第96話
◇北部領ノーセンティア郡首都・ノーセンティア
ここは、北部領の首都であるノーセンティアの王城にある、とある一室。
そこは、持ち主が使用するペン先が、魔物の皮を鞣して作られる羊皮紙ならぬ魔皮紙(まだ植物紙が普及していない)を引っ掻く音のみが聞こえてくる様にも感じられる程に静まりかえっており、まるでペンだけが勝手に動き出し、書類を書いているようにも錯覚させられる程だ。
しかし、そんな静けさに支配されている部屋へと、その主目当てに外部からのノックの音が響き渡る。
「……何用か?」
誰何を問い掛けるその言葉すら口数少なく、ギリギリ相手に聞こえるかどうか程度の声量しか発揮せずに問い、その細面に不機嫌そうな表情を浮かべる部屋の主たる若者こそ、この北部ノーセンティア領総領主であり、この王城そのものの主でもあるマイブリス・ロイ・ノーセンティアその人である。
「失礼致します。先程、遠征軍の大将たるジャウザー団長より、『遠話の宝珠』によって通信が入りました」
そんなマイブリスの誰何の声に答え、最小限だけ開いた扉からスルリと中に入り込んだのは、マイブリスの側近中の側近であり、この城の家令でもあるテルミドールだ。
彼は、既に総白髪になっている頭髪を後ろへと撫で付け、口元に整えられた髭を生やし、片眼鏡を嵌め、燕尾服を定着としたthe執事スタイルでの行動を常としている。
更に言えば、その老齢に達している年齢や、決して筋骨隆々と言う訳では無い外見からは想像するのは難しいが、極めて高い戦闘能力を保持しており、マイブリス本人から直々に『戦闘家令』の二つ名を授けられる程の腕前である。
その上、マイブリスが執り行う実務の大半に対する前処理を一人でこなすだけの処理能力と、彼一人居れば他の人員は必要がない、と言われる程の家事能力を兼ね備えており、その上周囲への気配りまで完璧にこなす、どこぞの小説や物語に出てくる完璧執事を体現したかの様な能力・技能の持ち主なのだが、そんな彼にも欠点が一つ有る。
それは、彼が極端なまでに、普段の表情が『無表情』なのだ。
おまけに、老齢から来る視力の悪化によって、生来鋭かった眼光に更に磨きがかかり、凶相ぶりが止まる所を知らず、初めて会う相手や幼い子供等には、必ず怯えられるか警戒されるかしてしまうのだ。
無論、その点は本人も気にしており、改善しようと努力はしているのだが、それが実っている様子は感じられない。
「……このタイミングで、か?やはり、『ガイドライン』に無い事態でも発生したのか……?」
彼がいぶかしむのも無理はないだろう。
何故ならば、この『侵攻一月で連絡』が有る様な出来事は、『ガイドライン』には表記されていなかったからだ。
今回行われているのは、彼らが盲信し、そうなるのが当たり前だと信じきっている『ガイドライン』に沿った形でのユグドラシル侵攻なのだが、改めて『ガイドライン』に記されている流れを確認してみると次の様な感じになる。
1・まずは戦争等の大規模な戦闘行為の機会を減らした上で世代交代等を待ち、国内の戦闘力自体の低下を誘発させる。これは、ユグドラシル側の強力な個体の排除と、新たに強力な個体外見からは発生しない様にするためである。
2・長めに間隔を開けつつ、小規模な戦闘を仕掛けたり、故意的に迷い込ませた工作員に、誤情報を流させる等の手段を用いて、こちら側を侮る様に思考自体を誘導させる。こうすることで、全体的に軍備が拡張されにくくなる。
3・ 全体的に弱って来た頃を見計らい、ユグドラシル側から攻め込ませる形で戦争を開始する。これは、初戦でユグドラシル側に『地の利』を与えない為である。尚、最初に交戦する事になるであろう国境付近の部隊には、通話様の魔道具を持たせる事が必須である。
4・こちら側へと攻め込んできたユグドラシル軍を、こちら側の主戦力で可及的速やかに壊滅させる。こちらへと侵攻を掛けて来る戦力がユグドラシル側の最高戦力である可能性が最も高いので、確実に全滅させる様に。
5・ユグドラシル軍を壊滅させたのなら、そのままの軍勢で首都まで攻め上がる。村や町に作られた道を利用し、それらを辿るように侵攻すれば、間違いなく首都まで辿り着く事が可能である。更に、それらの拠点を襲撃すれば食料等の物資を補充出来る上に、住民を捕らえて奴隷として売却すれば資金源として活用することも出来る。捕らえた住民は、軍から人を使って輸送することで、物資の消費を抑えることも可能である。
