29 二位
アニメ、マンガ、ゲーム。いずれも地球で築かれた娯楽文化であることくらい知っている。
それこそが自分の世界だと断言したカノンに、怒りや憎しみ、ついには殺意を通り越して唖然としてしまった。
「貴方はそんなものに傾倒して、変わったとでも言うの?」
「そうだ、俺の人生にして生きがいだ。君もどうだ?」
「絶対に嫌」
「なぜだ?」
「そんなの子供の娯楽でしょ? つまらない。試す価値なんてないわ」
「中身も知らず、なぜつまらないとわかる? 周りがそういうものだと言っていたから、つまらないものだと流されているだけだろ」
言葉に詰まった。
胸の奥にある小さなプライドが、周りに流されている、なんて扱いをされたのが傷ついた。それは違うとハッキリ声に出せないからこそ、返答を窮するのだ。
「なら、比べてみろユーリア。小耳に挟んだ世間の価値観と、黒き黎明を手にした男の価値観。どちらの価値観が面白そうだ?」
屈託のない笑顔を浮かべるカノンに、問いかけ以上の驚きを覚えた。
カノンという男を知ってから、彼の笑顔は仮面であることを悟った。場に応じた模範的な笑いは、いつしか薄気味悪さを覚えたほどだ。
そこに浮かぶは、人の営みの中で生まれる自然な笑顔。この男にそんな機能があったことに、声を失うほどの衝撃が走った。
私の知るカノン・リーゼンフェルトは死んでしまった。
それだけが明確な事実として、受け止めざるえなかった。
「今更……貴方のことなんて信じられるわけないじゃない」
希望を持たせるだけ持たせて、期待を煽るだけ煽って、あっさりと前言を撤回し、一人楽しそうな世界を見出したこの男が、あまりにも憎らしかった。
「なら、また幸福が得られる幸運が降りてくるのを待つのか? そんな人間に待っているのは得てして、騙され食い物にされる未来だぞ」
「ええ、確かに騙されたわ。いい経験ね。一生恨んでやるわ」
「一生恨むほどの熱量があるのなら、もう一度騙されて……いや、俺の世界を覗いてみろ。なに、ダメで元々。降って湧いてくることに時間を浪費するくらいなら、新しい価値観を少しは試してみろ。案外、面白い世界が転がっているかも知れんぞ?」
カノンは仮面ではない微笑みを向けた。
なぜこんなにもしつこいのだろうか。放っておけばいい。なぜそこまでして、私の手を引っ張ろうとしてくるのか。
「もし俺の世界がつまらないと答えを出したとしても、俺の世界はあらゆる世界の入り口に繋がっている。その中でも、興味が湧いた世界を新たに試してみればいい。
だからユーリア・ラクストレーム。一度は騙した責任を取れと言うのなら良いだろう、男らしくここは責任を取って、君がその幸福を見つけられるまで、いくらでも付き合おう。それまでは俺も、神となるのも声優との結婚もお預けだ」
胸を張るように、カノンはそう言い切った。
カノンという人間に思い入れはないのだけれど、人の変わりようは不安になるほどだ。
私は、幸福を得られないなりに、怒りと哀しみは一人前の人間である。
人任せの航海で幸福を得ようなど、愚かであるのは心の底では承知していた。なにもしないでおいて、突然行き先が変わったと告げられても、憤る権利などないのだ。
けれど一人前の感情が、この男を憎いと叫んだ。信じてはいけないと警笛を鳴らした。
今日カノンが口にしてきた数々は正論である。動かないのはただの怠惰であり、つまらない時間が流れるだけ。同じつまらないなら、試すだけ試した失敗も、無為に流れた時間という意味で同じである。
ダメで元々なら、失望することはない。
伸ばされた手を掴むのを躊躇っているのは、ユーリア・ラクストレームという女の意固地なプライドだけであった。いっそ捨ててしまえるのなら、どれだけ楽であるか。しかしそのプライドこそが、私の人格形成の多くを占めているらしい。
真っ直ぐと見つめられている内に、いつしか私はその目を逸らしていた。
このままでは自分の中が変わってしまう。
それが恐ろしく、怖くて、新たな――
「渡辺」
そんななにかが変わらんとする私を阻むように、もしくは守るように、横合いから声がもたらされた。
声がした方角。塔屋へと目を向ける。
煌宮蒼一がそこにはいた。
ここには私とカノンだけ。渡辺なんて記号を持つ者はいないはずなのに、
「なんだ、佐藤……?」
