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《第二幕:野良犬が集う日》


《第二幕:野良犬が集う日》


『いやいや、すまない。リハビリ相手に同門の人間を何人か、と思っていたが、あんな怖い娘が来るとは。ありゃ何者だ?』

「僕の妹、弟子だ」

『奇遇だな、オレにも妹がいて。それはもう怖い奴だった』

「そうですか」

 携帯を耳と肩で挟んで生返事。

『月下から怪我をしたと聞いたが、どんな塩梅だ? 手足の一本でも取れたか?』

「問題ない」

 スローイングナイフの刃に爪を這わす。状態が悪い物を隣の美津に渡して研いでもらう。

 居間に広げられたブルーシート。その上には自分と美津の得物がどっちゃりと広げられている。美津には、自分が何をしているのか話した。そうしたら目を輝かせて協力させろといってきた。

『そいつはよかった。ちなみに、その妹をボコって感覚は取り戻せたか?』

「お前は、僕の事情どこまで知っている?」

『質問を質問で返すな。不毛だぞ』

 二つの鉄扇を広げる。金属とは思えない可動で作り手の腕の良さが窺える。親骨、中骨、飛び出した刃は何かの合金、軽いし打った感じでは粘りもある。扇面には対弾性のアラミド繊維が張られていた。美津の物だからか実に手に馴染む。

「ん~わからない」

『おいおい、自信ないねぇ』

「戦い殺すは無我で在れ、それが師の教えだった。ふらついたものを抱えて戦うことなんざ、一度くらいでは自信持てない」

『ベクトルを変えてみるのは悪い判断じゃないな。時間と運があればな』

 兄弟子の遺品を手にした。鞘を引き、刀身を現す。

 無銘、二尺三寸、刃材は玉鋼。おそらく古刀に分類される。使い込まれ何度も修繕された刃は、日の光にさらすと幾つも消せない傷が浮かんだ。だがそうであっても怪しく輝き、早く血を吸いたいと嘆いている。

「僕は」

 兄弟子は強かった。それを殺った手品師に、自分は勝てるのか。技のタネすら見切れていないのに。

「強くなりたい」

 美津のおかげで、その望みを思い出した。龍神町は目標だがゴールではないのだ。

『それで強くなる者もいれば、それだけじゃ強くなれない者もいる。さてお前はどっちなのやら、答えはわかってるな?』

「僕と歳変わらないくせに上から目線だな」

 不快とまでは行かないが違和感を覚える。達観した物言いが少しだけ師にも似ている。

『いや、かなり年上だぞオレ。若く見られるけどよ』

「いくつ?」

『いくつに見える?』

「不毛だから忘れてくれ」

 どーでもよかった。

『よし、それじゃ今回の敵はな。とっておきだ。二回目にしてクライマックスだと思え。場所はメールで送る。大体昼頃でいいぞ』

「ああ、期待している」

 美津が研ぎ終わった得物を並べて『次は?』という犬っぽい顔。頭を撫でてやると嬉しそうに目を閉じた。

『その前に、比良坂のエロい方に代わってくれ』

「月下~」

 迷わず姉の方に声をかけた。

「う?」

「太刀川から電話」

「あいあい」

 洗い物中だった彼女はエプロンで手を拭くと携帯を受け取る。

「もしもし、うん? あ~はいはい。別に大丈夫だけど」

 月下は居間から出て行く。太刀川と親しげに話す光景に、これとして別に、何も、感想はない。平常心、平常心だ。間違いなく平静だ。別段何も感情は動かない。ただふたりがどういう関係なのかよく知らないので少し不安を感じているだけだ。問題ない。何が問題ないのだろうか、よくわかないがきっと問題ない。