6・ユグドラシル首都を強襲し、蹂躙する。『3』並びに『4』の段階で、殆どの戦力を吐き出しているハズなので、基本的に戦力は残っていない途中考えて間違いは無い。城壁を崩し、兵達の数に任せて隅から隅まで根こそぎにするべし。尚、この際には確実に王族の類いは全て捕らえるか殺すかする必要が有るので、こちらも徹底的に捜索・殲滅する事。もし残っていた場合は、確実に反撃が有るのでそれに備える必要が出てくるので悪しからず。
……以上が、彼らが盲信的に信用し、その通りに行動しようとしてしまう『ガイドライン』の一部、対ユグドラシル攻略戦略の筋書きであり、実際にそうなりかけた作戦書である。
……恐ろしい事に、このガイドライン。
途中で主人公と言う極大のエラーが介入することにより、前提から条件その他諸々(常識だとか遠慮だとかを含む)が崩壊したことにより、無意味な紙切れへと変貌を遂げた訳なのだが、その『主人公の介入』が無かったとして考えると、ほぼほぼその通りに事が進み掛けていたであろう事実(実際問題、ユグドラシル側から仕掛ける寸前だった)から考えてみると、過去に制作されたハズのブツで有るのに、まるで未来を見通しながら書いたのではないか?と疑いたく成る程の、凄まじいまでの精度で予想していた事が理解出来ると思われる。
そんな、彼らにとっては『予言書』にも等しく、その通りになるのが当たり前であるガイドラインが外れたのか?とその場で予想出来るマイブリスが異常なのであって、普通はそんな事は考え付かないし、考えない。何せ、『その通りになる』のが前提なのだから。
しかし、その『本当は的中している予想』は、彼自身には『外れである』として、故意的に歪められた情報が伝えられる事となる。
「いいえ、そうではないご様子でした。ユグドラシル側の主戦力が投入される時期こそ、少々のズレが有った模様でございますが、そこは問題無く処理したとの報告が入ってございます」
このノーセンティアを治める領主であるマイブリスの耳には、侵攻開始時のユグドラシル軍が、不気味なまでにあっさりと軍を撤退させ、ガイドラインにて予定されていた戦闘が発生しなかった事も、確りと届いていたのだ。
それが、『ガイドラインは本当に正しいのか?』と言う、ある種の背教的とも言える不安を抱く事の切っ掛けとなったのだが、どうやらそれは杞憂に終わった様子である。
「……そうか。しかし、だとすると何故このタイミングでの通信なのか?予め決めておいた事柄での使用では無い様子だが、何故に通信などして来たのか?」
実はかの『遠話の宝珠』なのだが、一度使うと暫く使用できなくなるため、ガイドラインにて設定されていた、襲撃される予定の国境警備隊の様な『確実に必要となる』場合や、『早急に緊急の連絡が必要』な場面でなければ、基本的には使用されることは無い。
……もっとも、魔力を外部から注いでやれば、ある程度連続して使用することも可能ではあるのだが。
そして、今回の侵攻では、ユグドラシル首都の攻略完了か、もしくは予想外の事が起きて撤退する場合に使用する、と予め決められていたのだが、時期的にはまだ首都へと辿り着くには早すぎるし、かと言って既に伝えられている内容から、後者による撤退の為の通信では無いだろうし、ユグドラシル軍の殲滅を伝えるためだけでは、使う理由としては弱すぎるのだ。
「それについてなのですが、どうやら予想よりも多くの『住民』を、こちらへと『移住』するように説得することが出来たらしく、そろそろその第一陣が到着する予定となっている様でして、予定通りに侵攻出来ている事や、ユグドラシル軍の本隊を無事に壊滅させた事も合わせて報告しておきたかったとの事でございます」
「……そうか、それならば、仕方が無い……か。……再使用は間に合うのだろうな?」
「そこは当然、ジャウザー団長も把握しておられましたご様子で、ギリギリではございますが、首都攻略には間に合う予定であると仰られておりましたので、大丈夫かと存じます」
「……そうか。……ただの杞憂であったのならば、それに越したことは有るまい。取り敢えず、ジャウザーが『説得』した『移民達』の『居住先』の選定を始めておけ」
報告を聞き、不安を振り払ったマイブリスは、テルミドールへと指示を出し、己の仕事へと意識を戻す。
そして、そんな主へと一礼を返して無言の返事としてから、音もなく部屋を出て仕事にかかるテルミドール。
マイブリスやテルミドールを含めたノーセンティアの上層部は、ジャウザー団長のモノと思われる報告により、ガイドラインの通りにユグドラシルが攻略されると信じているが、そのガイドラインの内容を知り、それを逆手に取って利用しようと企んでいる魔王の存在を、彼等はまだ知らない。
そして、その企みが、既に取り返しの付かない所まで進んでいることにも、未だ気付けては居ない……。




