机の上に犬の写真を飾った人は怒らないので名乗り出てください
教室は緊張に包まれていた。
担任の教師である扇原が、教壇に両手をついて立っていたからだ。帰る前のホームルーム、通称終わりの会が始まってからいつもの流れを終え、連絡の段階に入ってからのことだ。
生徒たちは知っている。教師がこのような態度をとるときは必ずといっていいほど悪い話であることを。
「みんなに話がある」
神妙な顔をして切り出せば、つい先ほどまで雑談に興じていた彼らは一様に静まりかえった。誰かの息を飲む声が微かに響く。
「こんな場所にいられるか! 俺は帰るぞ!」
一人の生徒が立ち上がり、その場を逃げ出した。
しかしその宣言は叶わぬこととなる。教室を出る直前に転んで顔面をしたたかに床で打ち付けた。そのまま保健委員に付き添われて保健室へと向かう。
気まずい場所から逃げるという当初の目的は果たしたといえるだろう。代償は大きい。
「び、美術室のアレを壊したのは僕じゃない!」
今度はぽっちゃりとしたメガネの男子生徒が、容疑を否認した。誰も彼にそんな容疑をかけてなどいない。知っているか、思いもよらなかったかの二択だ。ちなみにアレとは名前を呼ぶことも憚られるおかっぱ頭の少女の像だ。名前をレイコさんという。
「その話はまた明日にでも聞くが、それじゃないな」
「隆! レイコさんを壊しちまったのかよ! アレを作って翌日に死んで卒業できなかった生徒の霊に呪われるぞ!」
「その名前を呼ぶなって!! 先生、僕はもうダメなんでしょうか……?」
まるで呪いのアイテムである。
震える声で尋ねてくる。先程やっていないと否定したのではないのか。そんな野暮なことは言わず、先生はただ苦笑しながら。
「安心しろ。あれは卒業生がフラっとやってきて置いてった自作の像だ。あまりに出来栄えが良いもんで捨てられなかっただけで学校の備品かどうか微妙なところだ。作った本人はピンピンしてる」
息をするように根も葉もない噂で怖がらせようとする生徒の言葉を、扇原はあっさりと否定した。怒りや焦りはなく、呆れの方が強い。
同時にどこからそのような話が出たのか調べた方が良いのかしばし迷う。置いていった本人が怪談好きのいたずらっ子だったり、あれを置いてから美術室で騒ぐ生徒が減ったことなど心当たりはないでもなかったが。
ひとしきり騒いだところでようやく先生は困ったように本題を切り出した。
「職員室の、先生の机の上に犬の写真を飾った人は名乗り出なさい」
一体どのように深刻な話かと思えば、それだけ聞けば随分と悪意の感じられないイタズラだ。
ほとんどの生徒は拍子抜けした。なるほどそのような話題なら反応にも困るだろう、と。毒気のないそれに、自分は関係ないとばかりに目に見えて雰囲気は緩んでいく。
様子が違ったのは六人。ある者は目をそらし、ある者は顔を伏せ、そしてある者はガチガチに固まっていた。メガネをかけた一見大人しそうな男子一名は笑いを堪えていたが。
「しかもその写真な、先生のうちで飼ってるマリーちゃんだったんだ」
「似合わないな!」
そわそわしていた男子生徒の一人が思わず叫んだ。半袖短パンとクラスには一人はいそうな格好をしている。今は春、やや肌寒そうではあるが。
犯人を見つけたとばかりに、今度は啓太に向けて質問する。
「啓太……似合わない、ってことはうちの犬がどんな犬なのか知ってるってことだよな?」
「ブルドッグ?」
ブルドッグ。その名前は「牛と戦わせた」ことに由来している。そのことからもわかるように一般的には強面の犬だ。
「ああ、そうだ。ブルドッグだ。この前三歳になったばかりだ。どうやってお前はそれを知ったのかな?」
「先生が授業の時に話してくれたかなーって……あはは」
先ほどまで誤魔化したいとばかりに挙動不審になっていた五人は、バレたと悟って頭を抱える。そして目と目で会話する。やっぱりあいつに隠し事など無理だったのだ、と。
「残念ながら話したことはない。話さないようにしていたからな」
「へ、へー、それはまたなんで?」
啓太は話をそらそうと質問で返す。彼の視線もそらされ、青い空を飛び交う鳥たちに向けられていた。
「あんな可愛い犬がうちにいると知ったら、会いたいってうちに押しかける生徒が出てくるだろ!」
――親バカか!
