけが、頭の中にこびりつく。
「…さよなら」
「ああ、元気で」
席を立ちあがった私は、鞄を持って、貸し借り無しと主張するかのようにお茶代を置いて店を飛び出した。
しばらく歩いていると、だんだんと頭が冷えてくるもので、もっとああ言ってやればよかった、とか、色々頭に浮かんできて、それもそれでムカつく、と悶々考えながら頭を掻くと、手に触れるさらりとした感触に気が付いた。
奴が好きだと言った、長い髪。
一房、ぎゅっとにぎると、出てくるのは憎しみや怒りや悲しみだけだった。
もう、いっそ切ってしまおう。
私は方向転換して、バッグからスマホを取り出した。
*
カランカラン、とベルが鳴るのとほぼ同時に、「いらっしゃいませ」と受付の声が聞こえてくる。
「ごめんください、さっきお電話した秋本ですが……」
「あ、秋本さんじゃないですかー。お久しぶりです」
受付に交渉しようとしたら、奥からいつもお世話になっている栗原くんが出てきてくれた。落ち着いた黒髪と優しい笑顔に、すさんだ心が少し癒される。
やっぱり、うん、彼は癒し系だと思う。
「カットですか?」
「うん。突然切りたくなっちゃって。大丈夫かしら」
完全予約制のサロンで、直前の予約。私は一体何というわがままを言っているのか。
いくら常連とはいえ、これは出直すべきだったかもしれない。でも、今すぐ切ってしまいたい気持ちを我慢するのも難しかった。
「はい!ラッキーでしたね。ちょうどキャンセルのお客様がいたんです。メンバーズカードはお持ちですか?」
「あ、うん」
よぎった一抹の不安は一瞬にして解消された。財布から「ヘアサロン・トリックスター」と書かれた白いカードを取り出して、受付に渡す。それと同時に、側に控えていたスタッフが荷物や上着を預かってくれた。
「では、お席にご案内しますね」
にっこり笑顔の栗原君に案内されて、白を基調とした店内を横切り、大きな鏡張りの壁の前に腰掛ける。栗原くんが道具の準備をしている間に、茶髪の男の子がいくつかヘアカタログを持ってきてくれた。
「どんな感じにするか、決めてますか?」
「そうだなぁ…」
少し掠れた声が、あまり聞いたことのない声だったから、新人なのかな、なんて思いながらカタログをペラペラめくる。
「秋本さん、今日ワックスついてますね」
茶髪君と話している間に、栗原くんが私の髪の状態を把握していた。
「あ、そう!洗ってもらわなきゃ」
服装だけじゃなくて髪にも気合を入れたので、今日はワックスも付けた。
カットの時、いつもは何も付けてない私に、栗原くんは少し驚いたかもしれないけど、にっこりと「かしこまりました。高木くん、シャンプーお願い」と、的確な指示を流れるように出していた。
茶髪の子は、高木くん、と言うらしい。
彼と一緒にシャンプー台に向かって、ふかふかのリクライニングソファに腰掛けた。
「膝かけ掛けますね〜」
「あ、はい」
ふんわりとした膝かけを掛けてもらって、ソファが傾く。
このお店にももう慣れたもので、少し身体を動かして丁度しっくりくる位置を探す。すぐにそれは見付かって、見計らった高木君が首の後ろの髪をすくってシャンプー台に持ち上げた。無言で目隠しの紙を顔に乗せられ、「流していきますね〜」という声に簡単に返事をした。
昔は目隠しがおしぼりだったけど、ここ数年で柔らかい紙に変わったのよね。化粧の人が多いからかしら、なんて考えているうちにシャンプーが始まった。
「長くて綺麗な髪ですね〜」
閉じた視界の中、感心したような声が聞こえて思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう」
「今日は切るんですか?」
「うん。長い間このヘアスタイルだったから」
「わ〜、変身ですね〜。あ、かゆい所とかないです?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ流していきまーす」
ざあ、とシャワーの音がして、「熱くないですか?」と言う確認に頷いてから、彼のシャンプーの仕方や流し方がとても気持ちいいことに気付く。指の腹でこすられる頭皮への刺激は、まるでマッサージのようだ。
「トリートメントはどうしますか?僕としては、短く切るならオススメしたいんですけど」
