16話
目元の赤みはきっとひいていないけれど、誰にも見えないところだから良しとして。セオドアに背中をさすってもらってようやく涙と呼吸が落ち着いた頃、流石にそろそろ戻らなければと話し合う。
「本当はこのままアカルディに連れて帰りたいのですが……」
「ふふ、もう。何言ってるのよ」
セオドアの言葉を笑って流せば、本気なのにと口を尖らせつつもなんだか嬉しそうで。
「どうかしたの?」
「いえ……昔のようにエステルが話してくれるのが、嬉しくて」
そう言って頭をかく彼に、心臓がグッと押しつぶされたような感覚がする。
基本的に相手の身分問わず敬語を使う──使わないと私の性格ではなんだか傲慢で横暴な印象になってしまう気がして──私がそうしないのは弟妹達と、ディアークだけ。昔はセオドアにもそうだったものの、嫌われてると思ってからは特別扱いなんて迷惑なだけかと思い、他の人達と同じようにしていた。
「それについては本当にごめんなさい。詳しくはまだ言えないのだけれど……そうね。結婚したら話せることがあるから待ってて」
「それは……楽しみにしていますね」
心を知る能力があると知ったら、セオドアは何と言うのだろうか。……怖いような、ちょっとだけ反応が楽しみのような。
「そういえば、これ」
反応が気になるということから連想で思い出したそれを、鞄から取り出しセオドアへ差し出す。
「これは……」
「イヤーカフなんだけど」
厚かましくも私の瞳の色によく似た──セオドアは私の瞳を見たことは無いが、父や弟妹を見ていれば近い色だと推測は出来るだろう──ペリドットのイヤーカフを見て、セオドアは呆然としている。
「一応その、お揃いなの。私のはこれで……」
和解もしないうちから勝手にお揃いのアクセサリーを買うなんて、引かれるだろうか…と一瞬ネガティブ思考が過ぎったが、よく良く考えればセオドアの指輪も同じだった。
セオドアは暫くなんとも言えない、珍しくちょっと間抜けで可愛いなとさえ思えるポカンとした顔でイヤーカフを見つめていたが。やがて何処かへ飛んでいっていた意識が戻ってきたかのようにハッとしてそれを耳につけ、心底嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、エステル……大事にします」
「うん。……よかったら私のもつけてくれる?」
「勿論です」
セオドアの瞳の色にそっくりな、パライバトルマリンのイヤーカフ。優しい手つきで彼がそっとそれをつけてくれる。耳元で僅かに揺れる感覚と、指輪の軽く締付ける感覚が、先程まで泣くほど気が滅入っていた私の心を軽くし、勇気づけてくれる気がした。
「……ありがとう。最後にもう一度だけ聞くけど、明日皇女のパートナーを務めるつもりは、」
「ありません。寧ろ今から1秒だってエステルと離れる気はないです」
分かってはいたが、かなり食い気味の返事で思わず笑ってしまう。彼はお互いの指輪をつけている手をそっと絡めて続けた。
「だから、離さないでください。例えどんなに危険でも、僕は貴方の剣であり盾でありたいのです」
一人で突っ走りがちな私に対するそれは、今までなら約束は出来ないと断っていた事だろう。けれど、セオドアが大事だからこそ……危険なことに巻き込む覚悟も必要なのかもしれない。彼は守るべき国民の一人というだけではなく、対等な一人の人間でもあるのだから。
「……分かったわ。その代わり絶対に怪我しないで」
私なりにそう覚悟を決めて了承すれば、セオドアは意外そうに一瞬目を見開いた。それから嬉しそうに破顔して。
「必ず。もうエステルに魔力切れを起こさせる訳にはいきませんから」
その言葉に何かを思い出しかけたが、ではそろそろ戻りましょうという彼の気が変わらないうちに転移魔法を発動した。
「セオドア! どこに行っていたのよ!」
私達が戻ってくるなり怒髪衝天でセオドアに詰め寄る皇女。転移していたのは体感20分程度の短い間だったが、どこに行ったか分からない相手を待つ側には長く感じたことだろう。本人はそこまでではないが彼女のコルは怒りで顔が真っ赤になっている。
「……申し訳ありませんが、僕はもう貴女の言うことは聞けません。これからはエステルの傍にいますし、明日の誕生祭も当初の予定通りエステルのパートナーとして出席します」
繋いだ手を離さないまま、私を自分の後ろへ隠すようにしてセオドアはハッキリとそう言った。まさか脅した相手にそんな言葉をかけられるとは思ってもみなかったのか、皇女が動揺したように目を見開く。
「っ何を言って……約束を違えたらどうなるか分かってるの!?」
「へぇ、どうなるんだ?」
「お、お兄様……それは……っ」
セオドアを知るものならば今までの状況でも充分、彼が脅される等して皇女の傍にいるのだろう事は容易に察する事が出来ただろうが……今の彼女の発言はまさに脅していたことを示唆するようなものだ。
ディアークにそれを指摘され、上手い言い訳が見つからないのか口篭る。
そうして視線をさ迷わせ──その金色の瞳が、ピタリとある一点で止まった。
「──っなんで……なんでなんでよ! そんな女の何がいいの!?」
