斜陽
暖かくて、よく晴れた日の午後だったのだが、式はいつでも薄暗い大神殿の中で行われたため、それはほとんど意味のない祝福だった。
「婚姻の契りは今日ここに結ばれました。我らが証人となりて、この二人を夫婦と認めます」
石の床に、重厚な深紅の布がたっぷりとつかわれたドレスが広がって、参列者の目にも隣に立った男の目にも実に鮮やかだった。
深い赤は女の濃い茶色の髪にもよく似合う、この王国で最も貴いとされる一族の占有色。絶対に他人の色になど染まらんと言わんばかりの強い色が、その繁栄を裏打ちしているかのようだった。
「何がおかしいの、ラフィット」
口の端が上がっていたことにそのときまで気が付かなかったラフィットは、司祭の方を向いていた大きな緑の目が、長い睫毛が突然向けられ、内心たじろいだ。厳粛な空気を破った女の一言に、諸侯と守護精霊像の前で祝詞を述べていた司祭が、口を開けたまま固まる様は哀れだった。
神聖で厳粛で、そして眠気を誘う大祭典での突然のアクシデントに、参列した者の間に緊張が走り、女に問いかけられた金の髪の若者に注目が集まった。
見られた男はというと、油断していた自分が悪いとはいえ、あいかわらず傲慢な女だと思って、小さく息を整えた。
「いえ、あまりに美しくて」
見惚れていました。そう言って事をなだめるのが、かろうじてことを穏便におさめる唯一の方法だと誰もが固唾をのんで見守っていたのだが。
「射落としがいがあるな、と」
淡くきらめく金の髪の、鳶色の目の優男。母親そっくりだと人に言われた容姿で、『春の女神の贈り物』だと評された自慢の笑顔を向ければ、司祭は真っ青になって泡を吹かんばかりの狼狽え様だった。背後の諸侯が息をのむ気配も、ありありと伝わってきた。
女の眉間に深いしわが刻まれる。真一文字に結ばれていた薄い唇が、ラフィットとは対照的に口角を下げる。
そうそう、この顔。そう思ってラフィットは今度は心の底から笑った。
「衛兵。この男を地下牢へ」
大神殿にざわめきが広がる。司祭は立ったまま気絶していた。
「おっと、まいりましたねルイーズ殿下。牢にいたんじゃ今夜は一緒にいられないじゃないですか。新婚初夜にあんまりですよ」
寄ってきた衛兵に両脇を固められながらも、いつもの軽口でラフィットがルイーズを揶揄った。
祭壇の前、二人の視線が挑発的に絡み合う。
しかし決着は呆気なかった。
するりと三日月のように細められた緑の目は、相手を憐れむ色を宿していた。女の右手がさっと振られる。
突如、ガツンっと、ラフィットの左側頭部に大きな衝撃が走った。
「躾のなってない子犬も主人にとってはかわいいものよ。お昼寝が終わったら、寛大な我が傘の下で存分に遊びなさい、坊や」
それから、と、言葉は続けられたが。
「すでに『殿下』ではないの。『女王陛下』とお呼びなさい」
衛兵に両肩を支えられて項垂れた男には、もう聞こえてはいなかった。
――――かくして、大国グレディスの新女王、ルイーズ・エヴァニアと、北の小国ベルヴィエルの王子にして人質、ラフィット・モルガンの結婚式は、気絶した新郎が地下牢に放り込まれる形でお開きとなった。
***
古の帝国が崩壊してから長く続く乱世の中にあって、徐々に各地の勢力図が固まり始めていた。
エヴァニア家率いるグレディスほか、頭角を現しはじめたいくつかの国が、周辺の小国を呑みこむように支配下に置いていく。やがて強国同士でにらみ合い、かろうじて侵略を免れた小国は板挟みの状態となって、あっちに与しこっちに寝返りと危うい生存戦略を舵取る時代となった。
ひしめく強国の北に位置するベルヴィエルも、その例にもれず綱渡りの国策を強いられた。が、12年前、これで何度目かというグレディスへの恭順の折、とうとうベルヴィエルから王子の一人を人質として差し出すことを強要されたのだった。