ここのお店のトリートメントは別料金で、良い物だがそれなりの値段だったりする。
だからいつもなら、やんわりとお断りするのだ。
でも、今日は特別。
贅沢な気分になりたかったし、まだこのソファから身体を離したくなかった。
「お願いします」
そう言うと、目を閉じていても彼が笑ったのが分かった。
「はい、かしこまりました!」
*
トリートメントを付けて、少し頭皮のマッサージをしてもらって、流し、最後にふわふわのタオルでわしゃわしゃと拭かれて、さっぱりするのと同時にお店に来るまでの苛々した気持ちがだいぶ落ち着いていることに気が付いた。タオルでその形をなぞるように耳を拭かれて、気持ち良かった、と思わず声が出る。
「あ、ごめんなさい、思わず」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいですね」
目隠しを外され、視界が戻ってきた。
起こしますね〜、と倒れていたリクライニングソファを元に戻し、最後にもう一拭き。
最後は蒸しタオルでターバンのように巻かれて、首周りに巻いていたタオルを取り外し、完了だ。
「ではお席にご案内します」
高木くんに先導されて、さっきの鏡張りの席に戻ると、そこにはカットの準備を整えた栗原くんがいた。椅子に座ると、「お疲れ様でした」と鏡越しに微笑まれる。
それと同時に私はてるてるぼうずみたいになって、栗原くんの手により頭のターバンが解かれた。
優しく少しわしわしされた後、ブラシで丁寧に梳いてくれる。
毎日やっている自分から見ても、この作業は意外と大変だったりするから、人にやってもらえるととても心地が良い。
「カット、どうします?」
さっきまで見てたカタログに一緒に目線を落として、ふたりであれこれと考えてみる。
「ばっさり切りたいの。このあたりまで」
と、肩に手を当てると、栗原くんは頷いて真剣な表情でカタログをぱらぱらとめくった。
「じゃあ、雰囲気も変えてこんなのはどうですか?前は少し長めに取って、後ろになるに連れて少し短くなるんです。あまり表には段を入れないで、内側をすいて軽さを出すんですけど」
「へえ、ボブとはまた少し違った感じ?」
「そうなんですよ。実は秋本さんに似合うんじゃないか、ってチェックしてたんです」
「え、本当?」
すさんだ心の隙間に、うまくはまっていく喜びは、ビジネスだろうとお世辞だろうと今の私にとっては嬉しいものだった。
まあ、彼ならお世辞じゃないかもしれない、っていうのもあるけれど。
そう思わせるのも人柄と、職人の技よね。
「じゃあ、挑戦してみようかな」
お願いします、とオーダーを終えれば、真剣な表情だった彼も嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ切って行きますね」
と、ハサミを握った彼は、私の髪を一房持って、何かに気が付いたように笑った。
「断髪式、ですね」
ロングから突然のショートへの転換。
彼は美容師歴の中から、私の中にある何かを察知したのかもしれない。
けれど、断髪式という言葉は、今の私にぴったりな気がして、思わず笑ってしまう。
「ふふ、断髪式、ね。その通りだわ」
すると彼は持っていた私の髪を、鏡に映して私にも見えるようにしてくれた。
何をするのか、と思いきや、彼は、「じゃあ、切りますよ」と言って、ハサミを入れる。
少し湿った髪は、じょきん、と言う音を立てて、床に落ちた。
それからは黙々とした作業で、徐々に短くなっていく様子を鏡越しにじっと見ていたら、あ、という感じで目が合った。
「秋本さん、雑誌読みます?」
いつもなら、その言葉にすぐ頷くんだけど。
でも、今日は自分の髪を見届けたかった。
「ううん。今日は見てても良い?」
いつもと違う回答に、栗原くんはちょっときょとんとしたけど、すぐに笑顔で「もちろん、良いですよ」と言ってくれた。
きっと彼なら、私がさっき体験した出来事を頷きながら聞いてくれるだろう。
でも、そうはしたくなかった。
私が変身できる場所に、魔法をかけてくれる場所に、あいつを入れたくなかった。
手際良く、しかし慎重に髪が切られていく。
外側の髪はクリップで留められ、内側の髪がすかれて床にはらりと落ちて行く。
その工程を見ているだけでも、新鮮な気持ちになれる。
