70. (エピローグ)もう一度呼んで
もう屋敷まで着いてしまった。
王城から屋敷は、馬車ならあっという間だ。
あんなに何度もキスをしたというのに、名残惜しく思ってしまうなんて、私は欲張りだ。
「それじゃあグリーゼル。また今度……?」
思わずレオポルド様の裾を掴んで、引き留めてしまった。
さすがに迷惑かなとも思ったけど、もっと話したいという気持ちが抑えられない。
「あの……お父様が帰ってくるまで、お茶でもいかがですか?」
私が恥ずかしさに喘ぎながら言うと、レオポルド様の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「…………僕のこと試してる?」
試す?
私がレオポルド様を試すなんて、そんな烏滸がましいことはできない。
やはり失礼だったかしら……。
「じゃあお言葉に甘えようかな。僕もグリーゼルと離れがたいと思っていたし」
レオポルド様はそっぽを向きながら口を手で隠しているけれど、なんだか嬉しそうだ。
こんな我儘な私を、レオポルド様は怒らずに甘やかしてくれるらしい。
舞い上がった私は、とびきりの紅茶とお菓子でおもてなしするよう指示した。
応接間で、と思ったけれど、「グリーゼルの部屋が見たいな」と言われて私の部屋にご案内する。
「こちらです」
扉を開けると、殺風景になった私の部屋が目に入り、居た堪れない気持ちになった。
せっかくレオポルド様をお連れするなら、もっと可愛らしい部屋にしておけばよかった。
「綺麗な部屋だね。……でも呪術の本が一冊もない?」
「あ、ちょうど片付けたところだったんです。……その、誰も、もう呪わないように」
「……嗚呼。彼女たちのせいかな? あの言葉はちょっと酷かったよね」
私は意味が分からなくて、俯いた顔を上げて首を傾げた。
「いつの話ですか?」
「闇魔法研究所から帰る時に、ご令嬢から呪いのことで嫌味を言われていたよね。……えと、名前が思い出せないんだけど」
レオポルド様は顎に手を当てて、どうでもいいことを考え込んでいる様子。
私もあのご令嬢の名前は知らない。
「そうではなく、聞いていらしたんですか? 聞こえないように扇子で隠していたのに」
「僕が音を操る風魔法が得意なの忘れちゃった?」
「ぁ……」
そうだわ。
フーワも元々はレオポルド様の風魔法を再現しただけ。
直前の闇魔法研究所でも、声を操っていた。
「あの後、ちゃんと彼女には忠告しておいたよ。君にもそう伝えようと思ったんだけど、なかなか会えなくてね」
レオポルド様の面会を断っていた私は、申し訳なさに顔を隠した。
だってレオポルド様にだけは合わせる顔がないと思っていたから。
「呪術はグリーゼルの才能だ。僕も君の呪術に助けられた。魔道具だって君がいなければできなかったよ。それに……」
レオポルド様は私に試すような視線を向けた。
「あんなに楽しそうに呪術で魔道具を作っていたのに、やめちゃうのかい?」
私はドキッと鳴った胸を押さえた。
図星だ。私は呪術が楽しい。
嫉妬みたいな醜い感情だって、呪術にのめり込んでいるうちは忘れられた。
「もう大丈夫です。呪術はやめません。レオポルド様が認めてくださって、あんなにたくさんの方にお褒めの言葉をいただいたんですもの」
呪術で卑屈になることはもうしない。
それよりも前を向くことを考えたい。
「それに……レオポルド様の婚約者として、ご令嬢の嫉妬くらい受け流してみせますわ」
レオポルド様の頬にポッと赤みが差す。
「悔しいな。もっと僕が守ってあげたいのに。君は強いから」
「もう……充分過ぎるほど、守っていただきましたわ」
「ねぇ、グリーゼル。今度こそ僕のこと愛称で呼んでくれる?」
「愛称ですか?」
そういえば以前も愛称で呼んでもいいと言われたことがあったっけ。
愛称なんてエルガー殿下にすら呼ばせてもらったことはなかった。
あの時は婚約者でもないからお断りしたけれど、今は……。
「……レオ様」
小声になってしまった……。
私は恥ずかしくなって俯いた。
レオポルド様の顔が見られない。
すると立ち上がったレオポルド様の足が近づいてくる。
そして私の隣に腰掛け、前髪にキスを落とす。
「ごめん。あんまり嬉しくて、待てができなかった」
顔を上げると、嬉しそうに顔を綻ばせたレオポルド様がいた。
密着するほど近い距離にいるレオポルド様は、私の両手を優しく包んでもう一度おねだりする。
「もう一度呼んで」
「レオ様」
今度はレオ様のお顔を見ながら呼んだ。
愛称呼びはやっぱり恥ずかしかったけれど、レオ様も私と同じ気持ちなら出来るだけおねだりに応えたかった。
「うん。嬉しいよ、リズ」
「え……今、名前……」
不意打ちはずるい。
まさか私まで愛称で呼ばれるとは、思っていなかった。
その幸福感に胸がキュッと締め付けられる。
「ずっと考えていたんだ。グリーゼルのことなんて呼ぼうかと。グリーとかリズとかゼルとかいろいろ考えたけど、リズがいいかなって。どう?」
「わたくしも嬉しいです」
「よかった。好きだよ、リズ」
更なる追い討ちに意識が飛びそうになる。
さっき一際大きく鳴った心臓は、未だに余韻だけで早鐘を打っている。
そしてお父様が帰ってくる夜更けまで、私たちの甘い時間は続いた。