序文:<ピンポイント>
煮え切らない曇天の日のことだった。冒険者たちの根城であるアキバから離れたイズミの街、その郊外でフィールドボス、『沼地の王』の討伐が人知れず行われていた。
どろどろとした修道衣に身を包んだ骸骨型のモンスターが、杖を掲げ、何事かを取り巻きに呼びかける。あたりは霧に包まれ、視界が悪い。
(やっぱり身体は動くが、心がついてくるかは別か……!)
沼の泥を蹴り上げて、最前線では少女が太刀を振るっている。精神を昂ぶらせ、黒髪を逆立てながら、吼え、『敵』の目を引いている。
彼女の目の前に立ち塞がっているのは、骨の魔物――スケルトンたちであった。統率の取れたそれらは弓を番え、あるいは剣を振りかざし、少女に襲いかかる。彼女は分厚い大太刀でそれを受け止めて、振り払う。
「っ、シオリ! 生命賦活――〈ヒール〉ッ!」
後方では足をしっかとつけ、ローブに身を包んだ白髪の男が呪文を唱えている。朗々とした声がシオリに届くと同時に、彼女は緑の光に包まれる。
癒やし手の基本であるヒールは、シオリのHPを素早く回復させていく。シオリは心臓の鼓動に合わせて、ほのかな温もりが自分の中から沸き上がる感覚を覚え、息をつく。
「なるほど、前は感じ取り損なったけど、こういう感覚か。助かる、レンダリル」
「何、任せたまえ! このまま戦線維持を頼む! ヴィクトール、いけるかね!」
「行けるかねってなァ! 行くしかないだろッ――〈囚われた獅子のダージュ〉!!」
泥ごとスケルトンを蹴飛ばして、楽器片手に銀髪の青年が叫ぶ。岩に足を乗せて、楽器の弦に手を掛け、息を吸う。音の波が彼を中心に発せられ、白骨が粉々に吹き飛ばされる。
だが、彼が倒したところで、スケルトンは沼地の王の招来に答え、何度も沸き上がってくる。青年――ヴィクトールは文様のある舌で舌打ちをした。
「くそ、キリがねえ!」
「ん、出し惜しみできないね」
「エゴ、何とかできるか!」
ぽつりと言葉を漏らしたもう一人の少女に、ヴィクトールは視線を向ける。
「〈ヘイスト〉して、多段で魔法撃ってみる。できると思う。リキャストあと少し……」
エゴと呼ばれたヒューマンの少女は、すでに手元にばちばちと光を灯らせて構えていた。エゴはシオリの側から離れていない。
スケルトンの群れは四人を追い詰めている。だが、誰も怯んではいない。
「来た。〈ソーンバインドホステージ〉からの――〈パルスブリット〉!」
スキルの名前がそのまま魔法の発動に繋がる。輝く茨が沼地の王を絡め取り、いくつもの光の弾丸が撃ち込まれる。沼地の王が叫び、光に包まれる。その輝きに、スケルトンのからっぽの眼窩が一斉にエゴへと向く。青白い炎ががらんどうの目の奥に灯っている。
(まずい、ヘイトが……!)