「兄さん」

「何だ」

 美津が少しばかり不機嫌そうな顔つき。

「兄さん………」

「何でしょう」

 むすーとしている。

「何でもありません」

 怒りが無表情で殺しきれていない。

「血脇~ちょっとそこ開けて」

 戻ってきた月下は長方形のケースを抱えていた。無造作に床に降ろすと、まず取り出したのは、長い銃身が二つ並んだ水平二連の散弾銃。

「ミロクFE、古いけど最高級品よ。男なんだから銃の撃ち方くらいわかるよね」

「いや、銃は避ける専門で」

「情けない。簡単だから教えてあげる」

 月下が銃を押し付けてきた。

「銃尾に肩を当てて、フォアグリップに左手、引き金を右手に、フロントサイトと当てたい目標を合わせる」

 後ろに回った月下が手を添え、されるがまま、いわれるがまま銃を構える。背中にムニっとしたモノが二つ当たって気が浮つく。

 横目に、更に無表情になった美津が見えた。

「引き金が二つ付いているでしょ? こっちで右、こっちで左の弾が出る」

 引き金を引く。心地よい二回の金属音。

「んで、こうするとパカっとするから」

 銃の機関部近くが折れ、二つの薬室が露出した。

「イジェクター付きだから、弾が入っていると自動的に吐き出される、そこに新しい弾を入れる。んで、また狙って撃つに戻る。ね、簡単でしょ?」

「ああ」

 当てる自信は一つもないが。

 続いて月下は弾の入ったケースを二箱並べる。

「弾の赤いやつがスラッグ弾。黒に塗ったのが銀と鉛の散弾。スラッグ、散弾と別々に入れ、撃ち別けると便利よ」

「えーと、月下。一つ聞いていいか?」

「何よ」

 流石に疑問が浮かぶ。

「最近の女子高生は、こんな銃に詳しいのだろうか?」

「最近の男子高校生は、こんな忍者や侍みたいな武器持ってるの?」

 お互い様なので深く聞かないでおこう。親しくなれば色々教えてくれるそうだし、色々と………。

「後、ナイフとかは沢山あるみたいだからっと必要なのはこれかな」

 革製の鞘に納まった山刀を渡される。

 何気なく鞘を引いて、寒気がした。

 刃渡り二十四センチ、幅広で肉厚の刃は銀のコーティングが所々剥げ、本来の鋼を覗かせている。業物だ。そして、これまで何を切ってきたらこうなるのか、恐ろしい魔性を帯びている。これは兄弟子の刀など比ではない。耐性のない者が迂闊に触れたら発狂するレベルだ。

「誰の物だ?」

 持ち主に興味が湧いた。そいつは確実に自分より強い。そして、少し前の自分が目指した完成形でもある。

 まさか月下の得物ではあるまい。

「色々持ち主を換えてきたそうだけど、最後の主はアタシの父親よ」

「会わせてくれ」

「娘さんをください、とでもいう気?」

「すまん、意味がわからない」

 頭を殴られた。

「無理よ。アタシらが生まれてすぐ死んだそうだから」

「残念だ」

「ま、あんたが気に病むことじゃないけどね」

 頭を撫でられた。

「顔もわかんないけど相手だけど、一応~親の形見だから返してよね」

「………了解」

 借りてよい物なのか迷ったが好意に甘える。

 散弾銃をするりとバッグに入れ、弾は取り出すことを考えてバラで投げ入れた。

「う?」

 月下が首をかしげて声を上げる。何だか可愛い。

 山刀は携帯できそうだから鞘をベルトに通して腰に固定する。月下は不思議そうな目でこちらを見ている。

「あの、アタシの見間違いじゃなければ、そのバッグどう見てもミロクが入る大きさじゃ」

 忘れず兄弟子の形見も収納。美津の鉄扇にスローイングナイフ。それと手斧に矢、和式ナイフに小太刀、鉄鎖、くない まきびし、広げた様々な得物の数々も残さず収納。

「て、手品?」

「どちらかというと呪<まじな>いの類かな」

「わ、便利! 今度教えて! 家の収納に使う!」

「んじゃ時間がある時にでも」

 一応、光樹の秘法なのだが、月下が嬉しそうなので良いか。それに家の収納に使うくらいなら問題ないだろう。………たぶん。

「兄さん、これも使ってください」

 黙ってた美津が木槍を差し出す。

「美津………これはまずい」

 顔をしかめた。

 木槍の名は、神守霊槍光樹。組織の名であり、象徴であり、力でもある霊木から造られた槍。それは一つの光樹であり、例え他の全てが滅びてもこの槍一つが残れば、そこから四法光樹はやり直せる。つまり当主の証のような物だ。