カノンが返事をする。そして煌宮蒼一をそう呼ぶことこそが正しいとばかりに、佐藤だなんて口にした。
小さな舌打ちが聞こえた。カノンの眉間はピクピク動いており、皺を寄るのを堪えるように見えた。
「思い出したよ」
蒼き叡智を手にした落ちこぼれが、どんな人格なのかは私は知らない。今日まで知ることもなければ、興味もなかった。
それでも彼が出すだろう音が、本来より低かろうとはわかった。
「……蒼グリにはヒロインじゃないのに、人気投票ではサクラを抜いて二位のキャラがいたな」
蒼一から紡がれる言葉の意味は、なにひとつわからない。
唸るようなうめき声がした。見るとカノンの額には冷や汗が浮かんでいる。その顔は戦慄すら覚えているようだった。
「どれだけ痛くて、苦しくて、そして辛くても、おまえは道を乗り越えると言った。蒼グリの世界へ来たなら、魂の嫁に命を捧げるとまで語っていた」
蒼き叡智を手にした男がこちらを一瞥する。
「オタクの神となり声優と結婚する? ハッ、まんまと騙されたよ。魂の嫁がいる世界で、そんな安易な道をおまえが行くわけがないっていうのにな」
凄みながら蒼一はカノンを睨みつけた。
「ユーリア・ラクストレーム。最初からおまえは、その一点狙いだな」
いつの間にか、蒼一の手には魔道書が顕現していた。
「離れろ、ユーリア。こいつはもう、おまえの知っているカノンじゃない。おまえの身体を貪りたいだけの、薄汚いただの気持ち悪いオタクだ!」
煌宮蒼一は吐き捨てるようにカノンをそう評した。
なにを一体言っているのか。この身体が未発達であるのは、自分が一番承知している。十六を迎えようという歳でありながら、短躯であり胸部も子供のそれと変わらない。とてもじゃないが男の情欲を煽れる身体ではなかった。
女として自らの肉体に劣等感を覚えたことはない。だがリリエンタールのお姫様のような肉体と並べられたとき、男がどちらを選ぶかくらいはよく承知していた。
カノンが私の身体を狙っているなんて言われても、鼻で笑ってしまう。
「一緒にするな処女厨が! ワンクールごとに嫁を乗り換えるにわかと違い、俺の想いは邪な気持ちだけでは断じてない! 俺は心の底から、ユーリアたんにこの愛を、そして魂を捧げている!」
脳が掻き回されるほどの意味不明な叫声が上がった。
ついに頭の処理が限界に達したか。目の前でなにが起きているかわからない。ただ唯一得られた感情は『ユーリアたん』という響きに気持ち悪さを覚えたくらいだ。
「おまえが過去に、どれだけ俺の邪魔をしてきたか忘れたか? 貴様のその本懐、絶対に遂げさせんぞ、渡辺!」
「次元を超え、ついに辿り着いたこの世界。その夢の前に立ちはだかり邪魔をするというか、カスが。いいだろう佐藤。鈴木には悪いが、貴様をここで葬ってくれる!」
肌が粟立つほどのマナが轟いた。
これがマナに直接訴えかける、黒き黎明の力か。
蒼き叡智の魔導書が光り輝く。
オドとも違う、マナとも違う、未知の力の奔流を感じた。彼は既に、蒼き叡智を使いこなしているとでも言うのだろうか。
一触即発。次の瞬間には今にも殺し合わんとする二人。
「がっ!」
いつの間にかカノンの背後を取っていたサクラが、その頭部に刀を振り下ろしてた。
呆気なく倒れ込むカノン。出血していないことから峰打ちなのだろう。刀で自らの肩をポンポンと叩きながら、サクラは倒れたカノンの頭を踏みにじっている。
「全く……なにしているのよ、あんたたちは」
塔屋には煌宮蒼一の代わりに、なぜかクリスティアーネが佇んでいた。かの蒼の賢者が残した聖遺物、蒼剣ブラウエーデルシュタインを手にしている。おそらくサクラのように、それで蒼一を気絶させたのかもしれない。
煌宮蒼一がどれほどの力を持っているかはわからぬが、カノンとやりあったら周囲への被害は甚大だったろう。二人はどうやら、それを止めたようだ。
気絶した煌宮蒼一に肩を貸すような体勢で、飛び降りてくるクリスティアーネ。私に一瞥をくれることもなく、扉から煌宮蒼一を連れて出ていってしまった。
一方、気絶したカノンの片足をずるずると引きずるサクラ。
ふと、思い出したようにこちらを見ると、
「庭キャン、来るの?」
「い、行かないわよ」
「そう」
私に興味を失ったかのように屋上から去っていた。
一人屋上へ取り残された私は、
「……なんだったの、あれ」
とだけしか声を漏らせなかったのである。




