196.海への道のり――ライフジャケットと拠点
他の船が漁から戻ってくる少し前にピノは船を港の桟橋に着けた。
クロエに何回もお礼を言われてピノは照れくさそうにしていたが、最後にクロエの頭を撫でてこう言った。
「まあ、また船に乗りたくなったら来るとええよ。ただ、今回と同じだと船を集めるのに少し時間がかかるけんどな。あと、そっちの狩人さんは、後でギルドによろしくな?」
嬉しそうに頷くクロエの斜め後ろで、レベッカは
「あー、はい」
久し振りの狩りだと楽しみに感じる部分と、船上でライカから聞いた条件で気鬱な部分が入り交じり、レベッカは微妙な表情でそう答える。
その横でエミリアは、ピノに丁寧に頭を下げ、謝意を伝える。
「ピノ船長、お嬢様も大変満足しております。今回はありがとうございました。報酬は事前のお話に加え、少し色を付けさせて頂きます」
「何、船が好きなら儂らの仲間みたいなもんだ。何かあったらまた声をかけとくれ。ところで、あんたらが着とるライフジャケットじゃが、買ったら高いんじゃろうな?」
ピノがそう尋ねると、エミリアは、それならライカ殿が、とライカを引っ張ってくる。が、
「ライフジャケットはまだ市販しておりませんが……レン様?」
と、今度はレンを呼ぶ。
「ん? 可能な限り安くする。人口を増やすには、減らさないことも大事だからね。だからライフジャケットの素材は、樹脂以外はどこでも手に入る物を使ってるし、樹脂だって木さえ見付ければ手に入るから、原価計算はその前提で計算して。最初はやや赤字でも構わないよ。俺の人件費も計上しなくて構わない」
必要なら補填するから、とレンが笑うと、ライカはその必要はありませんが、と、レンが説明した素材と、必要な縫製難易度からザックリとした価格を計算する。
本来であれば、大量に売るような品物ではないため、ライフジャケットのような商品は開発費用がやや嵩むことになる。
しかし、レンがその部分は計上不要と言っているため、開発費を除外するとかなり安価になる。
素材は商会が元々扱っているものなので、そちらについては新しく仕事が発生したりはしない。
流通は元々の行商の馬車に乗せるだけ。
大々的な宣伝は行なわず、むしろ、街道の東端の街で使われればそれが広告塔になる。
新製品を作るために細工師を増やせばその分は新規の投資となるが、売れ行きが悪ければ、既存商品の生産に切替えれば済む話であるから無駄とはならない。
と、そのように考えてライカはザックリとあたりをつけた。
「でしたら……麻とコルクなら安価なものを扱っていますので、それを回せば村人が買う新品の上着、くらいの値段におさえられると思いますわ。ただ、今私達が着ているものと比べると細工師の腕の差で、やや粗が目立つと思いますが」
「ほう……それなら、それ、試させて貰ってもよいかの?」
「ライフジャケットですか? ピノさんの体格だとレン様のが……あ、ありがとうございます。こちらでいかがしょうか? ……ああ、大丈夫そうですね。これを着るときに大事なのはしっかり固定することですわ。ボタンは絶対に全部閉じてくださいまし。緩いなら裾などに通してある紐を引っ張って縛る……と、こんな感じですわね。苦しい部分はありませんか?」
レンが着ていたライフジャケットをピノに渡して、着方を説明する。
そして、可能な限り、あまり硬いものにぶつけたりしないように、等と注意点を告げる。
「ほう……中に浮くのが入っとるんだろ? それがちょっと邪魔じゃが、思った程ではないようじゃな……ふむ……実際に試してみても良いかの?」
「試す? ……ああ、どうぞどうぞ」
ライカが海に向って、どうぞ、と手で示すと、ピノは楽しげな表情で、勢いよく体を捻りつつ、頭から海に飛び込んだ。
痛そうな音を立てて海面に背中をぶつけ、大きな水柱を立ててピノの体が海中に没する、が、数秒後、ぷかり、とコルクの浮力でピノが海面に顔を出す。
「ほ……すぐに浮かびおるわい。水中で上下が分からなくなっても問題ないんじゃな……どれ」