「僕が持っちゃいけない物だ」

「ウチだと思って持っていってください」

「色んな意味で重いから勘弁してくれ。これを紛失したり折ろうものなら、本格的に同門の刺客から追われる」

「ウチが重いのですか?」

「重い」

 様々な観点から凄く重い。

「兄さん、ひどいです」

 美津は叱られた子犬のように小さくなる。

「血脇、ひどいよ。どんな目にあっても妹を重いなんていっちゃ駄目。アタシ見損なったかも」

「月下、勘違いしないでくれ。この槍は本当にまずい。美津の家の権利書みたいなものなんだ」

「信頼されてるってことでしょ?」

「美津に信頼されても、美津の親とその他大勢は僕を信頼していない。そんなわけで返す。他はありがたく使うから」

「換えがきかない物だからこそ、兄さんに持っていってほしかったのに………」

 槍を美津に押し返すと、

「駄目」

 それを月下が持ってこっちに押し付けてきた。

「あの、月下」

「妹の頼みは聞いてあげる事、同じ妹と持つ者としての助言」

 月下は霊槍の重みをわかっていない。

「これは本当に大事な物で、僕如きが手にすることすら不快に思う人間もいる」

「アタシに詳しいことはわからないけど、使えとは美津ちゃんいっていないでしょ? お守りみたいなもんと思ってバッグに入れておけば?」

 最近、自分の意見は基本的に無視されている気が。

「そこまでいうなら、持ってだけゆく」

 しぶしぶ槍を手にしてバッグに詰める。美津が閃いたような顔つきで、月下に耳打ちする。

「ん? えーと、美津ちゃんを連れて行けば?」

「だ・め・だ」

「残念です」

 それだけはお断り。美津が変な知恵を手に入れて、面倒なことにならなければよいのだが。

「血脇くん」

 か細い声を耳が拾う。

「………制服、直ったよ」

 ソファの後ろから細くて白い手が伸びる。それは制服を握っていた。

「おお~夜ちゃん。我が妹ながら素晴らしい裁縫。新品みたい」

 月下が上着を広げる。

 夜来は朝からず~っとそこに隠れて、穴だらけにされた制服を修繕してくれていた。どうやら美津と顔を合わせるのが怖いらしく、自分の家だというのにおっかなびっくりしている。

