08、宿命・2
カインはエレーナ女王と机をはさみ、向かい合わせに座っている。
女王は気のおけない男の前だからなのか、困った顔を隠すこともない。ノートを取る手を、しばしば止めていた。
教育係は若い女王のつやつやした唇を一瞬眺め、わざと咳払いをしてから話しかけた。
「難しいですか?」
「ええ」
カインは改めて目を細め、彼女を眺めた。髪を後ろで束ねた化粧っ気のないエレーナは、戴冠式の時と比べて格段に子供っぽい。
彼の微笑む視線に気がついたエレーナは、軽く相手をにらんだ。
「十七歳になったばかりなのに、こんなこと憶えられない」
「困った方ですね」
教育係は鳶色の目をますます細めた。笑いだしそうになるのをこらえつつ、肩をすくめて両の掌を上に向ける。
「こんなこと言えるのも、カインの前だけなのに」
エレーナは照れくさそうな笑みを浮かべた。
「外交や国防なんて難しいことは、まったくと言っていいほど知らなかった。いつもあなたやレフティが、お父さまの近くにいてくれたから。わたしは祭祀にまつわることだけしていれば、自分の役割は果たせるって思っていたの」
カインは彼女の小さなため息を聞き漏らさずにいる。さらに、女王もそれらを理解したいという気持ちはあるのだと思い、優しく言葉をかけた。
「細部まで把握する必要はないのです。ただ、上に立つ者としておおよそのことは理解しておかなければいけません」
エレーナは机に広げた地図に視線を落とし、それから恨めしそうにカインを見上げる。
「なんだか、あなたが悪魔に見えるわ」
静かな講堂の中にカインの笑い声が響く。開け放してある扉の向こう側まで、その声はよく響いた。エレーナは肩をすくめて教科書を閉じる。
「ねえ、少しだけ休憩してもいい?」
エレーナのくりくりした黒い瞳が輝く。
カインは心臓の辺りが痛くなる。左胸を押さえながら、彼女に向けて一度だけ唇を結んで諭す。
「だめです」
「やっぱり?」
エレーナは、カインがわざと厳しい表情を作った本意を理解している。ともすれば甘えてしまう自分を、無理に突っぱねているのだ。
彼女は「ごめんなさい」と言って、また教科書を開く。それから、さっきまで教えてもらっていたページを確かめて、何気なく言った。
「国防はレフティに任せておいたらいいのよ」
カインは眉をひそめた。顔を上げた女王は教育係の曇った表情を見て、曖昧に首を傾げた。
「レフティを指揮なさるのがエレーナさまなのですよ。彼は有能な軍人であり、あなたの忠実な臣下です。ですが、それに甘えてはなりません」
「それは、わかっているつもり」
カインも、日中のエレーナが気を張ってすごしているのは理解していた。彼女に十年以上仕えているのは自分だけだという自負もある。エレーナがこんなふうに投げやりな言葉遣いになるのは、疲れが溜まっている時だということも知っていた。
「それでも、国民が安心して暮らせるように概要は理解していただかないと」
「そうね、カインの言う通りだわ」
エレーナは、素直に頷いた。その頬を窓から射し込む陽射しが柔らかく照らす。カインは、ずっとこんな時間が続くようにと強く念じていた。
この国は気候も温暖であり、農作物も豊富に取れる。又、デメテールが即位する前からルーンケルン周辺の海域には食料となる海産物や、燃料に成りうる資源も発掘されていた。東の大陸・ロードレ国との交易も昔から盛んだった。
又、ルーンケルンは昔から国家を上げて、就学できる身分の者には積極的に支援をした。人材として育った者たちを国外に出さないようにも努めてきた。
こんな豊かな国を、東西の大国が我が物にしようと思わないはずがない。
あまり国民に知られていないが、海峡を不審船が往来したり国境にある諸島を不法占拠されたりすることが頻繁にあったのだ。
それらの外国船を手引きしていたのは、当時、ルーンケルン国内にいた呪術師たちだった。彼らは東西の大国から報酬としていくばくかの収入を得る代わりに、諸島に住む人民や海洋資源を他国に売り飛ばしていた。
……そこまで説明を受けたエレーナ女王が顔を上げる。
「質問してもいいかしら」
カインは頬をほころばせて「どうぞ」と言った。ほっと息をついた彼女は、きゅっと唇を真一文字に結ぶ。
「呪術師っていう言葉を聞いて、思い出したのだけれども」
心なしか、エレーナの表情が固くなっているように見える。
「ええ」
「ルーンケルンには昔、呪術師はいた。今はいないことになっているわよね? どうして? 小さい頃に、侍女に『呪術師』という言葉は聞いたおぼえがあるの。なにか今教えてもらっていることと、関係があるのかしら。お父さまも話してはくださらなかった。いつか誰かに尋ねてみたいと思っていたのよ」