くるり、と体を丸めて海中に潜ろうとしたピノは、服の浮力に邪魔されて、数秒ほどで再び海面に顔を出す。
「これは良いの。夜の海では無闇に泳いで海底に沈む者もおるが、服がそれを許さんのか……潜る必要がある場合は、ちょっと困るかも知れんが、まあ脱げば済む話じゃな」
波に巻かれて海中に没したとき、日中なら明るい方が海面である。
空気をほんの僅かだけ吐いて、泡が上っていく方が海面である。
そんな見分け方がある。
それがあるのは、人間が荒れた海の中に放り出されてパニックに陥ったりした場合、上下を見失うことがあるからである。
空気を求めてがむしゃらに泳いでも、進む方向を間違えて、真横や下方向に向えば息が切れて溺死する。
だが、ライフジャケットを着ていれば、夜間の海に落ちても服が勝手に海面に浮かぶ。
それに加えて。
「よく出来とるのう。海面に顔を付けておくのが難しいわい」
人体を錘と見做した場合、浮体の配置によって、ジャケットは上半身を水面に近づけようとする。
そして首回りと前身頃の浮体の力で、息を吐き切って人体の浮力がほぼなくなった状態であっても、顔面は海面に出る。
夜の海に放り出されて、間違って海底に向って泳ごうとしても、浮力がそれを許さず、意識を失っても呼吸が可能な状態になる。
これなら突然水の中に落ちても溺れる危険性は大きく低下する。
新入りには最初の3年はこれを着せておけば、つまらない事故は随分と減るだろうと、海面に浮かびながらピノは考え、どこでライフジャケットを注文できるのかとライカに尋ねた。
聞かれたライカは、少し考えてからレンに尋ねた。
「ではレン様、既存の商会の行商に加えるということで、よろしいですね? 窓口は商業ギルドに委託を……」
「いや、待った……よく考えたら、その方法だと問題があるよ」
「問題ですか?」
レンは頷く。
「まあ、頑張って値下げしても平民が買うには結構な出費になる。ものが命を守るための道具なだけに、安心して買えるようにしとかないと不味いかな、と思ってね」
「安心……ですか?」
ぷかぷか浮かんで色々試しているピノを眺め、あれなら十分に安心できると思いますが、と呟く。
「うん。まあ品質には安心して貰えるのは大前提だけど、同じくらいに大事なのが、簡単に保守をして貰えることだと思うんだ」
普通の服なら、街や村にいる細工師に頼めば直して貰える。
だが、ライフジャケットには普通の細工師が知らない浮体が入っている。
それが割れたり破れて抜け落ちたりしたとき、知らない者では直し方が分からない。
だが、壊れたからと遠方の街に修理依頼を出せば、戻ってくるまでは数ヶ月かかるかも知れない。
命を守るための道具が数ヶ月間もない状況は望ましくはない。
だから、最低でも注文を受け付ける街には直せる者がいなければならない。
とレンは説明をし、ライカはそういう事ですか、と頷く。
「……そうしますと、この街に修理に対応出来る支店を作る感じでしょうか?」
「似たようなものかな。ほら、今俺たちが泊まってる家って、商会の所有だろ? なら、あそこに細工師の師弟に入って貰って、弟子は受付も対応して貰う感じでさ」
「師弟? 弟子が受付? あの、どういう仕組みを考えてらっしゃいますか?」
理解出来ずに申し訳ない、と謝りながらライカが訪ねると、レンは、分からなくて当然だ、と笑った。
「まず、支店と言ったけど、実際には生産拠点兼注文・修理受付窓口って感じかな。ライフジャケットは受注生産。一応、急ぎの客にも対応出来るように大中小で数点ずつ在庫を持つけど、ストックはサイズごとに5個もあれば十分。で、生産拠点での仕事はライフジャケットの受注と生産と修理。そうした仕事がない場合は、商会が扱う衣類を作って貰うのと、商会の行商人の宿泊のために建物の維持管理もお願いするって感じでどうかな?」
「なるほど。師弟にするのは人手の確保が目的……いえ、違いますね。それなら普通にメイドを雇う方が安く上がりますから」