「比良坂、ありがとう」

 受け取って袖を通すと微妙に重くなっていた。心臓と右の脇腹に鉄片が縫われてる。背中には衝撃吸収材が仕込まれていた。

「………ポケット、内側………読んで」

「?」

 流石に小さすぎて聞こえない。

「ほい、アタシからまたお弁当。食べやすいようにパンにしておいた。ありがたく思いなさい」

「ありがたいと思います」

 弁当をバッグに入れて準備完了、玄関に移動すると美津と月下が着いてきた。

「兄さん、頑張ってください!」

「………………」

 何故か、とっても痛い言葉だった。急に何をしてよいのかわからなくなる。

「あー血脇。気楽にやんなさい。何しに行くのかいまいちわかんないけど、嫌になったら帰ってきていいから。人間、生きてるのが一番」

「………はい」

「兄さん、がんば」

 月下が美津の口を後ろから塞ぐ。

「美津ちゃん。血脇なりにもう頑張ってるから温かく見守ってあげようか」

「ふぁいあぁふあ」

 モガモガと美津が抗議している。丁度よいのでさっさと行く。

「行ってきます」

「いってら」

「いぁふぁいあ」



 ▼



 街の郊外、荒れた畑ばかりが並び、背景を山で囲まれた場所。そこに寂れたアウトレットモールがある。

 建設当初はそれなりに話題となった巨大施設だが、似たようなものが各地に増え、飽和状態になる頃。

 立地が悪かったのか、特色のない経営が悪かったのか、単純に不景気が悪かったのか、知らぬ間に廃れて潰れる一歩手前。

 吹き抜けの二階部分は特にひどく、ほとんどテナントがない状態。赤字経営のせいか清掃までないがしろになり、モールの中心部にあるかつて豪華だった噴水もくすんでいる。

 その前に皆久は立っていた。

 行き交う大勢の人々を、これとした感想も持たず眺めている。しかし一方ではピリピリとした空気を感じ取ってはいた。いたが、誰が発信源なのかわからない。

 美津の殺気に中てられたせいで、微妙にその辺りの感覚が麻痺している。辛い物で舌が馬鹿になっているような。それでも、いざ来ればぬかりはない。つもりだ。

 敵に面は割れているはず。いつ仕掛けられてもおかしくはない。

 考えると憂鬱だ。

 他人を巻き込むだろう。巻き込んで余所から反感を買いたくない。下手して犯人と間違えられたら、光樹に暗殺の良い口実を与えてしまう。古巣の連中とは戦いたくない。

 人気のない場所に移動しようか、しかし指定された場所を離れるのも………そもそも敵の狙いはこの状況なのか? 変装でもするか、銃もあることだし二、三発威嚇して人を退かせるか、足りない考えを錯綜させて面倒になり秀一に電話。

