兆候
―やめろ。来るな。誰だお前。やめろ。来るな来るな来るな来るな………。
今日は最悪な夢を見た。
黒い靄が迫ってくる。俺は必死に逃げるが次第に靄に囲まれ飲み込まれていく、そんな夢。
いや、今日も、と言い換えた方がいい。昨日も一昨日も俺は似たような悪夢にうなされて目覚めた。
「きっつ……」
頭を掻きながら洗面所に向かった。不愉快な目覚めを繰り返し、精神的に疲れていた。
鏡に映った自分の顔は少しやつれているように見えた。
と、その時鏡の端に何かが映り、
「うおわっ」
俺は情けなく悲鳴を上げて振り返った。当然誰もいない。
「何だよ、び、びっくりした」
もう一度鏡を見る。俺の顔しか映っていない。
だけど、さっき確かに俺の後ろにいた誰かが、鏡に映っていたような……。
俺はオカルトなんて信じていない。「あたし霊感あるんだー」とか言ってるやつがいたら、鼻で笑ってきた。
だから今のも、気のせいや見間違いだと思う。断じて幽霊などではない。
だが、俺の心の片隅に巣くった不安はいつまで経っても消えなかった。
「おい京一、聞いてる?」
「え? ああうん、聞いてる聞いてる」
少しぼんやりしていた。急いで笑顔を取り繕って答えるが、
「疲れてるのか?」
弘樹は俺の返事を意に介さず続ける。
弘樹はこういうやつだ。常に周りを見ている。気配りが行き届いている。他人の建前の裏側、本音の部分を鋭く見抜いてしまう。
俺は苦笑いして、最近あまり寝られないのだと正直に答えた。さすがに、一人が怖くなってきている、とは言えなかったが。
「あ」
ふいに弘樹が素っ頓狂な声を出した。
「何?」
「神崎さんだ」
弘樹が指さした先には、確かに神崎さんがいた。
「神崎さん、美人だな~。いいなあ、付き合いたいなあ」
弘樹は賢く、運動神経抜群でイケメンで、他人のことをさりげなく何気なく心配したり気遣ったり出来る爽やか万能人間だが、当然欠点だってある。
弘樹の欠点、その一。無類の女好きであり、女たらしである。
「お前、神崎さんのこと知ってたんか」
「当たり前だろおぉ!?」
弘樹がぎゅいんと音が鳴りそうなほど速く俺を見る。
「この大学のトップクラスの美女だぞ!? 今年のミスコン優勝間違い無しと噂の神崎さんだぞ!?」
「ああ、そりゃお前が知らない分けないな」
「それよか神崎さん、誰か探してんのか?」
噂の神崎さんは、あっちへふらふらこっちへふらふら、右向き左向き、挙動不審である。
―まさか俺を探してるんじゃあるまいな。
神崎さんは数日前から俺をつけ回しては、オカルト研究会に入れとしつこく言い寄ってくる。理由はわからない。半ば常軌を逸した彼女の行動から、俺は密かに「ストーカー予備軍」と呼んでいる。
俺は弘樹の後ろに回り込んだ。弘樹を楯にしてこっそり移動すれば見つかるまい。
が、一足遅かった。めざとく俺を見つけた神崎さんは足早に歩み寄ってくる。
「おいおい、神崎さんこっち来てんじゃね?」
……弘樹を置いて逃げてしまおうか。
「おい俺を見てるよ神崎さん。俺のトコに来るよ神崎さん。何かな告白かな一目惚れってやつかな、いや~イケメンも大変だよな。もてるって辛いなあ~」
……この自意識過剰の馬鹿野郎は放って逃げよう。
「辻宮くんっ」
俺がまさに踵を返して立ち去ろうとしたとき、神崎さんの俺を呼ぶ声と、俺じゃなかったんだ!? という弘樹の心の声が同時に聞こえた。
「おね、お願いです、辻宮くん。もう一度だけでも話を、聞いてくれませんか?」
深々と頭を下げる神崎さんを、通行人が好奇の眼差しで見つめてくる。
「え? 何、修羅場?」
黙れ愚か者。
全く的はずれな質問をする弘樹を心の中で罵倒する。
「すいませんが、その話はお断りしたはずです。悪霊とか、そういう話はそういうのが好きな者同士でやってください。俺には無理です」
はっきりと拒絶する。俺は信じていない。俺には無理だ。俺には関係ない。
「行こう、弘樹」
俺は戸惑う弘樹に声をかけ、硬直した神崎さんの隣をすりぬけた。
途中、一度だけ振り返った。心配そうに俺を見送る彼女と目があった。
「お前、ありゃ無いぞ」
「何が」
「神崎さんだよ。何があったか知らんけど、女性に向かってあの態度! 代わってやりたいよ。もし俺がお前の立場なら『一時間でも二時間でも、貴女の話を聞き続けましょう。貴女がそれを望むならね』って決め顔で言うのに!」
俺は苦笑いした。確かにこいつならやりかねない。
「しっかし、お前が美女の頼みを却下するなんてなあ。もう美女を見ただけで鼻息荒げて涎垂らすお前が」
「誰の話をしているんだい?」
言ってから、先日の桜との会話を思い出した。
「桜と同じこと言うなよ」
そして失言に気づいた。
弘樹は明らかに動揺していた。トリガーは“桜”。
「桜と何かあった?」
「いや、何でもない」
絶対何でもなくないだろと思ったが、口には出さなかった。
別れ際に尋ねた。
「今日、うちに来るか?」
「悪い。今日はバイトがあるんだ、また今度」
「そか。じゃ」
手を振り弘樹と別れる。
期待した分、裏切られたとき辛い。
今日も帰ったら一人なのか―。
俺は肩を落とした。誰かが俺を見ていたら、肩が小刻みに震えているのがわかっただろう。
俺はあのアパートに一人で帰るのが怖くなり始めていた。