カインはどうするべきか迷った。余計なことでエレーナの心を傷つけたくないと思ったからだ。
「聞いてどうなさるのですか?」
彼女は教育係の目をまっすぐに見つめた。
「レフティを指揮する最終責任者は、わたしなのでしょう?」
「そうですよ」
カインは首を軽く傾げながら、エレーナの言葉を待つ。
「じゃあ、わたしは同じようにカインに命令もできるのよね?」
彼女の物言いに、カインは顎をなでて目を細めた。
「あなたにそのような言い方ができるとは思いませんでした」
カインの生徒は、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
「わたしは知りたいの。きれいごとだけじゃなくて、本当にルーンケルンが何に直面しているのか。なにが問題なのか。お父さまみたいには上手く処理できないと思うけれども、がんばってみたいの。せっかくレフティもがんばっているんだし」
エレーナはレフティの名前を出した時、かすかに耳が赤くなった。
カインは心の奥がちりちりと痛むのを覚える。が、今はそんなことに心を動かされてはいけない時だとも思い直す。
教育係は一息ついてから、わざと頬を緩めて唇を開いた。
「わかりました。決してエレーナさまの思うようなお話ではないかもしれません。それでもよろしければ」
「お父さまや、年配の臣下たちが口を閉ざしていたことから……少しは覚悟はしています」
カインは頷き、地図帳の一箇所を指でさした。
「かなり昔のことですが、諸島で一つの事件があったそうです。わたしは生まれていなかったので詳しく知りませんが」
――嘘だ。わたしはそこにいた。
ここに転生してくる直前のことだ。
脳裏の奥深くに、忌わしい記憶がよみがえってくる。カインは目の前にいるエレーナに悟られないようにと、彼女のノートを自らに引き寄せた。
「当時の国家元首は妻子とともに、呪術師たちにより陥れられたのです。最期は宮中を遠く離れた諸島で命を落としました。処刑という形です」
「処刑……」
エレーナはつぶやいて瞳を伏せた。
「どうしてそんな……。国民から、そんなに憎まれていたっていうことなの?」
「呪術師に貶められたのですよ、国民ほとんどが、上手に煽動されたのです」
カインは同時に思っている。あの時、魔王が当時のルーンケルン国王の首を刎ねた、とは口が裂けてもいえない。
今なお、カインはエーベルと交わした会話の一言一句を記憶している。あの時は東の国にいたのだ……。
「あの程度の『呪術』で人の命を葬れるとでも思っているのですかね、彼らは」
エーベルとカインは海軍司令室にいる。カインは椅子に深く腰掛けていた。後ろにある壁には、侵略に成功した箇所は赤く囲ってある地図がある。大陸はあらかた真っ赤に染まり、ルーンケルン周辺の諸島もいくつか赤く塗られていた。
彼ら二人は先ほど謁見に来た、腰に巻いた布切れだけのみすぼらしい身なりの呪術師を体よくあしらい、帰したばかりだ。
「あれでは無理だろうな。能力がなさすぎる」
カインは鼻で笑ってみせた。
「彼らは我々以上に金や権威で簡単になびく。しかも目先のことしか見ていない。わたしが言うのはお門違いだが」
エーベルが白銀の髪を直しつつ、カインに向かって顔をぬっと突き出してきた。
「それで、これからどうなさいます?」
「西に向かうためにも、ルーンケルンは我々が統治する。王族の血族も根絶やしにしたい。それにはまず、現国王に国民の憎しみを一身に集めることだ。戦況が苦しいのも、なにもかも彼のせいにすればいい」
「具体的な方法は?」
「呪術師たちを使う。あんなゴミ共でも、国民を扇動することくらいはできるだろう。報酬は目の前にぶら下げておけ。結果を出してからくれてやるとでも言えばいい」
エーベルはうれしそうに頷いたが、次の瞬間に小さく舌打ちをした。
「先ほどの呪術師をまた呼ぶのですか? わたしたち以上に食えない男ですし、身の丈以上に報酬を求めてきますよ」
カインは鳶色の目を細めてエーベルを見遣った。
「こちらは彼らの能力以上のものを要求してやったらいいだろう。報酬は歩合制だ」
「なるほど」
教育係は、自分を呼ぶ女王の声で我に返った。
「カインらしくもないですね、ぼうっとして」
エレーナは彼の目を見て、くすくす笑っている。カインは照れくさそうに笑い、女王を見つめた。
「わたしらしく、ないでしょうか?」
「ええ。あなたはいつでも、わたしのそばにいますから、大概のことは顔をみればわかります」
彼女はごく自然に、思ったことを言葉に出したように見えた。カインは「えっ」と言い、エレーナを凝視してしまう。
「わたし、なにか変なこと言ったかしら?」
あわてたエレーナがカインから目線をそらす。その顔を見ていたカインの頬が赤くなった。