「いかん、ヘイトが動いた!」
シオリが気付き、次にレンダリルが気付く。そして青い顔をしたヴィクトールは、出し惜しみできないというエゴの言葉の真意を察してしまったのだろう。
まさにその時、スケルトンアーチャーから矢が放たれた。シオリはその矢の向かう先を見ていた。
矢は狙い過たず飛んでいく。胸に十字の傷をつけたワンピースの少女、その喉に――。
「エゴ……!!」
時はしばし遡る。
◆
――。
いつか人はその日を大災害と呼ぶが、今はまだ、その現象すらつまびらかになっていない。そのような日が、セルデシアにも存在した。
大災害直後のただ中に、シオリは立っていた。
(これは、一体……)
大規模MMORPG、エルダー・テイルの新パッチ『ノウアスフィアの開墾』をアップデートして、オープニングムービーを見たところまでは覚えていた。が、それ以降のことは、シオリは何も思い出せない。
気が付けば、廃墟同然になった建造物があり、木々が生い茂っている、どこか見覚えのある場所に立っていた。
そこは冒険者のたむろするアキバからわずかに逸れた、イズミへ行く道の途中だった。
「……」
彼女は苔むした石畳の上に立ち、ぼんやりと湧き水に顔を映し込んでいた。だからこそ、彼女は自らの姿を誰より早く認識できたのだ。
(見た目も、普段なら『いつも通り』か)
シオリはぺたぺたと自らの頬を触った。ポニーテールを束ねた自分の顔がある。
いつも気だるげで、やる気がなさそうな顔立ちだ。ジト目で三白眼なのは、彼女のトレードマークだ。ただ、リアルよりもほんのりと赤い瞳と、少し目立つ八重歯がある。
最後にログアウトした時、彼女は軽装に身を包んでいた。ちょうど、リアルでのお気に入りのパーカーとそれに合ったカーゴパンツに似せていた。あとは戦闘用の軽鎧。それが、今の彼女の姿である。
160センチにも満たない小柄な彼女は、今や善き種族が一、狼牙族の少女であった。
「ん……」
水辺に映った額のあたりを眺めていると、彼女はふと視界が変容することに気が付いた。
エルダー・テイルのメニュー画面が、ぱっと彼女の中に広がる。ついついステータスやインベントリを覗いて、自分の状態を指差し確認してしまう。
シオリが認識できる限り、彼女の持ち物やステータスは、まるっきり最後にログアウトした時の状態のままだった。
(ログアウトは、ダメ……GMコールも、無理か……。何だろう、これ……どういう状況……?)
何度かログアウトのボタンを押下してみたものの、応答はない。彼女は頭に浮かぶそのシステムと周囲の様子を比べて、眉を寄せる。
「あ、モンスターだ……」
彼女は草むらの中に隠れたモンスターのHPゲージにいち早く気付いた。アキバ近辺に見られる低レベルの獣型モンスターだ。彼女はそれとしばらくにらみ合いをしていたが、襲ってこないことを確認すると、ふうっと息をついた。
(こっちには来ない……そうか、レベル差だ。一応、そういうのも機能してるのか)
シオリのレベルは決して高くはない。だが、それでも近隣のモンスターが襲ってこない程度はある。一度は刀の鍔に指を掛けた彼女だったが、戦闘になることはないと判断し、手を離す。
誰か、いないものか。木の葉を揺さぶり通り過ぎる風の音が、いやに大きく聞こえて、彼女の孤独を煽った。彼女はモンスターに襲われない安堵と、誰もいない孤独感に、大きな息を吐いた。
「――れ、かぁ……」
「ん……?」
シオリの聴覚が、ふと、誰かの声を捉える。情けない、男の声だ。
「だれかぁぁっ、戦闘が得意な人ぉ、助けてぇぇぇっ!!」
彼女は顔を上げて、特に考えもしないまま走り出した。彼女は決してお人好しではないけれど、それでも助けが聞こえれば走って行く。そういうタイプの人間だった。
石畳を踏み、草場を飛び越え、狼牙の脚力のままに駆け抜ける。縮こまった猫の耳が見えた。そして、その前に立ち塞がる骨の怪物――スケルトンも。
「……っ!?」
シオリは戦ったことなんてなかった。それでも、彼女の身体は素早く鞘から太刀を引き抜き、その刃をスケルトンの頭上へと振り下ろした。
(私、戦えるのか……!? 待った、スキル、スキルは……!?)