『どうした、トラブルか』

「場所変えてよいか?」

 とりあえず、噴水から離れる。

『何を今更』

「いや、でも、ここだと一般人巻き込むだろ」

『巻き込まないぞ』

「………………」

 静音暗殺を得意とするタイプか、ならこの気配の乱れた空気も。

『オレだって大人だ。その辺りはぬかりない』

「ぬかりないのか」

 どういう事かわからない。

 さり気なく近づいていたジャージ姿の男が隣で腕を組む。

「動くな」

 サイレンサー付きの拳銃が腕の間に見えた。銃口はこちらに向いている。

「穏便に行きたい。例の物を渡せば、こっちもお前もすぐ家に帰れる」

 男は視線を余所に向けたまま小さい声で呟く。これは違う、と確信。

「おい、人の獲物に喰らいつく前に周りを見な」

 と、ニット帽を被ったラフな格好の男が、ジャージの後ろに立ち脇腹に何かを突き立てている。いや、これも違う。

「よしよし、てめぇら。邪魔」

 バチチチ、と音。繊維が焦げる匂いに男がふたり床に倒れて痙攣している。声は若い女だったが、腰を曲げた老婆が男たちの傍にいた。スタンガンが仕込まれた杖を向けられる。

「おい、やるぞ」

 現れた三人組みは隠しもせず小火器を手にしていた。ひとりは老婆に銃口を、ひとりはこちらの眉間に銃口を、ひとりが天井に威嚇射撃。

「全員床に伏せろ!」

 乾いた音の後、男の怒声が響く。銃というものに馴染みがなくとも激しい音と声で大抵の人間は従っただろう。

 だが、誰も伏せなかった。それどころか全員が足を止め、銃であれ刃物であれ鈍器であれ無手であれ得物を手に視線をこちらに向けた。

 それで納得した。

『そこにいる全てが敵だ』

「………なるほど」



 響いた銃声が静まった後、緊張を伴なった静寂が訪れる。

 銃にせよ刃物にせよ、素手にせよ人外の法にせよ、重大な問題が一つ。

 敵同士が密集しすぎている。

 互いに隣の者を殺すのは用意だが、その後を考えれば足が止まる。

 全員が全員、爆弾を抱えているようなもの。しかも少しの振動で爆発するタイプ。迂闊には動けないし、策でどうにかなる距離ではない。

 そもそもおかしいことが一つ。

 誰しもが、この距離になるまで相手に気付かなかったこと。同じ匂いに敏感な連中だ。その嗅覚で生き残ってきた人種でもある。それが今日に限って鈍りに鈍っていた。

 震える銃口を尻目に、皆久は敵の人数を数える。

 視界に入るのが三十五人、天窓辺りに三。気配を殺して影から窺っているのが二。警戒しなければいけないのは十いるかいないか。よくわからないのが三。

 数え終わると同時、

 静寂の中、

 ガラスが割れるかん高い音が響いた。

 噴水に腰掛けた小さな子供が瓶入りのジュースを床に落としていた。

 その音に混じって乾いた発砲音。

 撃った者も撃たれた者も間抜けな『え?』という顔。撃たれた者が苦し紛れにナイフを投げ、それが関係のない男の肩に刺さると。

 口火に、怒声と銃声が響く。血煙と硝煙が煙る。保身の為に銃を撃ち、保身の為に刃を振るう。何人かは徒党を組んでいたが、こうも密集した乱戦では下手に固まれば的になるだけ。

 十人近くが数秒で戦闘不能に陥ると、皆久にも銃が向けられる。

 拳銃四丁に自動小銃が二丁、撃ち殺す気で弾丸を撃ち出す。冷静さを欠いた行動である。高額で取引されるブツを皆久が今手元に置いていなければ、無駄骨もよい所だ。

「馬鹿が!」

 欲深い誰かが叫び斬り殺される。

 敵に身を心配されるほど皆久は堕ちていない。銃弾は確かに迫り、狙いの幾つかは急所に向かっていた。

 黒い風が舞い、線状の火花が散る。

 何が起こっているのか理解できた者は少ない。いつの間にか、皆久の右手には鉄扇があり。その周りでは弾丸を受け転がる者たち。

 銃を放った者たちの背後を、スーツ姿の男が取る。手にはアタッシュケース、いやケースで擬装したサブマシンガン。射線に男たちと皆久を捉え、一息で全弾を撃ち尽くす。

 血飛沫と共に迫る弾丸を皆久は真正面から迎え撃った。

 踊るような所作に舞う鉄扇。弾丸は無数の火花を散らし、標的とは別の的に当たる。

 ただの一発も傷を付けられず、スーツ姿の男は不敵に笑う。

 内ポケットから大口径のリボルバーを取り出す、片腕の照準、狙いは皆久の額、引き金を引こうと、その腕が斬り飛ばされた。

 リボルバーが腕ごと皆久の足元に転がる。

 メイド服を着たポニーテイルの女が、牛刀を持ってスーツの男に襲い掛かった。詰まらなそうな顔でスーツの男は応対する。腕からの凄まじい出血に顔色一つ変えることなく冷静に牛刀を避けていた。その後ろで蹴り飛ばされた人間が壁に叩きつけられる。

(混んできた)

 理性を失い無茶苦茶に刃物を振り回す者。それの頭を吹き飛ばす者。逃げ出す者。背中を撃たれる者。手負いになり道連れを探す者。

 混乱が狂気に変わりつつあった。

 そんな混戦でも、狩る者と狩られる者が明確になってくる。配置に運の要素があったとしても、運だけでは絶対埋められない実力差というものがある。

 流れ弾を鉄扇で受けて、皆久は考えていた。

 この状況は偶然ではない。仕掛けた奴がいる。たぶん皆久もその術中である。どんな影響なのかわからないが、体は動くし調子は良い方だ。それに、これ以上心配をしている暇はなさそうだ。

 皆久と同じように、乱戦が始まってから一歩も動いていない奴がひとりいる。

 彼女は、噴水に腰掛けたままガリガリと飴を齧っていた。

 ゆるく波打つ長くふわふわした金髪、碧眼、陶磁器のような肌、良く整った面立ち、十歳くらいの見た目に相応しく小柄で、オーバーサイズのコート越しでもひどく細身なのがわかる。彼女の足元には食い荒らしたお菓子の袋が散乱していた。

「あ?」

 皆久は思わず声を上げる。

 彼女は片手を大きく天に向け、その小さい手の平の上には鉄製のゴミ箱があった。誰が見てもゴミ箱のサイズは彼女の五倍はあり、その重さもどんなに軽い合金を使っても相当なもの。