(それで、まさか一番小さい5歳の王子を差し出すとはな)
異国の暗く湿った地下牢も、ラフィットには慣れたものだった。
この国に送り込まれたときのことは、幼すぎてよく覚えてはいなかったが、後から知識として故郷に兄が複数いることを知った。自分は、最悪何かあっても本国は大丈夫ということで選ばれたのだろうと、大人の冷たい視線に晒される異国の宮廷で随分昔に納得した。
幸いこの12年間、ベルヴィエル国王がグレディスとの盟約を違えることはなく、お陰で人質の少年は17歳に成長することができ、晴れて本日、結婚までしてしまった。
それも、とんでもない相手と。
――――ギイ、と牢に繋がる重い扉が開けられる音がした。
見張りの兵が頭を下げるのとは逆に、ラフィットはようやく来たかと頭をあげる。
「遅かったですね殿……陛下。ずいぶん腰が重くなったんじゃないですか」
暗い地下牢へ供もつれず、自ら明かりを手に降りてきた美しい女に声をかける。
18歳になってまもなく父親に死なれ、即位したばかりの女王ルイーズは、日没後の寒さを凌ぐためか厚いガウンを羽織り、年に見合わぬ威厳でもって囚われの夫を見返した。
「本当に身のほど知らずな坊や。あんまり生意気言っていると、故郷に送り返してしまうわよ」
「望むところですよ」
「体だけ」
「…………珍しいですね。本人確認ができるよう、送るのは首の方が良いのでは?」
ルイーズは見張りの兵に出ていくよう手を振って指示すると、長いまつげの影が落ちる目をまたもゆっくり細めて笑った。
「綺麗な顔なのだから、腐るまでは取っておきたいじゃない。せっかく、この年まで我が国で面倒見てあげたのだから」
悪趣味な脅しだが、ラフィットはこの手の侮辱ははじめてではない。もう何年も前、それこそ彼がこの国に置いていかれてからずっと、目の前の女から言われ続けてきた。
とはいえ、慣れていても、良い気はしなかった。
そして、彼は言われっぱなしでは終われない性質だった。
「懐かしいですね、昔は食べきれなかったパンを隠し持ってカビさせていた、あれも綺麗だと思って取っておいたのですか」
「……犬は本当に、食べ物のことには物覚えが良いわね」
この国で面と向かってラフィットを侮辱するものは既に多くはなかったが、この最高権力者だけはいつまでもラフィットを小馬鹿にしつづけている。
***
ラフィットは人質だった。しかしだからといって、謙虚に大人しく生きてはこなかった。彼は他人しかいない異国で許される限りの本を読み、騎士に混じって体を鍛え、軍略を学んだ。背が伸びるのとともに北国特有の白皙の美貌も備え、見る間にグレディスの宮廷でその重要性と存在感を増していった。
彼は少し面白く感じていた。自分を弱々しく哀れなものと見下していた大人たちや、同世代の貴族の子弟たちが、段々と一目おくようになり、誉めそやし、果ては娘や姉妹の婿として後ろ楯となることを秘密裏に打診してくるようになったのを。
その自尊心に冷たい一矢を放つのは、いつだってひとつ年上の王女ルイーズだった。
彼女はラフィットが初陣で軍功を立てたときも、献策が採用されたときも、噂の美しい未亡人から恋文を届けられたときにも、彼の顔を確認しにきては、ころころと優雅に笑うのだ。
「賢い子犬、雪国でそりを引く以外にも使い道があるなんて、父上はいい拾いものをしたことね」
ルイーズは、美しく、たおやかに、残酷にラフィットの心に棘をうつ。
初めは笑って流そうとしたラフィットもいつしか腹に据えかねて、この女狐にだけは如何な目的があろうとおもねらまいと、反抗的な態度をとり続けてきた。
