23話
ベッドに横たわるエステルの呼吸はまだ少し苦しげで、握った手は酷く冷たい。それでも驚異的な魔力回復の速さだ。この分なら半日もかからず全回復するだろう……が。一秒でさえエステルが辛く苦しむ時間が嫌だ。今すぐ僕の魔力を分けてあげられればいいのにと、そう願うだけで何も出来ない自分が無力でもどかしい。
エステルが銃で撃たれた時。勿論彼女が一番苦しく痛い思いをしたのは分かっているが……僕も心臓が止まるかと思った。死を想像する姿に、全身が凍りつくような恐怖に襲われ、彼女が自分に治癒魔法をかけるまでの短い時間が永遠のように感じられた。
何があってもエステルを守る──それは彼女が自ら危険に飛び込んでいったとしても、だ。そもそもあの時皇弟がエステルに向けて銃を構えるフリをした時点で、その手首を切り落としておくべきだったのだ。けれど、あの目の上の瘤のような皇弟でも地位がある為、下手に手を出して罰せられたら、僕はエステルの婚約者ではいられなくなるかもしれない。そんな考えが根底にあったからか、咄嗟の判断が出来なかった。
そうして招いたこの結果こそ、何より次期王配に相応しくないというのに。
「……せ、お……どあ……?」
「エステル……!」
ふいに、目を覚ましたらしいエステルが少しだけ顔をこちらに向け、掠れた声で僕の名を呼んだ。言いたいことは色々あるけれど、今は無理をして欲しくない。
「無理、しないで下さい。後処理は皇帝陛下や皇太子殿下がやって下さっていますから安心して、」
「……ど…して、泣いてるの……?」
「え……」
涙を流す権利なんかないのに、いつの間にか零れていたようだと指摘されて初めて自覚した。慌てて袖で拭って呼吸を整える。
「……申し訳ありません、エステル。僕は……嘘をつきました」
許しを乞うつもりはないけれど、謝らなければ罪悪感で心が破裂してしまいそうで。声が震えないよう気をつけながらもそう話すと、エステルはビクリと肩を跳ねさせた。
「う、うう嘘? 嘘っても、もしかして……」
エステルも察しているのだろうか、僕の言葉に露骨に動揺し始めた。
「やっぱり……婚約解消って話……?」
「はい……」
必ずエステルを守るという誓いを破った。それも、ある意味では我が身可愛さにだ。こんな僕では到底王配は務まらない。それどころか危険な目に遭わせたのだから責任をとらなければ。だから──婚約者の座は、当然降りねばならないだろう。
次期王配は年齢や実力を考えればやはりロランドになるのだろうか。彼なら魔法も剣の腕も充分だし、本来選考の基準にない家柄までも申し分なくエステルの良き支えになる筈だ。かつては性格に難ありだったが今では真面目な好青年であり、エステルの為なら死刑になるのも構わないと言う程の忠誠心もある。文句のつけ所もない。
──けれどどうしても渡したくない。どうしても離れ難い。冷たい彼女の手を握りしめる力を緩めることが出来ない。こうやって温めるのは僕でありたい。
「ねえセオドア、起こして貰える?」
「まだ横になっていた方が……」
「少しだけだから、ね?」
喉でも渇いたのだろうか。少しだけなら、とその背に手を入れそっと身体を起こす。水差しを持ってくるべく立ち上がろうとすれば、握っていた手でギュッと引き止められた。
「エステル……?」
引き止められた以上はここにいなければ、と椅子から浮かせた腰を下ろす。エステルはそんな僕に「ちょっとだけ、目を瞑って」と言った。
なんだろう。まさかその隙に転移で逃げ出す……なんてことはないと信じたい。彼女の意図は分からないけれど言われた通りに目を瞑った。
そっと手が離される。追い縋りたくなるのをぐっと堪えそのまま彼女の言葉を待つ。
「……本当にごめんなさいね、セオドア」
エステルの弱々しいその謝罪と意味を考えたら、情けなくもまた涙が出そうだったので黙って俯いた。しかしそんな僕の頬に彼女の手が触れたかと思えば、「もう目を開けていいわ」と言われ。
続けて婚約解消を告げられる、最悪の想像をしながら目を開けると────。
「……えっ!?」
驚きに大声を出してしまった僕にエステルがどこか困ったように、それでいて恥ずかしそうに頬を染めていた。
そう。エステルが──フェイスベールを外し、素顔を晒していたのだ。
「エステ、ル……?」
「鏡を見ていないから変じゃないか心配なのだけど……もしかして、酷い顔してる?」
「い、え……そんなことは……。で、ですが、何故……?」
先がくるりとカールした睫毛に縁取られた綺麗な二重の目は、成程僕にくれたイヤーカフのペリドットによく似た美しい瞳の色をしていた。王配殿下に似て少しつり目だが、垂れ眉の為顔全体としてはおっとりした印象を受ける。キュッとした小さな鼻は妹であるアンジェリカ殿下とそっくりで、顔のパーツで唯一見ることが出来ていた薄めの唇とバランスよく配置されていた。つまるところ何が言いたいかというと……可愛い。凄く可愛い。いや、物凄く可愛い。
例えどんな顔立ちでも愛する気持ちに変わりはないと思っていたけれど、自己嫌悪と不安に苛まれていたさっきまでとは別の意味で心臓が痛い。エステルがドロテーア皇女の姿に変身していた時でさえ、目が合うという事実がなんだか嬉しくて舞い上がっていたのに。
しかもその上言葉を失っている僕を綺麗な瞳で見つめ、くすりと笑った。
「残念だけれど私の素顔を見てしまったからには、もう婚約解消してあげられないわ」