 それが、皆久目がけて飛んできた。

 カタパルトの投石を正面から見た気分。

 皆久は鉄扇をくわえて、バッグに手を入れた。手の感触で適当な物を掴む。引き抜くと同時の斬撃。

 両断されたゴミ箱は五人を巻き込んで吹っ飛ぶ。皆久の腕には逆手に持った曲刀。

 どういうトリックかはわからないが、彼女が手をかざすとベンチが引き寄せられる。そして撃ち出された。

 曲刀の一閃が木製のベンチを断つ。

 二歩、皆久は彼女に向かって足を進めた。

 お次は立てつけの悪かった店の看板。

 容易く断ち。更に二歩進む。

 自動販売機が転がってくる。軌道を読んで踵で蹴る。横に回転しながら空き店舗に自販機は突っ込んだ。

 二歩進む。

 コートの下から無数の杭が転がる。彼女が指揮者のように両腕を振る。全ての鋭角が皆久に向いた。

 ため息。

「稚拙」

 放つ前から狙いを見せてどうする。

 皆久は深く息を吸い、止める。

 迫る凶器の群。

 瞬きの内、金属の破片が散り、赤の飛沫が壁に中空に、床にはドロっとした赤が広がる。皆久は、隙あらばと襲ってきた四人を巻き込み全てを斬り捨てた。

 二歩。

 これで彼我の距離は六メートル。気合いを入れれば瞬じて詰められる間合い。つまりは薄皮一枚の距離。

 子供が、怯えていた。

 これだけ分かりやすくしてやったのだ。意図も理解できただろう。

 次手で駄目なら殺すぞ、と。

 刃こぼれのひどい曲刀を担ぐ。こんな状態でも柔い肉を斬るのに何の苦があろうか。

 子供とじゃれたのは良い具合に他の連中の戦意を削げた。巻き込んで数も減らせたし、多少無理をして正面から受けただけの成果はある。

 次に来るのは、

「おい、そんなガキより俺と遊ぼうぜ」

 真後ろ。

 気配は読んでいた。しかし、迫る圧に体が防御体勢を取る。鉄扇を広げ背を守った。

 予想より遙かに早い衝撃。蹴り飛ばされた皆久は噴水に突っ込み、その一部を砕いて跳ねる。

「ん、死んだか?」

 男は、転がる曲刀を足で拾うと刃を握り潰した。

 長身痩躯の男だ。ダメージデニムに、返り血の着いたジャケット、ボロ布のようなフードから覗く赤い目。

 いいや、そんな訳ないな、と歪む口から長い犬歯が見えた。

 皆久は飛び起きる。完治していない傷の幾つかが開いたが、まだまだ行ける。ひしゃげた鉄扇を捨て、バッグから小太刀を取り出し、

 男が駆けていた。

 人の速さではない。

 眼前に拳が迫る。

 当たれば死ぬ拳は空を貫いた。皆久は男の脇をすり抜け、すれ違い様その足を斬る。

「!?」

 肉は裂いた。骨が断てなかった。刃越しの感触は骨ではない。しかし金属とも違う。皆久は驚いたが、動きによどみはない。振り向き、スローイングナイフを投擲。男の喉に突き刺さる。表情一つ変えず男はナイフを抜いた。血が一筋流れると、それで傷は治癒。