元来、人の心の機微に聡かった男である、そうと決めればいつも一段上から見下してくる女の神経を逆撫でし、同じ土俵で怒らせるのが日課となった。女の細い眉毛がひそめられ、笑いの消えた顔で衛兵が呼ばれると、密かに「そらきた」と楽しむようにすらなった。どの国がどう裏切るかわからないこの時世、人質を取る側だって、ラフィットをそうそう殺せやしないのだ。
それが、国王の死で急転直下、目下の天敵だった王女の即位が決まると同時に、あれよあれよと自分と結婚する運びになっていた。
ルイーズはこの婚姻を「忠実なベルヴィエルへのご褒美」と言った。常に他国に脅かされるベルヴィエルには、グレディスとの盟約を強固にしたい理由がいくつでもあるだろう。そう思って、ラフィット自身に故国からなんの打診も無かったことについては気にしないことにした。
どうせ、もう今の自分が母にどれほど似てるかだってわからないくらい、記憶もあやふやな人たちなのだから、と。
***
ラフィットのお陰で地下牢までも歩き慣れてしまったルイーズはにやにや笑う男を睨み付けながら、かちゃ、と小さな音をたてて虜囚の鍵を開けた。
反抗的な人質が地下牢や塔に閉じ込められるのも、それを命じた本人が迎えに来るのも、当事者にとってはもはや慣例となっていた。
だから、ラフィットもいつものとおりに固い寝台から立ち上がって、鉄格子の外に出ようとしたのだが。
「出ても良い、だなんてまだ言っていないわ」
「……」
座っていなさい、と威圧的に命じられて、ラフィットは片眉を上げた。今日はいつもと少し違うようだ、と。
「式でのことを根に持っているんですか、随分余裕がないご様子で」
「お前の無礼に私は自分が恥ずかしくなるわ。鞭で打ってしつけるべきだったと」
カシャン、と、牢の扉が閉められる。ルイーズの背後で。
迎えにきた女が牢の中に入ってきたのは初めてだった。ラフィットのなかにも、一体何をする気かと警戒心が頭をもたげてくる。
「でも、犬の無作法の責任は、飼い主が取らないといけないからね」
神殿とは異なる冷たい石の床の上、ざり、と砂が踏みしめられる音が耳に障る。狭い牢の中では、距離はすぐに詰められた。
黒かと見紛う影に溶け込む髪がラフィットの顔に落ちる。深い色の緑の目に、固まった鳶色の目の男の顔が映る。
「ちょっと、」
「今日はここから出さないことにしたの。少し反省しなさい、お馬鹿さん」
「……そう、ですか。まあ、仕方ありませんね」
わかったからどけ。そういう意思を込めて、近づいてきた女王の肩を押し返そうとした。
したのだが、その手に細い、強い力を込めた手が重ねられる。
「ラフィット、お前はいい加減認めなくてはいけないのよ。モルガンはエヴァニアの大いなる傘の下。お前自身もまた、私のかわいい犬に過ぎないことを」
見上げる目が大きく開く。見下ろす目は影を帯びながらも、どこか楽しそうだった。
重ねられた、華奢な手に込められた力の名は、権力だった。
そのまま覆い被さってきた相手のガウンの下を見て、まさか、そんなまさかと否定したかった予想が当たっていたことに、男は思わず声を上げた。
「ちょっと、ま、うそだろおい!!」
のしかかった女が笑い声を上げた。心底楽しそうで、どこまでいっても己の焦る様が見たくて仕方ないのだと、男は思い知らされる。
――――かくして、女王夫妻の新婚初夜は更けていった。
***
犬はどっちだ、と言いたくなるような夜から1年経つ頃、ラフィットは王命で派遣された辺境の城から多くの兵と共に王城へ帰還した。
正しくは、兵に引き立てられて、連れ戻されたのである。
「何か、申し開きはあるかしら」
がん、と固い音が重い空気を震わせた。居合わせた諸侯の心臓も盛大に震わせた。
右手に王笏を持ったルイーズが、誰しも顔をあげない大広間の玉座から、地響きの予兆のような怒りを纏って言い放つ。
さきの春の別れ際に見たときより太ったな、とは口に出さず、ラフィットも謙虚に片膝を立てて服従の姿勢をとった。
