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09、疼き

 エレーナがカインから講義を受けていた頃、レフティは自室で休んでいた。

 宮廷直属である彼の住まいは中庭から見て、教会の方向と反対側に位置する宿舎だ。彼の部屋は最上階の隅にあるため、宿舎のリネン係は行き着くまでに息を切らしているのが常だった。

 レフティは、カーテン越しの陽射しが強くなってきたことを感じた。そろそろ起きて、シャワーでも浴びよう。

 誰かが廊下から部屋の扉をノックした。

「どうぞ」

 ドアを開けたのは、リネン係のフランだ。レフティから、ドアの側に大きなバスケットが二つ重ねて置いてあるのがわかる。

 彼女はレフティが上半身になにも着けていないことで、あわててドアを閉めようとした。

「待ってくれ、シーツや枕カバーを取り替えてくれないか?」

「あ……は、はい」

「いつもは男が担当なのに、今日はどうしたんだ?」

「風疹で休んでおります。では失礼いたします」

 フランは一礼し、手早くベッドのシーツを取り替えていく。てきぱきと動く彼女の細いうなじからは、柑橘系の香りがする。

 レフティはリネン係の手際の良さを背後から眺め、なにげない口調でつぶやいた。

「いい匂いがするね」

 彼女は小さく「あっ」と言い、振り向いて背後に頭を下げた。宮中に入った時期は自分の方が先だが、レフティが上官であることには変わらない。こういう時に、いつもフランは言葉遣いに困ってしまう。

「す、すみません」

 彼は唐突に頭を下げられて、きょとんとした表情になった。

「なにが?」

 フランはレフティに、もじもじしながら上目遣いで答える。

「ま、前に……レフティさまは香水の匂いが嫌いだと聞いていましたから」

「はあ?」

 唖然とした彼は、リネン係の顔を眺めた。

「いつの話だ、それは」

「えっ」

 レフティは相手の目が泳ぐのを見て、げらげらと笑い出した。

「ち、違ったんですか?」

「まあ確かに、変な香水を振りまいて来た使用人を叱りつけたことはあるけどね。そんなの、何年も前の話だぞ」

「あ、ああ……そうなんですか」

 彼は、部屋を担当するリネン係が男性ばかりである理由と、新人の使用人が部屋に来た時におどおどしている理由がわかったような気がした。

 使用人たちの間では長年「レフティは使用人が『女』を誇示するようなことが嫌いだ」というのが暗黙の了解となっている。

 以前に彼の言った通り、リネン取り替えの時に香水を過剰につけていた使用人を叱ったことがあった。それ以外にも、友人に対するような感覚で接してくる女性使用人を彼自身は好んでいなかった。

「きみが言っているのは、けじめがない使用人を叱った時の話だろう?」

 フランは困った顔をしてうつむく。

 五年ほど前、リネン係の一人がレフティに片思いしていた。その使用人は彼と二人きりになれる機会を常々伺い、誘惑するために媚薬を香水に仕込んだ。

 ところがレフティの部屋に入った時、烈火のごとく叱られた。当時、女性を知らなかったこの軍人は、エレーナしか見えていなかった。王女以外が自分を誘惑してくることは、迷惑以外の何物でもなかった。

「他のリネン係にも回覧板でも回しておいてくれよ。『レフティは香水の匂いでは柑橘系が好きらしい』とかね」

 フランは彼からの意外な言葉に、あんぐりと口を開いている。レフティは彼女のあまりにも素朴な感情表現に、声を上げて笑い出した。

「そんなに驚くようなことか?」

 彼はわざと腰をかがめ、使用人の瞳をのぞき込んだ。フランの心臓が大きく高鳴る。

「き、今日のレフティさま……変ですよ?」

 顔中が真っ赤になった彼女をからかうように、上官は立ち上がって相手の頭をぽんぽんと叩く。

 それから、大きな掌をフランの頭の上に置いたまま再び瞳をのぞき込んだ。

「きみの名前は……ええと、なんだったかな」

「フ、フランです」

「ああ、これで覚えたよ。カインとちょくちょく廊下で話してる人だよね」

 上官を見つめる彼女の瞳が、ますます大きく開かれた。レフティは顔をほころばせる。そうか、こんなふうに「きみのことを憶えているよ」と表すことで他人は安心するのか。

 だが、フランにすれば気が気ではない。取り替えたシーツ類を入れているバスケットを持とうにも、そのタイミングがつかめなかった。おろおろしているうちに、重ねてレフティの言葉が聞こえてくる。

「くだらないと自分でも思うが……他の人間には聞けないことを、きみに聞いてもいいだろうか?」

 彼女は真っ赤になった顔を覆い隠し、何度も頷く。

 一体、何をわたしから聞くっていうの? 

