花に託した情熱。
「君との婚約を破棄したい」
「えっ…」
殿下にそう言われ、私は一瞬言葉を失う。
ここは学園の門前。下校する生徒たちが群れをなす場所。
近くにいた生徒が会話の異変に気付き、そこからさざ波のようにこちらへ向く視線が広がる。
「そういうお話は場を改めていただけると…」
「いや、今ここではっきりさせておきたい」
殿下は自分の横に立つ少女をちらりと振り返った。
質素な衣服をまとい不安そうに殿下を見上げる表情は誰もが守ってやりたいと思うだろう。
事実、殿下もやさしく笑み、一つ頷いてから私に向き直る。
「私は彼女を愛してしまった。彼女と添い遂げたい」
「…陛下はご存知でしょうか?」
「これから伝える。その前に君へ誠意を示したくて」
「そうですか」
少女と目が合った。
か細く「ひっ」と怯え、殿下の腕に縋る様は、男性には可愛く見えるのだろう。同性の視点で見たら、分かりやすくあざといけれど。
私は少女を無視して殿下に問う。
「その方とはどこでお知り合いに?」
「町で出会ったんだ。その…君に贈る花を探しに入った花屋で」
照れくさそうな表情は、殿下を淡い初恋のまっただ中にいる、普通の少年に見せる。
「殿下のお気持ちは承りました。今後その件については大人の方で話し合いになるかと思いますので、私はそれに従います。どうぞお幸せに」
「私たちを応援してくれるのか」
「そうは申しておりません」
これがいわゆる恋愛脳かと零れそうになるため息を飲み込み、私はもう一度殿下を見る。
「お話がそれだけでしたら、下がってよろしいですか?」
「うん」
私は一礼して迎えの馬車へ乗り込む。
「さて、これからどうなるのかしら」
できればごたごたしないと良いのだけれど。
私は車窓から薄い水色の冬空を見上げて、やっとため息をつけた。
数日後、殿下と私の婚約はあっさり解消された。
王家と我が家でどんな話し合いがあったのか、詳しくは聞いていない。
隠されたわけではなく、両親の説明を私が断った。
どんなやりとりがあったとしても、結果は同じだし、この話題に興味はなかったから。
殿下の婚約者ではなくなったら、王宮絡みの分刻みスケジュールもなくなりおだやかな日々が私に訪れた。
そのおかげで趣味の時間が増えてうれしい。
学園から戻ると私専用の温室と化しているサンルームへ足を向ける。
「やぁ、おかえり」
そこには自分の居城にいるかのようにくつろぐ、王弟殿下がいた。
「ただいま戻りました」
「待っていたよ、お茶にしよう」
「はい」
王弟といっても国王陛下とかなり歳が離れていて、私より五つ年上なだけ。
長兄の学友でもあり、昔から我が家をよく訪れていた。
来訪に慣れている私は驚かないし、侍女たちもいそいそお茶を出してくる。
「今日はどのようなご用でしょうか?」
「南の国から花が届いたんだ。君に見せたくて」
王弟殿下が侍従に運ばせてきたのはあざやかな花弁を持つ花だった。
「これはブーゲンビリアと言う」
「……初めて見ます」
「私もだよ」
「花弁がフリルのようでかわいいです。しかも華やかで上品さもありますね」
「気に入ったのなら置いて帰ろう」
「えっ……でも、貴重な花ではないのですか?」
趣味が高じて、他者より花に詳しいと自負している。その私が初めて見るのだから、簡単にもらう訳にはいかない。
固辞すれば王弟殿下は微笑した。
「ただ見せびらかしに来たんじゃないよ。君の好みではなかったら持ち帰ろうと思っていたけれど、元々プレゼントする気だった」
そう言われると、興味が勝って受け取ってしまう。
「花は赤と白なのですね」
「掛け合わせたらピンクが出るかもしれないね。他にも黄色や紫もあるらしい」
王弟殿下の言葉に私の胸が高鳴った。
園芸は私の唯一無二の趣味だ。
「君は本当に花が好きだね」
鉢をそっと手で包み、うっとりと見つめていたら、王弟殿下が笑みを含んだ声で言う。
「人には興味が薄いけれど、花にはそんなやさしい眼を向ける」
「兄たちには変わり者と言われております」
「そうだね、未来の王妃の座なんて誰もが憧れるポジションをあっさり手放すしね」
私は顔を上げて王弟殿下を見る。
「後悔はしないかい?」
「婚約のことでしょうか? はい」
頷けば、殿下は両肩をすくめて足を組み替えた。
「即答! 気の毒だな。あいつは君のことが大好きだったのに」
「そうでしたか?」
「そうだよ、君のために王都中の花屋を廻って気に入りそうな花を探すくらいには」
それを聞いて私は純粋に驚いた。
「殿下は私のためにそんな努力をしてくださっていたのですか?」
「知らなかった?」
「存じませんでした。そんなご足労をお掛けしていたなんて…」
恐縮すれば、王弟殿下はまた笑った。
「そこで私のためにうれしいわとならないのが、君の魅力なんだけどね。あいつはまだ子供だから、分かりやすい方に流されてしまった」
王弟殿下は微笑を浮かべたまま、私をじっと見据える。
「でもあいつは、気付いてしまったよ」