さすがに今回は危ないかもしれない。そう思ったからだ。
「さきの反乱について、知らぬとは言わせないわよ」
もう少し長くもつと思っていただけに、この場を切り抜ける策が無かった。
グレディスの王城に春風と共に吹き込んだ『女王の夫・ベルヴィエルの王子が鎮圧に向かったはずの反乱に荷担した』という報告は、新興国との小競合いを長引かせている最中に大きな衝撃を与えた。
「陛下――、」
意を決して顔をあげる。向き合った緑の目にはラフィットですら見たこともない憎悪を滾らせていた。
反乱者に惑わされました、どうか、お慈悲を。
そう、頭に思い描いた言葉は、ついぞ出てこなかった。
「そもそも、俺がどうしてあなたに心底から平伏すると?」
言い終えて間もなく、右肩に熱が走る。貫かれたと自覚すれば、痛みが全身を駆け巡った。
息をのむ以外に声を出さなかったのは、意地だった。
「駄犬、二度目はない。次にこの城を出るときは」
護衛兵の槍は女王の左手に握られ、男の右肩へまっすぐ突き立てられていた。
しかし、息を整えたのは、ルイーズの方だった。
「……先に私と私に連なる全てを噛み殺してから行きなさい」
顎が掴まれ上げられる。息すらできなくなったラフィットの目にルイーズの怒りに燃えた瞳が映り込む。
痛みと苦しさの中で、ラフィットは見つめる相手の目に充血のあとを見たような気がした。
夫の反逆という一報に夜も寝られなかったのだろうか、とも思ったのだが、何せ今は長い憎まれ口は叩けそうもない。
だから、初心を貫くことにした。
「陛下、太りましたよね?」
左側頭部に衝撃が走る。
王笏の使い方はそうじゃないだなんて誰も彼女に言えやしない。
「衛兵!! この男を地下牢へ!!」
響き渡る王命で、滝のように冷や汗を流す兵と医者が、くずおれるラフィットに駆け寄る。
怒鳴る声は初めて聞いた、そう思ったのを最後に男の意識は遠退いた。
――――かくして、花咲き揺れるグレディスの宮廷で繰り広げられた、国土をまたにかけた夫婦喧嘩は、夫が地下牢に放り込まれる形で幕を閉じた。
少し、日が傾いていた。
***
青空を高く舞う鳥の姿に、弓を引いた。
(つがいだな)
狙った獲物のそばに寄ってきた、少し大きな別の一羽に気づき、ラフィットはその獲物への狙いを解いた。
(愚かだな。子供だけ作ってさっさと離れればよかったのに)
塔の物見台から放たれた一矢は、後から来た大きな一羽へ狙いを変えてまっすぐ飛んでいった。
「お見事です。が、聞いておられましたかラフィット様」
「もちろん。まさかあなたからこんな手紙を受け取ることになるとは思わなかったけど。父は自分の息子が城の衛兵になっているとでも思ってたのかな」
故国から届いた自分あての密書を渡してきた男に苦笑しながらラフィットは振り返る。
見慣れた男だった。それもそのはず、ラフィットはこれまでこの男に、腕をつかまれ引きずられ、意識朦朧としては肩を貸してもらい、四肢を縛られた状態で担がれながらと、ありとあらゆる頼り方で地下牢なり塔なりに連れてきてもらっていた。ルイーズの言葉に忠実な衛兵の一人だった。
「どうか真面目にお考え下さい。ベルヴィエル王はなにもかもご存知です。あなたが女王にどんな仕打ちを受けているか、それこそ、こんな塔の中で幽閉されていた現状も」
「意外だ」
「いかな間諜を使えども、あなたに直接渡すのが難しいと判断し、自分にこれを預けることとされた模様です。……王妃殿下が、あなた様の一刻も早い帰還を望まれているとのことです」
目の下に皺が目立ち始めた、屈強な男の顔を見上げた。記憶の中の顔より老けている気がした。
それもそうだ、自分もこの国に来て長いもんなと思ってから、もう一度手元の羊皮紙を見る。
そこには、ラフィットへ向けた家族を名乗る人間たちからの言葉と、城壁の外への抜け道の地図が記されていた。