口の端を少し上げて、楽しそうにカットしている栗原くんを見て、思う。
変わろう。
すぐには割り切れないかもしれないけど、私は変わるんだ。
外見だけじゃなくて、中身も。
「ドライヤー入りますね。熱かったら言って下さい」
頷くと、スイッチが入って会話が出来なくなる。
鏡に映る私は、さっきまでの私とは全然違った。
顔は同じなのに、肩に付かないぐらいまでにカットされた私の髪は、確実に私を変身させていた。
ドライヤーのスイッチを切ると、栗原くんはボトルをプッシュして液体を手に馴染ませた。
「少しトリートメント付けますね」
手櫛で内側、外側とざっくり馴染ませて、最後に毛先に揉み込む。綺麗にブローされた私の髪は、更につやつやになっていった。
最後にもう一度ブラシで整えてくれて、完成。
首の後ろのマジックテープが外されて、てるてる坊主が姿を消す。
代わりに現れたのは、気合の入ったワンピースを着た、私。
「はい、ではこちらをお持ち下さい」
と、渡されたのは大きな手鏡。
毎度のことなので、私も慣れた手つきで構えると、栗原くんは椅子のストッパーを外して私の座る椅子をくるりと180度回転させた。
これで手鏡に後ろ姿が映るのだ。
「サイドは少し長めで、後ろはこんな感じです」
いかがですか?と確認してくる彼に、私も頷いた。
「すっごく軽い」
「これだけ切ればそうですよ〜」
と、下を見れば。
まさに髪の海、という感じだった。
「これ全部?」
「そうですよ〜。筆作れますね!」
「筆って!」
思わず吹き出すと、彼も笑った。
栗原くんの発想は時々天然だと思う。
「はい、じゃあこれ」
と、受け取ったのはコットン。
これで顔に付いた細かい髪を拭きとるのだ。
これがなかなか難しいのである。
ちょっと手間取ってしまっても、栗原くんは傍で待っていてくれる。
申し訳ないと思いつつも手鏡と一緒にコットンを返すと、傍にもう一人増えていた。
シャンプーをしてくれた高木くんだ。目を輝かせてこっちを見詰めている。
その手には、さっきまで私が持っていた手鏡。恐らく栗原くんから預かったのだろう。
…なんかそのまま固まってるけど、大丈夫かしら。
「お疲れ様でした。ご案内します。足元気を付けて下さいね。髪滑りますから」
「うん」
普段ならすぐに片付けてくれる切った髪も、きっと私に見せるために掃除しないでいてくれたんだ、と思う。
いつもなら素早く綺麗にしている店内で、これは珍しい光景だから。
その証拠に、T字箒を手にしたスタッフが横に二人もスタンバイしてるもの。
なんだかちょっと、特別扱いされてるみたいで嬉しい。
ヒールで気を付けながら横を通り過ぎる時、シャンプーのお礼も込めて高木くんに会釈すると、彼はきらきらした目でガッツポーズを返してくれた。
…似合ってる、って言ってくれてるのかしら。
鞄と上着を受け取って会計を済ませると、栗原くんがお店の扉を開けて待っていてくれていた。
いつもこのお店は、担当のスタッフが最後まで見送ってくれる。
「今日は突然だったのにありがとう」
「いえいえ」
笑顔で手を横にひらひら振ると、彼はその手でちょっと照れくさそうに頬をかいた。
「…自分で薦めておいて言うのもなんですけど、秋本さん、その髪とてもよくお似合いです」
「ありがとう。実はね、私も気に入ったの」
「本当ですか!」
よかった、と胸をなで下ろす栗原くんに、思わずこっちが微笑んでしまう。
すると、「あ、ちょっと直します」と、毛先をくるりと指で直してくれた。
「うん、素敵になりました。きっと良いことありますよ」
誰にでも言える言葉なのに、その言葉が、今は身にしみる。
「ありがとう。またよろしくね」
「はい!お気を付けて」
ありがとうございました、と頭を下げる彼に、私は背を向けて歩き出す。
来た時より、足取りは軽く、晴れやかな気分だ。
上を向いて歩く気にさえなる。
そんな、変化をくれる場所。
私に魔法をかけてくれる場所。
それが、ヘアサロン・トリックスター。
『トリックスター』
いたずら、とかの意味に思われがち。
でも人生にちょっとした刺激を、という気持ちが込められている。
ヘアサロンって良いなあと思いながら書きました。
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