「ん。ライフジャケットの作り方は師弟に仕込んで、弟子の方は、いずれ街道の反対側に行って貰いたいんだ」
街道の反対側と聞き、ライカは本島の地図を頭の中で広げた。
本島を東西に走る街道。
現在位置はその東の果てである。
となれば反対とは。
「……街道の西の果ての海岸線の街ですか?」
ライカの問いにレンは頷いた。
が、ライカは少々困ったような顔をする。
「本島の端から端までとなると、かなりの距離になりますわ。行って貰うには、この街に二度と戻らないほどの覚悟が必要になるのですが……」
本島を横断する街道はざっと800キロ。これは街道沿いに直線を引いた場合の距離である。
そして、この世界の一般的な馬車がノンビリ走る速度はヒト種の早歩き程度。
実際には馬の休憩や水や飼葉の補給などでもっと時間が掛かるが、一日に40キロを移動するのであれば、休まず進んでも20日掛かるのが800キロという距離だ。
そして何より、結界の外を進むなら命の危険もある。
ひとたび街道の西の果てまで行ってしまったら、滅多なことでは東の果ての街まで帰ってくることはできない。
「あー、そんな事になるのか……なら弟子はなしにして、メイド兼受付ってことにするか……西の果てについては、学園の生徒で適当なのがいたら仕込むことにすればいけるかな?」
「受けてくれる生徒がいるか……いえ、西の果て行きを受けることを条件に、複数の職業を学ぶ機会を与える、とすれば問題はなさそうですわね」
と、ライフジャケットの性能を堪能したピノが海から上がって来る。
「もしかして人手が足りんのじゃろうか? この街で修理を受けて貰えるなら、儂らも可能な限り協力するが?」
ピノにそう聞かれ、レンは首肯した。
「今の世の中、何をするにも暇な人なんていませんからね」
「そうじゃな。じゃが、儂よりよぼよぼの爺さんや、漁師の家族なんかに声を掛ければ何人かは見付かると思うぞ?」
「それなら……細工師と、宿屋の世話が出来るような人がいたらお願いします」
「ふむ。それなら何人か心当たりがおるが、どこに行かせれば良いかの?」
「ライカ、住所を」
ライカは、この町の家の場所をメモした紙をピノに渡す。
それを見てピノは、
「ありがたい、比較的、海に近いから通いでも住み込みでも大丈夫そうじゃ」
と呟く。
「それでレン様、支店長はどうしましょう?」
「何かあった時に話を聞いて、ライカに連絡できる責任者か、せめて代理がいないとまずいか……とは言っても俺は今の商会の実態を知らないんだけど、商会にも支店長を任せられるような人材の余裕はないよな?」
「残念ながら、そんな人材は……あ、レイラが連れてきたマリオなら、番頭見習いでしたわね」
「ライカのファンだろ? こんな遠くに飛ばされるのは拒否しないか?」
「……ならこうしましょう。マリオにここを任せ、3年以内に次代の支店長、もしくはその代理でも育成したら、また私のもとに呼び戻す、と」
ライカはこともなげにそう言ったが、一から人材育成をした場合、それはほぼ不可能に近い。
新入社員にエリート教育を施したところで、3年程度では机上の勉強だけでそこまで育てることは不可能に近い。
経験がものをいう部分もあるため、一定年数の現場の経験も必要となるためである。
「……マリオってそこまで優秀……ああいや、確かに前に話した限り、目茶苦茶頭は良さそうだったか……まあその辺はライカに任せるよ……そうすると俺は、ピノさんに紹介して貰う細工師にライフジャケットのことを教えれば良いわけか」
「マリオの移動にも時間が掛かりますので、支店長の手配は私達が戻ってからになりますわね」
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また、誤字報告ありがとうございます。とても助かっています。
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