不安
この部屋には俺しかいないはずだ。
ところがここ数日、気配を感じる。帰ってきたとき、風呂から出たとき、寝ようと電気を消したとき。
日常の些細な場面で、何かの視線を感じる。息遣いが聞こえる。
最初は気のせいだと思っていた。だがそれももう限界だ。
その感覚は、日増しに薄れるどころか強くなっていく。
―間違いない。この部屋には何かがいる。
だが、こんなこと人に言えるはずもない。よほどの臆病者か、それとも気でも狂ったかと心配されるだけだ。
俺はオカルトなんか信じていない。
それを知っている親しい友人ならばなおさらだ。
結局俺は相談する相手もおらず、一人で不安を抱え生活することになった。
抑えきれなくなった不安は、どうやら俺の顔や態度に顕著に表れていたらしい。時折、弘樹や桜が気づかわし気な瞳をしているのには気づいていた。
だが不安を打ち明けるのにはやはり気まずかった。
勘違いである可能性だってある。
俺自身、姿かたちもわからない、そもそも本当に存在するのかさえ怪しいものに怯えているなどバカバカしいと思っている。
要するに俺が一番怖いのは、今俺が直面している問題が何なのかわからないことだった。
そして頼りにしている彼らは、一番来てほしいときに来ない。
「すまん、バイト」
「ちょっと用事があって」
弘樹も桜も、俺が頼んだ時に来ないで、頼んでもいない時に突撃に来る。
だから俺はなるべく遅くに家に帰るようにした。
家に帰り、必要最低限のことをして、そしてただ寝るだけ。
俺を脅かす謎の気配をなるべく意識しないようにして布団をかぶって丸まって居れば大丈夫。俺はそう思っていた。
そうすれば何事もなく平穏に一日を越せるはず。
だが、この時の俺は正常な判断力を失っていたと言うしかない。俺のとった行動は何の解決にもなっていないのだから。直面している問題に向き合わず、適当に理由をつけて逃げていただけだ。
時間が解決できる問題ばかりではなく、むしろ時が経つに従って悪化していくことだってある。俺はこのあとすぐ、そのことを身を以て知らされることになる。
俺は扉を開ける。
やはり誰かの気配を感じる。
いやいや、いないって! 不安をぬぐい去ろうと、頭を振って思考を閉め出す。
溜め息をついて靴を脱いで部屋へと向かい、台所の前を通り―。
そこで俺は信じられない光景を見た。
陳腐でありきたりな表現だ。だが、実際頭に浮かんだのはそれだけだった。
何かの気配を感じる、などと怖がってみせても、俺は心のどこかで気のせいだ、勘違いだと楽観視していた。
霊などいない。存在しない。
そういう俺の無意識のレベルにまで刷り込まれた固定観念が、現実の認識を阻害していた。
だが、目の前で起こった出来事は、その固執をぶち破るには十分だった。
包丁が、宙に浮いた。刃先が俺に向く。そして、一直線にとんできた。
よけられたのが奇跡だった。
浮いた包丁を見て唖然としていたが、直前になって我に返った。
包丁は俺の頬をかすめて壁に刺さる。その包丁が再び動き出し、壁から刀身が抜けたの見て、俺はリビングに駆け込み扉を堅く閉めた。
はあっはあっと俺の荒い息が狭い部屋に響く。
死の恐怖から解放された途端、それはよりいっそう現実感を伴ってさざ波のように押し寄せてきた。
―間一髪でかわした。かわすことができた。
だが、次はないかもしれない。
確かに、恐怖が刻まれた。
いてもたってもいられなくなった。
だが、部屋を出れば台所だ。あの包丁のスピードが上がれば……。
最悪のケースが脳裏に浮かび、俺は生唾を飲み込んだ。
そして風呂も洗濯も何もかも忘れ、布団にくるまって一晩中震えていた。
そんな状態で眠れるはずもなく、朝起きたころにはすっかり憔悴しきっていた。
扉が勝手に開いたりしないか、凶器類は全部危険か、と気を張り続けた結果だ。
扉はガムテープでふさぎ、ドライバーやハサミなどは全てまとめて縛り床にガムテープで固定した。
気休めにはなるだろう。
学校に行く気はおきなかったが、さりとて家にとどまるのはもっと嫌だった。
弘樹や桜に会えば気も晴れるかと思い、大学に行くことにした。
朝は気配が薄まるのはわかっていた。今朝も視線が無いことは重々確認した。
だが台所へ通じる扉を開けるとき、たらいで首元を隠すということはした。
が、さすがにそれは杞憂に過ぎなかったようだ。
ほっと安堵の溜め息をついた。
「なあ、桜」
「なぁに?」
「今日、うち来るか?」
来てくれ。
「バイトがあるの。せっかくのお誘いだけど、ごめんね?」
「いや、いいんだ」
ちっ肝心なときに使えない!
「何、京ちゃんさみしいのぉ?」
「はっははっバカ言うな」
怖いんだ。すごく。
「何よぉ! 意地悪言う子は嫌われるぞ!」
「おい、弘樹」
「うん?」
「今日、俺の家、来ないか?」
「お、じゃあそうしよっかな」
俺は心の中で快哉を叫んだ。