生徒たちの心は一致した。
とはいえ犬は犬だ。多少強面であっても、会いたいという生徒がいるかもしれないということは否定しきれない。彼らももう五年生だ。流石に先生の家にいきなり突撃する者はいないだろうが。
「まあいい。とりあえず何かしら知ってる人は残ってくれ。えっと、啓太のほかだと愛華、椎名、裕子、潤、詠美。他にもいたら、だ」
先ほどまで頭を抱えていた五人は、観念したように頷いた。
◇
関係のない生徒が帰っていくのを見送ると、教室は先生と六人だけになった。
「さて、まず先生の机がどうなっていたか説明できるか?」
問いかけられて、最初に答えたのは愛華だった。サイドテールにショートパンツ、動きやすそうという意味では啓太に近いが、彼とは違ってファッションの結果だろう。
「せ、先生の家で飼ってる犬の写真を」
それを皮切りとして、次々と説明が始まる。
「写真は写真立てに入れて飾りました」
「同じ首輪の新しいのを買って置きました」
「前にお手紙を……」
「横に花を飾りを……」
「周りにキラキラしたので飾りました」
これは電飾だった。コードに連なる明かりが無駄に煌びやかに光っていた。
「それら全てを先生には内緒で朝からこっそりやりました」
何故か得意げに締めくくった椎名によって明らかにされた机の上の惨状に、先生は大きなため息をついた。
他の先生は何をしていたのか。最も朝早くにやってくるのは教師陣最高齢にして、温厚篤実を体現する飯野先生だ。こいつらがコソコソ何かをしていても悪事でなければ見逃すこともあるのかもしれない。
見逃したのか、見過ごしたのか。それが問題だ。
「つまりお前らは、うちの愛犬の写真を写真立てに入れて飾り、その周りを花と愛用品で固めたわけだ」
「はい!」
啓太が元気よく返事をした。
ニヤニヤしていた男子――椎名はもうこらえきれなくなったとばかりに吹き出した。
「葬式じゃねえんだよ!」
「ひゃぁ!」
花と電飾、メッセージと半分ぐらいはパチンコ屋の開店にも似ていたと思ったことまでは言わなかった。
先生は思わず声を荒げてしまったが、声色には怒りは見られず、どちらかといえばツッコミと呼ぶべきだろう。
本気で怒っているわけではないのが伝わったからか、六人も驚く程度で済んだ。
しかし大きな声を出したのは事実。大人気のなさを恥じらうように先生は咳払いを一つ、雰囲気をリセットして再び質問を行う姿勢に戻った。
「どうしてあんなことをしたんだ……?」
「えっと……誕生日を祝いたくて……」
一際気の弱そうな少女、詠美が答えた。
「誕生日……どうして誕生日だと?」
「先週の木曜日、裕子ちゃんがケーキを買って帰る先生を見たって」
「あっ! 愛華ちゃんひどい! それ言わない約束だったのに!」
「あれを見られていたか……」
半透明の袋に白い箱、包みに書かれたケーキの単語も見えたらしい。事実紛れもなくあれはケーキだった。
「ロウソクもつけてましたよね!」
小学生でなくともバースデーケーキを思い浮かべるだろう。これがクリスマスであればもう少し違ったかもしれないが。
飯野先生には事情を話して、内緒にしてくれるように頼んだらしい。
「えっと聞くが、マリーちゃんの写真はどうやって手に入れた?」
「先生のあとを追いかけてお家にいたのを写真に撮りました。椎名くんのお家で印刷しました」
「教え子にストーカーされた先生の気持ちを五文字以内で答えろ」
「えっと、こわい?」
「わかってるなら止めてくれ」
