傷跡
入学してから早くも二週間が経ち、俺も大学生活に馴染んできた。
最初は悪戦苦闘していた家事もスムーズにこなせるようになったのは嬉しい変化だろう。俺は適応能力に関してはそれなりに自信がある。
変化というならもう一つ。
入学当初と違って、俺はかなり人目を気にするようになった。常に他人の視線を感じる。誰かに見られているように感じる。
ばかげた被害妄想か、あるいは自意識過剰だと笑われるかもしれない。だがその得体の知れない不気味な感覚は日増しに強くなっていく。
―ばからしい。
俺は雑念を振り払おうと頭を振った。俺はオカルトなんて信じていない。幽霊なんて存在しない。
しかし気が付くと辺りを不安げに見回している俺がいる。俺はいつからこんな臆病になったのだろうか。
ため息をつく。無駄なことを考えても気が滅入るだけだ。気を紛らわせようとテレビをつける。ちょうど今放映中の映画のCMだった。
―次々と謎の死を遂げる同級生! 友の仇を取るために真相を探る彼らの前に現れた残酷な真実とは!? 今年一番の恐怖があなたを襲う!
音声を何気なく耳に入れていただけの俺は、そこでふと先日の神崎さんとの会話を思い出した。
『辻宮くん、あなたは悪霊に憑かれてるんです』
『はあ?』
『い、いきなりこんなこと言われて、信じられないのもわかります。でも、本当なんです。このままだと辻宮くんの命が危ないんです』
『…何言ってるんです? 本気なんですか。失礼な。だいたい、それがどうして俺をオカルト研究会に勧誘する理由になるんですか?』
『ち、近くにいたら、守ってあげられます、から…』
『では守っていただかなくて結構です』
俺はその後すぐ、「何様だよ」と吐き捨てるようにしてその場を去った。その日以来神崎さんには会っていない。大学構内でも遭遇しないよう細心の注意を払っている。
神崎さんが嫌いなわけではない。俺にだって人を見る目ぐらいはある。「清楚で美人で優しくて賢くて何か超人」という桜の評価も間違ってはいないのだろう。それは神崎さんの外見や口調、態度から明らかだ。
だが彼女は俺の平穏を壊した。俺の日常に非日常をもたらした。悪霊という言葉を使って。
それがなぜか無性に腹が立つのだ。
「香織先輩がもう一回会いたいってさ」
「あっそ」
桜が俺の家におしかけて晩ご飯を食べていくのは、とっくの昔に慣れている。小学校から一貫して改めようとしない。まさか一人暮らし先にまでおしかけてくるとは思っていなかったが。
「京ちゃんが美人さんの頼みを断る日が来るとはねえ」
やれやれと桜が首を横に振る。
「どういう意味だよ」
「別にぃ? ただ京ちゃんは女の人が大好きで、美人見たら発情した動物園のゴリラみたいにウハウハ」
「しないわ! 俺を何だと思ってるんだ」
桜の言葉を遮って反論。
桜はたまにわけのわからないことを言う。つき合いの長い俺も辟易させられることがある。だがつき合いが長いので対処法はわかっている。適当にあしらっておけばいいのだ。
ぶつぶつと妄言を吐き続ける桜に生返事を返していると、ふと妙案が浮かんだ。
「弘樹でも呼ぼうかなあ」
「えっ何で!?」
「え? 何でって……いたら楽しいかなあ…と」
弘樹の名を出した途端に桜が明らかに動揺した。今さら驚く意味がわからない。
「ひ、弘くんはやめよう。うん、弘くんは、だめだ」
「いや、高校からの付き合いだし、何を今さら…」
「だめだめだめだめ絶対だめ」
あれ、この二人仲悪かったっけ?
俺が沈黙した意味を悟ったらしく、
「ほ、ほら弘くんバイトで忙しいし、サークルで忙しいし、弘くんだし何かアレだし、アレだし」
と慌てて説明する。
「後半わやわやだな。意味不明だ」
焦りすぎて説明が説明になっていない。二回出てきたが、「アレ」が弘樹の何を差しているかわからないし、弘樹が弘樹であるのはどうしようもない。
察するに二人の間に何らかのトラブルがあったのだろうが、俺は特に突っ込んだりしなかった。深く突っ込んだ質問をして相手の気分を害するより遥かにいいと思っている。
「よーし、じゃあ私はご飯作ろっかなぁー?」
一人無様に焦っていたのが恥ずかしくなったのか、顔を紅潮させた桜が一際大きな声で言う。
意気込みを表そうと袖をまくり上げて露わになった桜の二の腕を俺は見つめた。
「その傷、まだ跡が残ってたんだな」
「あ……うん、まあね」
桜は傷跡を隠すように手で覆うと、逃げるように台所へと向かった。
野暮なことを言ってしまったと俺は少し自省した。仮にも女性なのだし、桜が傷跡を気にしているだろう事に気が付くべきだった。
桜の二の腕には刃物で切ったような跡がある。
なぜそんな傷が付いたのか、跡になって残ってしまったのか、原因は俺にも何か関係があったような気がするが、思い出せない。
そのときのことを思い出そうとすると何やら息が苦しくなるような不快感が……。
懸命に記憶を探っていた俺の意識は、台所から俺を呼ぶ桜の声で現実に引き戻された。
そして他愛もない話をしながら食事を終えた後には、二の腕の傷跡などきれいさっぱり忘れていた。