一度凍りついたように止まったかと思えば、再び大声をあげ怒りに震え出した皇女に、辺りにいた人々も流石に気になったのかなんだなんだとこちらに視線を向けてくる。
どうも彼女の怒りに触れたのは、私達がつけている指輪らしい。
「私の方がセオドアの事幸せに出来るのよ? 魔物なんかとの戦いで危ない目にあわせたりなんかしないし、護衛みたいな真似しなくていい。欲しい物はなんだって手に入れてあげるし、貴方が一番偉いのだと思える人生にしてあげる! だから私を選びなさいよ! そんな薄情で私より劣った女じゃなくて!」
そう言って私をキッと睨む皇女の目尻には涙が浮かんでいた。セオドアを譲ることは決して出来ないし、きっと今まで手に入らぬものなど無かったのだろう彼女の強引なやり方も悪いと思う。けれど、彼を好きだというその気持ちはコルを見れば本物だと分かる。その上今の発言は殆ど事実で、私からこれといって何か言い返せるような事は無かった。
しかしセオドアは不快そうに眉を寄せる。
「エステルは薄情なんかじゃ、」
「違うって言うの? 私が貴方にどれだけちょっかい出しても、怒るどころか注意すらしないこの女が? パートナーの座を奪ってやったって、悲しむ素振りすら見せないこの女なんかより絶対私の方がセオドアの事愛してるんだから!」
確かに私の今までの態度を見ればそう思うのも仕方ないだろう。……けれど。
「セオドアの事を1番愛しているのは私です……!」
それだけは譲れなくてセオドアの前にずいと出て、しっかり否定しようとすると、自分で思った以上に大きい声が出てしまった。真後ろから動揺したように身動ぎする気配を感じたし、街ゆく人達にも聞こえてしまったようで、ヒューヒューと囃し立てる声が遠くで聞こえる。それが少し恥ずかしいけれど、構っている場合ではない。
「貴女の方が優れているという点も、私の今までの態度が悪かったことも否定しません。セオドアを危険に巻き込むことも、貴女の方が幸せにできるかもしれないことも否定しません。けれど、セオドアの事を1番愛しているのは絶対に私です。それは譲れません!」
「なっ……!」
そこまで言い切ると、ふいに後ろから腕が回ってきて引き寄せられた。私の肩口に額をぐりぐりと押し当てて「嬉しい。でも絶対僕の方が重いです」と謎の対抗意識を燃やしている。こんな真剣な時に可愛いことをするのはやめて欲しい。そんなセオドアの様子を見て、皇女はギュッとドレスを握りしめた。
『何よ……最初からそうやっていれば、私が期待を抱くことなんかなかったのに今更何なのよ……!』
「……もう、良いわ」
「ドロテーア!何処へ行くんだ!」
ふふっと不敵な笑み浮かべた彼女は踵を返し、ディアークの制止も聞かずに何処かへ歩いて行く。
『あの女をグローセ・ベーアに殺してもらえばいい。その方がずっといいわ』
どうやら作戦変更をしたらしい。つまり今からその足でグローセ・ベーアの元に向かうのだろう。これからセオドアと離れるつもりはないので、ターゲットが皇女から私に変わることは寧ろ都合がいいかもしれない。いやでもそれだと皇弟をそろそろ引きずり降ろすという目標が……と考えながらもその背を見ていた時。
──どこかからかフラフラと現れ皇女に近づいた誰かのコルが、持っていたナイフで彼女の身体をグサグサと刺し始めた。
『やっと見つけた……絶対に逃さないわ。必ず殺してやる!』
いくら心を読む魔法が使えるとはいえ、こうも殺意の高いコルに出会うことはなかなかない。その為突然の事態に一瞬唖然としてしまったが、早くそのコルの元の女性を探さなければと辺りを見渡す。
『護衛が多くて近寄れないわね……流れ弾が周りの人にあたったら困るのだけど、やっぱり魔法銃を使うしかないか』
魔法銃とは、例えば使用者が火属性ならば火の魔法を圧縮し、速度と威力を上げる言わば魔道具だ。
待って、危ないから待って。その殺意に満ち溢れたコルの栗色の髪はヴェルデではありふれているものの、服装が喪服のように黒く浮いている。これなら見分けやすく目立つ筈……と視線を送ると。
「エステル、どうかしましたか?」
「セオドア……彼女を追いましょう」
私の様子がおかしい事に気がついたのか、セオドアが心配げに声をかけてきた。そうしている間にも皇女はどんどんと離れて行ってしまうので、慌てて彼の手を掴んで歩き出す。
人の声とは違い魔法であるコルの声は意識すれば多少離れていても聞こえるとはいえ、それにも限界がある。人混みに紛れてしまう前に追いつかないと。
「僕に何か出来ることはありますか?」
私の焦りが伝わってしまったのだろう。そう問いかけてきた彼に、けれど説明している暇はなくて。
「……いつでも剣を抜けるようにしていて」
「わかりました」
振り返って動きやすいようにと掴んでいた手を離してそう頼むと、真剣な顔で頷いてくれる。頼り甲斐のあるその表情に、最悪私が人間盾になればいいかという考えは消えていく。
そんなやり取りを交わした、ほんの短い間に。
────パァンッッ……!
「きゃあああああ!!」
聞こえてきた銃声と皇女の悲鳴に、私は離したばかりの彼の手をとった。