「なにを…でしょうか」
「花屋に行っても、なんの張り合いもないことに」
どういう意味だろう。
私が首を傾げると、殿下は静かに口を開いた。
「君のために花を探していて、あの少女と親しくなった。会話の中心は君と、君好みの花のことだった。君との婚約がなくなって、花を探す必要がなくなったら、少女と話す内容もなくなったらしい」
「は…?」
「おや、君の気の抜けた顔はめずらしいね」
「失礼いたしました」
「可愛かったよ」
「お戯れを」
つい口をぽかんと開けてしまった。淑女としてありえない失態に頬が熱くなる。
「分かるよ、私も聞いた時はまぬけな表情になったから」
「はぁ…」
「花屋の少女の思惑は分からないな。純粋に恋したのかもしれないし、王族という地位に目がくらんだのかもしれない。どちらにしても、ずいぶん強気に迫ったようだ。あいつはむきだしの好意を向けられ、目がくらんだ」
「そう…ですか」
「あいつは本当に愚かな決断をした。君と婚約破棄するなんて」
理解できないと首を振る王弟殿下に私は礼を言う。
「慰めのお言葉をありがとうございます」
「君は花のような女性だ」
「え?」
「生きるために発芽し土中に根を張り、葉や茎を伸ばしたくさんのものを吸収する。花が咲いて実を結び、次世代へ命を繋いで枯れていく。その様子がひたむきで、健気で君を見ているようだ」
戯れの言葉かと思って聞いていた私は、王弟殿下の表情に瞠目した。
口元に笑みを浮かべたまま、瞳は真剣に私を射貫いている。
逆らい難い覇気が生まれ、サンルームを不思議な緊張感が支配した。
「常に努力を怠らない。どんな環境でも平常心に務める。そういう君だから美しいと思う」
「……光栄です」
「口説き文句にも冷静だね」
「そうでしょうか」
「うん、強風に煽られてもしなやかなままだ」
「一言、よろしいですか?」
「もちろん」
「……王弟殿下の例えは分かり難いです」
「そうか!」
私の不敬スレスレの言葉に王弟殿下は破顔した。
さっきまでの場の緊張感が一気に払拭される。
「私も言いながらそう思っていた。これじゃあ伝わらないなぁ。あいつの二の舞だ」
「はぁ…」
「でも男なんてものは、決めたいときに空回りする生き物なんだよ」
王弟殿下は組んでいた足を下ろし、ひざの上で両手を祈るように組んで私の方へ前のめりになる。
「君が好きだ」
「………」
「これからは私の側で花のように美しく咲き続けてほしい」
「……花はすぐに枯れます」
「そうならないよう、私が君を大切にしよう」
「私は変わり者です。人より花の方が好きです」
「私もだよ。他の人より君の方が好きだ。お似合いだね」
軽い口調で、でも暖かくて包まれるような空気がサンルームに満ちる。
「無理強いはしたくない。その気がなければこの場ですっぱり断っていい」
「無理しておりません」
私の返答はかすれて小さい。
「私と結婚してほしい」
「……王弟殿下のお心のままに」
声が震える。心臓が早鐘を打って、体が勝手に熱くなる。
王弟殿下はそんな私を目を細めて観察していた。
「あいつの時みたいに……王族からの命令だから、断れないとか思っていない?」
「思っておりません」
「君は私をどう思っている?」
「物好きな庭師のような方だと感じております」
「君の言葉も分かり難いよ」
そういうところもお似合いだ、と王弟殿下は立ち上がった。
「お帰りですか?」
「侯爵に結婚の許可をもらいに行ってくる」
「陛下の方は……」
「根回し済みだ」
実は書類もすでに作成してある。
そう言う王弟殿下を目をぱちくりさせて見上げれば、いたずらが成功した子供のように笑った。
「お嬢さま、新しい鉢植えはどこに置きますか?」
「私の部屋に」
「かしこまりました」
先程の会話を思い返しながらブーゲンビリアを眺める。
かなりぼんやりしていたのだろう。気付けば日が暮れていて、父が戻ってきた。
手には書類の束がある。
「陛下の許可が下りた」
「……はい」
「王弟殿下はお前が卒業したらすぐにでも結婚式を挙げたいとご希望だ」
「はい」
「いいのか?」
「……はい」
「そうか」
父は凝った首を回しながらため息をつく。
「王宮で少しもめた」
「もめた?」
「王弟殿下の書類が受理される直前に、王子殿下がお前との婚約破棄を撤回、再婚約したいと言ってきてな」
「えっ?」
「気が変わられたらしい。だがさすがに身勝手だと陛下が叱られて、お認めにならなかった」
「そう…ですか」
花屋の少女との間にどんなやりとりがあったのか。
少しだけ興味を惹かれたけど、それより婚約破棄を撤回されなくてよかったという思いの方が強い。
「私は、王弟殿下と……婚姻できるのですよね」
「……あぁ。よかったな」
父は不器用な娘だと私の頭を撫でる。その手はやさしい。
「そうだ、これは王弟殿下から」
シンプルな白い封筒を手渡された。
封を切ればカードが一枚入っている。
そこにはブーゲンビリアの花言葉が記されていた。