心だけが置き去りにされたまま、彼女は素早く太刀を構え直す。心拍数が上がる感覚がある。彼女のポニーテールはその質量を増やし、狼の毛並みを思わせるものへ変化していく。
猫耳の正体を確認することもできないまま、彼女は視線を巡らせる。
イズミの方からさまよい出るスケルトンは一つだけではない。
(周囲にいるアクティブは、あと3体……だけど)
少しずつ状況が見えてきたシオリは、そのうちの2体が自分ではない方向を向いていることに気が付いた。楽器を構える銀髪の青年と、ローブ姿の白髪の男の組み合わせだ。白髪の男は緑のアンダーリムの眼鏡もつけている。
青年の方にはヴィクトール、白髪の男の方にはレンダリルと名前が見えた。
「お、おらっ、こっちだぁっ! 来るなら来い、バケモノっ!」
「頑張れー、若人っ!」
「うるせーっ、下がってろ! あんたピュアヒーラーだから何もできんだろうがーっ!」
銀髪の青年は黒いコートを翻して、弦に指を掛けて吼える。その衝撃が、シオリの髪をなびかせる。腕で軽く顔の近くを覆い、シオリは目を細めて二人を観察する。
ヴィクトールの叫ぶ口、その舌に、彼女はわずかな模様を見る。
(っと……ハーフアルヴの吟遊詩人か。あっちは……ピュアヒーラーって言われてたけど)
吟遊詩人の青年がスケルトンを追い散らす間、後ろのレンダリルはといえば、地面に足をしっかとつけて構えていた。手の片方を開き、片方を握って、ぱしんと打ち合わせる。
「何もできんわけではないさっ……心身賦活、指先まで行き渡らせよ! 〈ハートビートヒーリング〉!」
「おわっ……そうだ、森呪遣いってリジェネ系ヒーラーだったな……」
吟遊詩人の身体が緑の光に包まれる。そこで初めて、シオリは法儀の男の頬に破断した回路のような文様があることに気が付いた。薄紫だったそれは、励起して青白く光っている。
(うわ、HPひっく……法儀か……!)
そこまで観察していると、さすがに二人も気が付いて、シオリの方へ視線を向けた。男二人揃って、表情をぱっと明るくする。
「た、タンク! 渡りに船っ!」
「そこの武士ーっ、臨時でパーティー組まないかね!」
「あ、ああ、はい」
ハーフアルヴも法儀族も、決して耐久性に優れた種ではない。このまま死なれるのも寝覚めが悪いと、シオリはメニュー画面から、レンダリルの出したパーティー募集に入ろうとした。
しかし、彼女は忘れていたのだ。今も昔も、スケルトンはそんな動作を待っていてはくれないのだ、と。
「……っ!」
パーティーを組んだとほぼ同時、スケルトンの錆びた剣がシオリに振り下ろされる。大太刀で受け止めはしたが、全てを受け流すことはできない。打撲を受けたような鈍い痛みが、彼女を襲った。
自分のライフゲージを見れば、HPの減少が一瞬で分かる。それは、シオリに言い知れぬ不気味な感覚を呼び起こす。
――HPが0になったらどうなる?
「う、くっ……」
そのわずかな恐怖が、彼女の行動を鈍らせる。スケルトンの次の攻撃は目前に迫っている。急がなければ。ヘイトを向けて、攻撃を引き寄せて。何を言っているんだろう。自分はただの学生なのに。
(何で私、タンクなんかしてるんだろう)
後方から癒しの光が飛んでくる。だが、それでも――。
「……!」
その一瞬、確かにシオリは死を覚悟したのだ。
――〈アストラルヒュプノ〉。
どこからか聞こえた、少女の囁くようなスキル宣言を聞かなければ、ずっと死がつきまとっていたと思うほどに。
シオリは目の前で剣を掲げたまま、眠りに崩れるスケルトンを見ていることしかできなかった。強制的に睡眠を付与するアストラルヒュプノは、付与術師のスキルだ。
スケルトンに刃を振り下ろし、魔法のきらめく痕跡を探して、彼女は目を動かす。
森の中でも鮮やかな白いワンピースが見えた。長いさらさらの銀髪と、大きな紫の瞳が見えた。たおやかな四肢とは裏腹に、薄い胸についた十字の傷跡が歴戦の冒険者であることを物語る。その細い首の上に乗っかった、あどけない顔を、シオリは知っている。
「シオリ。大丈夫?」
「……エゴ?」
エゴ。それは、シオリの数少ないフレンドの名前だった。