「……!」
そうだ、エステルの素顔を見られた衝撃で頭から抜けていたけれど、本来は親兄弟以外には決して見せない決まりになっている。化粧や入浴を担当する侍女ですら見ることが出来ない筈だ。
それ以外で見られるのは夫である王配だけ。……と考えて、ついその顔を凝視してしまう。
「結局、何回も離れてしまってごめんなさい。それで勝手な事をしてセオドアを傷つけて、嫌われて当然だと思う。でも私、婚約とかそういう意味では、いくらセオドアの願いでももう離してあげられないから……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいエステル!」
可愛らしい垂れ眉をさらに下げて申し訳なさそうに話し始めたエステルの言葉を思わず遮った。
「嫌ってなんかいませんし離して欲しいとも願うはずがありません。どうしてそういう話に……?」
「だってさっき嘘をついたって……」
「え?」
「好きっていうのが、嘘って話じゃなかったの?」
その顔をベールが覆っていない違和感を抱えながらも、キョトンとした顔で首を傾げる彼女の表情が愛らしく目が離せない。……とはいえ今のは聞き捨てならない言葉だ。
「そんな訳ないじゃないですか……。指輪まで渡したのに、まだ信じてくれていなかったんですか?」
「ち、違うわ。本当に信じていたけれど……私がやったことを考えたら、嫌われてもおかしくないと思って」
「……? そんなことありましたか?」
「わ、分からないの? 当然ディアークの前に転移して無様にも撃たれたことよ。セオドアの為を思うなら何もしない方が良かったのに、結局自分で動いてこうやって心配とか迷惑をかけたでしょう。婚約解消したいって言われても当然だから……」
エステルが自分でなんとかしようとするのは昔からだ。彼女はその御身が大事である事を一応理解しつつも、治癒魔法があるからなんとでもなると思っている節がある。勿論危ないから王女としてはあまり褒められた事ではないが……それでも僕を救ってくれたのはそんなエステルだったから、嫌いになるはずがない。
彼女のそういうところも含めて守りたいと、思っていたのだ。……それなのに。
「違います。僕は何があってもエステルを守ると言ったのに結局守れなかったから……嘘をついたと……」
そう言うと、今度はエステルの方が意味がわからないとでも言いたげな顔をする。
「何言ってるの? 守ってくれたじゃない」
「怪我をさせてしまいました」
「それは私の自己満足による自業自得だからセオドアのせいじゃないわ」
「いえ……それも防げた筈のことです」
そうして悪い悪くないの押し問答を繰り返していると、ついに耐えかねたようにエステルが声を荒らげた。
「もう! セオドアはそんなに私と婚約解消したいの?」
「そういう訳ではありません! ですが……ですが貴方を守れなかった僕では次期王配は相応しくない……っ」
婚約解消したい筈がない。寧ろ、縋り付いて泣き喚いてどうか許して欲しいと懇願したい。エステルが他の男と結婚するなんて、どう考えても耐えられないのだから。
けれど皇弟に撃たれ血を流し苦しんでいた彼女の姿を思い出せば、とてもそんな我儘を言えるはずがなかった。
すると彼女は分かった、と小さく呟いて。
「じゃあ私が継承権を放棄するわ」
「なっ!? 冗談が過ぎます……!」
思わず耳を疑った。有り得ない。エステルは次期女王として語り尽くせない程努力を重ねてきたのに。
けれどその真剣な表情は嘘だとも冗談を言っているとも思えず、余計に混乱する。
「エステルは……アカルディが、一番大事だって……」
「仕方ないじゃない。貴方が王配になれないというなら、私だって女王にならないわ。まぁ色々前例のないことだけれど……王姉としてアンジェリカを支えアカルディに貢献するのも悪くないでしょう。許して貰えないなら国外逃亡するとでもいえば、何とかなるはず」
皇弟のエステルに対する許し難い発言は思い出しただけでも腸が煮えくり返るような思いだが、エステルという存在が抑止力になる──それだけ強力な力を有しているのも事実である。そんな彼女が国外逃亡するなどと脅せば、大抵の事は叶えられるだろう。でもだからって……。
言葉を失う僕に、彼女は語り続ける。
「ねえ、私の事を好きじゃなくなったのならそう言って。そうしたらちゃんと諦めるわ。セオドア以外の人を愛せる気はしないけれど、新しい婚約者を受け入れる……努力をする。けど、少しでもまだ私に情があるなら」
そっと手を取られ、祈るように握りこまれた。
「どうか、私に挽回のチャンスを頂戴」
挽回のチャンスを求めるべきは僕なのに……情けない。エステルに怪我をさせ苦しませた上、こうしてお願いまでさせてしまった。懇願するまでもなくエステルは許してくれているのだ。いや、許す以前に責めてもいない。ならばこの罪を許せないのは僕の自己満足で。
ああ、初めて出会ったあの日から、エステルには情けない姿しか見せていないな。……それでも。
「……愛しています。心から、エステルだけを」
良き女王になる為努力してきた彼女の時間を無駄にするくらいなら、守れなかったくせにその隣を明け渡すことの出来ない惨めで情けない男でいさせて貰おう。
「だから……どうか僕と結婚して下さい」
こぼれ落ちた本当の願いに、エステルが嬉しそうに勿論と笑った。