くすりと、どこかあたたかな笑いが漏れた真意を問いただす者はいない。
「まぁ、腐っても軍事強国だからな。後ろ暗いところのある新顔は、そうそう反乱分子には近づけないさ」
そういう登用制度を献策したのはかつての己自身だったのだが、確かに既存の家人の寝返りまではあぶりだせない形だったなと思うと、一本取られたような気分だった。
「落陽も近いとはいえ、ね」
戦は水物。
数々の国を平らげて大きくなったはずのグレディスは、西のはずれで勃興した若い勢力を潰しきれなかった。それどころか当の新興国を勢いづかせてしまい、グレディスの強硬な方針に反感を持つ諸国がひそかに結びついていたのもあって瞬く間に四面楚歌となった。
手に手を取った諸国のなかには、北の小国も混ざっていた。
女王の即位から、まだ何年もたっていない。
塔の見張りを片付けて鍵を開けた裏切り者に、ラフィットは困ったように笑いかけた。
「父に返事を書く。持って行ってくれるかい」
元衛兵は目を見開いた。ラフィットはまた、空の向こうに目を凝らす。
射落とした鳥の片割れは、もうどこにも見当たらなかった。
***
相も変わらず薄暗い大神殿に、女が一人、祭壇の前に座り込んで石像を見上げていた。
衣擦れの音すらしない静寂の中で、カツン、と固い靴音が響く。ルイーズは振り返らなかったが、静かに誰何した。
「妻のいるところに無断で入るのは夫くらいなものなのですが」
靴音と共に揶揄うような声が緩やかに響いた。いつもならすぐに冷たい視線と尖った嫌みが返されるのだが、しばらく固い足音だけが、がらんどうの神殿で繰り返された。
「寝室すらわかれていたのに今さら夫面してくるとは思わなかった」
白とも灰ともつかない色の裾を踏む手前でラフィットが立ち止まると、ようやく応えがあった。
はっ、と思わず鼻で笑った。自分たちが寝室を共にしたことがないのは、女王が夫を辺境の城か地下牢か、塔の中に追いやり続けたせいだ。むしろラフィット個人にしてみれば、寝室らしい寝室で休んだ期間より、そうでないところで夜を明かした日数の方が多かったくらいだ。
「ベルヴィエルに帰る支度は済んだの。あいにく、供の者を私の方で用意することができなさそうなのだけど」
「御心配なく。迎えの者が、この城壁のすぐそばにいるようなので」
城壁の中にもいる上、そのことをルイーズも知っていると分かっていたが、どちらもそれを明言はしなかった。
「いつから裏切り者がいると分かっていたので?」
「知ってどうするの。笑うの」
「次の徴兵規則を構築するときの参考にします。今度は新入りでもベテランでも裏切り者が出ないように」
女がゆっくり振り返った。泣いてはいなかった。絶望してもいなかった。
これは相当前から気が付いていたのだなと、男は何の感情も見えない緑の目を見つめ返した。
「お前の故国なんて飢え死にしてないものを探すので精一杯でしょう。ほとんど作物も育たないのに」
「グレディスには北方でもベルヴィエルにとっては貴重な南なので」
「……ああ、なるほど。取り分はもう、決まってるってわけね」
あそこもそんなに小麦は育たないけど、と言って、またおおきな守護精霊の石像に顔を向けた。響きやすい筈の今の空間でも近くにいないと聞き取れないような、そのそっけない声はラフィットにとって懐かしさを思い起こさせた。先代国王が亡くなる前は、女はどちらかというと淡々とした話し方をする少女だったからだ。
大広間で話すようになってからは、きっとその薄い腹に力を込めて発声していたに違いない。朗々とした王命の直前に、誰にも気が付かれないよう小さく息を吸っていたのだろうと思うとおかしかった。
「何がおかしいの、ラフィット」
いつかどこかできいた言葉に、泡をくって慌てふためく老人も、息をのんで手をもむ観衆も、もうどこにもいない。