 カインが相手ならば出てくる言葉が、今は出てこない。フランは相手がようやく頭上から掌を外してくれたことで、少しだけほっとした。

「なっ、なんですか」

「きみとカインの関係は?」

「えっ」

 問われたリネン係は絶句した。まさか、レフティがそこまで俗っぽいことを尋ねてくるとは夢にも思っていなかったのだ。

「聞こえなかった?」

 自然と低い声で問いかけていた彼には、それでフランがなおさら動揺することなど気がつくはずもない。

「あ、あ。き、聞こえました」

「じゃあ、カインとの関係は?」

 彼女は大きく深呼吸をした。こんなに動揺させられるなど想定外だ。

「彼は、わたしが宮中に上がってしばらくしてから登用されました」

「ふうん、それで?」

 レフティは興味深そうに使用人を眺めた。見つめられた彼女は、心臓の鼓動が破裂しそうに高鳴っている。

「右も左もわからない彼に、部屋の配置や臣下の方々の性格を教えてあげたのは憶えてます。それだけで、別に特別な関係はありません」 

 彼女は、そういう答え方が精一杯だ。カインとは宮中での友人以外の何者でもないのだから。

 紫紺の瞳の上官が、うつむいた。

「へえ。カインは恵まれていたんだね」

 レフティが自然なため息をこぼした。

「恵まれてた?」

「ああ」

 彼は、いったん背中を向けて沈黙した。

 俺は余計なことを話しすぎた。だけど今さら止められない。

 レフティは、落ち込む気持ちをほんの少しだけ奮い立たせた。俺が聞き出したことだ、と自分で自分をなだめながら。

「俺が陛下から登用された時は、誰もそんなことを教えてくれなかった」

「そうだったのですか?」

 問いかける使用人の声は優しい。彼は素直に頷く。

「ああ、陛下から直々に登用の辞令を頂いたまでだよ。俺の気持ちが明るかったのはね。あれがピークだ」

 レフティは片手にシャツを持って窓を開け、ベッドに腰かけた。その間に、フランは部屋の時計へ視線を移す。あまり一部屋に時間をかけすぎると、他の仲間から何を言われるかわからない。

 上官は、気がついたように声をかけた。

「悪かった、確かに今日の俺はおかしい。すまなかった、きみにも仕事があるのに」

 リネン係は首を横に振った。

「なんの問題もありません」

「そう……か。それならいいのだが」

 フランには、レフティが放っておけないくらい弱々しく見えた。普段から部下に厳しい彼の意外な一面を初めて見たせいだ。

 彼女は床に置いてあったバスケットを持ち上げ、ベッドに腰かけている上官になにげなく話しかけた。

「今日はこれから、外出なさるんですか?」

 レフティはシャツのボタンをはめながら、フランの顔をまじまじと見上げた。二人の視線がぶつかり合う。

「久しぶりに娼館にでも行ってくるよ」

「え?」

「俺の弱気を引き出した、きみが悪いんだぜ?」

 フランの全身が熱くなる。礼儀や序列に厳しい野心家だと思っていたレフティの唇からこぼれる、およそ上官らしくない言葉や振舞いのすべて。彼女の価値観は根底から崩れそうだった。咽喉と唇がカラカラに渇いていく。これ以上は、上手く話ができそうにない。

「お、おか……おかしいですよ、きょ、今日の」

「そうか」

 レフティは両手を同時に動かし、ぱちんと音を立てて自分の頬をはさむ。そして、上目遣いでフランを見つめた。

「女を買いに行くことが、そんなにおかしいかい?」

「いえ、そうじゃなくて」

「誰にだって弱気になることはあるだろ?」

 レフティは無理矢理に笑顔を作った。これ以上この部屋にいたら、目の前の女性に抱きついてしまいそうだ。彼は湧き上がる不思議な感情に突き動かされ、震える自分を恥じた。

「きみは……」

「はい?」

「いや、なんでもない」

 彼はうつむいて首を振る。それから、もう一度フランを見据えて言った。

「きみと話ができてうれしかったよ。そろそろ行ってくれ。俺に時間を取りすぎて、仕事に支障が出たら申し訳ない」

「だ、大丈夫ですよ」

「そうか」

 レフティは立ち上がり、大股で歩いてドアを開けた。フランの記憶の中で、今までにドアまで開けてくれた上官はいない。

「ありがとうございます。失礼します」

 頭を下げたリネン係に、彼も頭を下げて「ご苦労さま」と告げた。ドアを閉めた後、彼女の香りはシトラスだと気づく。

「エレーナさまの香りに似ている」

 レフティは独りごちた。なるほど、喋りすぎてしまうわけだ。

 ほっと息をつくと、今さらながら同じ香水でも人によって立ち上ってくる香りが違うということを感じた。

 自分の手に残っているフランの髪の香りに、そっと鼻を近づけてみる。仕事の汗が入りまじった匂い、という気がした。

 それにしても、なぜ今日に限ってここまで心が揺れるのだろう。彼は迷いを振り切るように、娼館へ行く準備を始めた。




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