先生と生徒たちの間で怖いの意味は大きく異なっていた。このご時世、生徒との距離が近すぎるのも問題にされかねない。通報一つで社会的に殺されるのではという恐怖ではあるが、扇原はそれを説明する気にはなれなかった。
「真っ白な百合の花だったのは何故だ?」
「やっぱり牡丹がよかったって!」
「いや、彼岸花が良いって!」
「どれもアウトだ!」
白百合の花は葬式に使われることから死のイメージが強い。祝い事には不向きである。
お見舞いに牡丹は良くないと言われるのは、花が落ちるから死を連想させるからだ。祝い事だとセーフかもしれないが。彼岸花はそもそも名前からしてアウトだ。
小学生に花のイメージや生態についての知識を求めても仕方がない。扇原はそう思いなおして話を進める。何やらまずかったらしいことは彼らにも伝わっていた。
そもそも、写真にセットで花を飾るのが問題なのだが。
「電飾はどこで用意した……?」
「去年、うちのクリスマスツリーを捨てることになってライトだけもらいました。私の宝物に入れていたんだけど、先生にならあげてもいいかなって……」
「そうか……」
モジモジしながら詠美が答える様は年相応に可愛らしいものだから、先生もお手上げとばかりにそこで追及をやめてしまう。
「手紙の文字を新聞の切り抜きで作ったな?」
「誰が送ったかわかると恥ずかしいし……」
「こういうの、ミステリアスって言うんだよね」
「サプライズだもんね」
「ミステリーでサスペンスになったけどな」
詠美、愛華、裕子と女子組は概ねそれで一致らしい。
「面白そうだったから」
「これテレビで見たことあるんだよ! 一度やって見たかった!」
潤と啓太が実に深い理由などなかったことを告白する。
「脅迫状じゃねえんだよ……」
そろそろ気力も尽き果てようとしているのか、力のないツッコミが虚しく響く。
「ぷっ……くくくくく」
「おい最後椎名」
椎名だけは出来上がりを見てわかっていたらしい。最後まで理由について黙っていたが、思わず叫んだところでとうとう笑い出した。
「な、何度も止めようとしたんですけど……」
お腹を抱えながら椎名だけが弁明してくる。嘘はついていないようだが、止められなかった時点で同罪である。
「これらを揃える金はどうした?」
「お小遣い使ったー」
「事情を話したらお母さんが出してくれたー」
扇原は後から親御さんに連絡を入れてお金を返そうと決意した。
といっても子供の小遣いを超えていると思われるのは首輪ぐらいのもので、他はさほど高いものでもないだろう。
給料日前の財布の中身に想いを馳せる。
「僕も悪気はなかったんですってば」
「椎名は面白がってただけだろ」
「ごめんなさい」
誕生日を祝いたかっただけと聞いて、これ以上叱ることもできるはずもなく。
「新手の脅しかと思ったぞ。お前の犬はもうこの世にはいないぞ! みたいな」
綺麗に飾ってたくさんプレゼントを用意したつもりが、勝手に殺すな! と言われてさすがに彼らも申し訳なかったのか、当初ほど元気はなかった。
気にするな、と先生は順番に頭をポンポンと撫でていき、最後にフォローを入れた。
「ま、みんなマリーちゃんの誕生日祝ってくれてありがとうな。マリーちゃんも喜ぶよ。プレゼントまで用意してくれて」
「誕生日って……」
「先生のじゃなかったのか……」
もしもサプライズが誕生日であったら縁起の悪さは一層高まったことだろう。
そのことを六人は気づくことはなかったが、ただぼんやりと、当日でなくてよかったなどと思うのであった。