どこに逃げたのか、死んだのか、正体は敵だったのか味方だったのか、もうラフィットは把握するつもりもなかった。
問われた本人だけは、背中を向けているはずの彼女に忍び笑いが漏れていたことを少し気まずく思った。あの時と同じように。
「いや、確かに、と思って」
口の端を手で押さえながら答えた。誰もなにも罰しない今となっても、敬語は消えない。完全に、ルイーズを前にした時の条件反射となっていた。
「でもあの国にとっては、のどから手が出るほど欲しかった温暖な土地なんですよ。……多分」
あそこで育ってないから、よく分かりませんけど。そう言った男に、女王は二度、三度の瞬きの間ののち、こたえた。
「これから、今度はベルヴィエルのことを学んでまたせっせと働くのね。ご苦労としか言えないけど、まぁ犬って走り回るのが好きだものね」
男の耳に届いた声は揺れもかすれもしなかった。独り言のようにも聞こえた。
本当に何でも一人で決める傲慢さが相変わらずだった。
「せいぜい可愛がられなさい」
届けられた密書には、婚姻がグレディスからの一方的な通達だったことと、女王が人質の里帰りを頑として認めなかったことが記されていた。
「私の傘の外でも、どうか、大切にされなさい」
呼吸の乱れも、聞こえなかった。
敗北が決まった神殿の奥、春の緑が見上げる先に、天窓から微かに落ちてくる光の筋が見えていた。
「…………いや、ここで大切にされた覚えがなさ過ぎてちょっと、異議申し立てをしたいのですが」
完全に意識を遠くに馳せていた女が肩を強張らせたのは、その声が予想以上に近いところから聞こえたからだった。
「…………人質の恨み言なら、私の首に向かって言いなさいよ、って!」
忌々し気に振り返った女は、その肩口に顔を寄せてきていたラフィットから離れようと腰を上げかけて、つんのめった。かろうじて倒れまいとバランスを取り戻そうと振られた腕を、元凶の男が取って支えた。
「な、な、何をしているの!! 足をどけなさい無礼者!!」
男はルイーズに近づくにあたって、その厚いドレスの裾を遠慮なく踏んでいた。淡い色のドレスについた無残な靴跡に、悲鳴のような命令が響き渡る。どおりで靴音がしなかったわけだと付け加えて。
「ひどいことを言う。俺をつなぎ止めようと肩まで刺したことをもうお忘れですか」
「肩ごと切り落とせばよかった!!」
「足が無事なら意味がない。右肩から先が無ければ、ここであなたが無様に床に手をついていただけですけど」
貴重な怒鳴り声をきいているのが面白くなってきて、我慢していた口角の上がりが抑えられなくなってきていた。
「だいたい、あなたの首が落ちる頃には、俺だって物言わぬ首になってるのに」
憎々し気にドレスの裾を引っ張っていた女の顔が、弾かれたように上がる。
鳩が豆鉄砲を食らったようなその顔に、ラフィットの笑みはまた一段と深くなった。
こういう意味でも、射落とせた、といってもいいだろうかと思いながら。
「少し生意気すぎましたかね。父には、体だけ持ってってもらうつもりです」
大神殿の静寂は、突入してきた異国の兵たちによって霧散した。
春にふく突風が花を散らすがごとき、あっという間のできごとだった。
――――かくして、王国グレディスは滅亡した。
広げた傘を、内側からも外側からも破られるかのように。
***
その衛兵の顔はいつも濡れていた。いつもは、主に、冷や汗で。
「よくとどまってくれたとでも言われたかったの? わざわざ負け馬につかみかかってよじ登るなんて」
赤いドレスはやはりよく似合っていた。どうせ他人の色になど染まれない性質なのだから、たいして似合いもしないしおらしい服なんて着るべきではないと、ラフィットはにやにやしながら伝えたところだった。
「いやだな。犬は忠実であるとも同時に、受けた虐待を忘れないんですよ」
精霊への祝詞を唱えていた見慣れない司祭が所在なさげに立ち尽くしている。その脇に控える衛兵の中には、見慣れた顔が複数あった。彼らを見上げる主役の男は、この期に及んで顔を濡らす衛兵に対し、白々しく、そしてどこか申し訳なく思った。
「特等席で私の死に顔を見たいって? 残念ね、さきに死ぬのはお前の方よ。いつだってメインは最後に出てくるんだから」
「大振りなメインのさらに後に出るのが甘い果物でしょう? どっちが肉でどっちが果物か、今日のゲストの方々にお聞きになってみては」
「男のくせに図々しいわね! ブランデン王! そのうすぺらい剣で、この面の皮の厚い男の首をしっかとおとせるのでしょうね!?」
「やあやあ、ようこそブランデン王、あいにくちゃんとしたもてなしもできずにすまないね、なにせ首長がこんな短気でヒステリックな小娘だから」
「お前はもっと年下でしょう小僧めが!」
敵兵にかこまれ、わずかな拘束期間の後に処刑台に引き立てられ、白日の下でひざまづいて、それでもなお言い争いをやめない男女二人を前にして、西の新勢力の王は少し困ったような顔で笑った。
ラフィットより濃い金髪が、降り注ぐ陽光に輝いて、その破竹の勢いを体現しているかのような若者だった。
「仲がいいね。前情報だと夫の方は見逃してやる余地がありそうだったんだけど、こりゃひきはなしにくいな」
すまないね、そう言った男の視線は背後に並び立つ異国の王侯へと向けられた。
その視線の先、春だというのに毛の長い獣の皮をあしらった外套とともに、ラフィットに既視感を覚えさせた初老の男は、真っ青で口を真一文字に引き結び、強く剣を握りしめて何かを必死に耐えているかのようだった。
まるで、今すぐこの勝者の前に飛び出して、助命嘆願したいのをこらえているかのような。
親不孝かとも思うくらい、懐かしさも感慨も感じなかった。
ただ、少しだけ、憐れむ気持ちだけ湧いた。
「……俺のおかげで繁栄を極めた国が滅ぶのに、俺が責任を取らないわけにもいくまいよ」
新しい侵略者と、かつて自分を人質に選んだ男に向かって言った後、横で顔を白くしていた女の方に目を向けた。
後ろ手に縛られ、膝をつかされた、自分と同じ体勢で、そんならしくない表情はしないでほしいと思った。
本当に責任を取らないといけない理由は、主人も守れない真の駄犬であるからだろと、そう笑いながら言えばいいのに。
「……お、おまえが反逆したあたりから徐々に負け始めたんだけど、この国」
「……いやどう考えてもあなたが即位したタイミングからだったでしょ。事実、俺が何しようとあの時の小競り合いは収められてなかったでしょ?」
終わらない口喧嘩に、輝く金髪の若王がため息をついて、右手を振った。
視界の角に入ったそれに、王の合図は万国共通かと、またいつかの女のしぐさを思い出す男に向かって、静かな声が届く。
「……最後まで生意気なお前だったけど、その忠実なる駄犬っぷりへのご褒美に、とっておきの事実を教えてあげる」
頭上で何かが光った。女の口が声もなく動く。
「……え」
女の口に笑みが広がる。固まった男に、――一晩しか共に過ごさなかった夫に、さらに追い打ちをかける。
「出産後に太ったのが戻らないのは家系なの。大きなお世話よ、お馬鹿さん」
ひらめく白刃など、目を逸らす父の顔など、もう頭から吹っ飛んでいた。
なぜあの時言わなかったのか、わざと情報を隠しやがったかと、強権と嫌がらせのなす業にしてはあまりにも酷すぎるから、気づかなかった自分が信じられないから、男は思わず声を上げた。
「ちょっと、ま、うそだろおい!!」
頭を押さえつけられた女が笑い声を上げた。心底楽しそうで、どこまでいっても己の焦る様が見たくて仕方ないのだと、男は思い知らされる。
暖かくて、よく晴れた日の午後だった。