 皆久は二度も驚きはしない。ただ、解りきった質問をした。

「あんた、人か?」

「確かめて見ろ、小僧」

 男がナイフを放り投げる。それが落ちるより先に拳の乱打が皆久を襲う。

 嵐のような風圧、上着がなびき布の切れ端が散る。まともに当たれば死ぬ威力。しかし、いかに早く重い必殺の拳であろうとも、狙いが単純過ぎる。

 皆久が師から教わった最もの基本は、点と線だ。

 避けるということは彼<ひ>が生む線から退くこと、

 点とは線のはじまり、点を線と意識して、線を曲線と意識して、曲線を円と意識して、それを敵の間合いとする。

 男の直線なら、視界から外さない限り見逃すことはない。

「はしっこい」

「どうも」

 せせら笑う男に笑い返す。避けるだけと思うな、そう呟き。

 斬るということは己が生む線を中てること、

 己の線を意識し、己の線が届く距離を間合いとし、己が捉えられる線を円とし、造る死線に入る者を必殺とする。

 見え見えのストレートを避けて、小太刀の柄で男の側頭部を打った。

 衝撃は脳を揺らし男の足元を崩す。

 傾けた開けたバッグの口から武器が流れ出る。

 爆ぜるが如く動いた。

 血しぶきが上がり、男の体に得物の数々が突き刺さる。

 瞬時に行われた技は陰惨無情。

 腹に刀剣が二本、小太刀が胸を貫き、首には手斧が半ばまでめり込む。心臓に撃ち込んだグラディウスが硬い骨に邪魔され止まる、しかし、

「ッ、アアあああああああ!」

 獣のように叫び、その柄に渾身の蹴りを入れた。

 男はよろめき血の固まりを吐き出す。

 倒れない。

 人間なら五回は即死している状態で、倒れすらしない。

「いいぞ」

 心底うれしそうに男が笑う。肉に挟まれ、突き刺さった得物が砕ける。

「ここまで来た奴は久々だ」

 敵を目の前にして、皆久は別の敵を思い浮かべた。

 龍神町夕顔。

 これとは違った強さでも、これと似た驚異を持つ。瞬転する戦いで、別の思考を持つことがどれほどの隙か、皆久は忘れていた。いいや、忘れるほど男の持つ驚異に押されていた。

(切り替えろ!)

 数秒で傷の全てを完治し化け物が迫る。

 感覚の狂いはわずか、頭を戦いに戻す。

 速度が更に増し瀑布のように拳が迫る。見えている。避ける。どれも傷には至らない。

 先ほどの繰り返し。

 違うことといえば皆久の動きに明らかな鈍りが現れていること。スタミナが限界に近い。その上、開いた傷から血が滲む。

 男の動きは速く人の域を超えているが、動きを捉えることは難しくない。ただ体が対応できない。痛みが関節を堅くし足を重くする。その度、無理に動かそうと体力の消耗は増す。

(まずい)

 詰められている。

 しかも途方も無い力押しで。

 あの時と同じだ。

 そして一度狂った感覚をすぐ戻せるほど、皆久は器用ではない。男の攻撃ばかりに注意を向け、場の把握を失念した。足が血を踏み滑る。そこに隙、

「がッ」

 拳が皆久のわき腹にめり込む。

「捕まえたぞ」

 男の強力な踏み込み、床に亀裂が走る。

 拳が肩に落ち、皆久はひざまづく。男が片足を上げ踏みつける。

 半ば意識を失いかけた皆久、だが染みついた技が自動的にもう一つの鉄扇を広げ防御。男は構わず踏む、皆久の背中が床に着く。そして何度も何度も何度も踏んだ。鉄扇はひしゃげ、足が落ちる度に血が飛び散る。

 他の人間は止まっていた。

 誰もがあまりにも一方的な展開に手を出せないでいる。化け物が人を蹂躙する様に見とれていた。そして一つの感情が湧く。

 恐れ。

 直に知る者もいれば、隠された情報を好奇心で見た者もいる。それは二十年前に駆逐されたはず。人の多くを犠牲にし、人類史上最多数を餌食にした病魔。人の天敵を人で作り、それは人の血を求め、人を喰らい、更に更に殖<ふ>え。それがまた人を求め………

 あまりにも多い犠牲者数の為、文明は一時的な後退を起こし、三年という奇跡的な期間で駆逐できた時には、国家や企業、人の在り方をひどく歪めていた。裏にあったものが当然に表に在り、当たり前にあったものが影に埋もれる。

 多くの指導者たちが行った最後の処置は、それの存在を世界から消すこと。

 全ては無理でも、歴史にさえ残さなければ時の流れと共にそれは消える。事実であったことすら定かではなくなる。それで良い。

 無論、今の世代にその存在を知る者はいない。もちろん、その対抗策もまた。

 例外があるならば。

「まあ、こんなものか」

 男は鉄扇越しに皆久を踏んだまま、ため息をもらす。しかしながら、充実した表情も見せた。

 皆久に動きはない。死んだのか。気絶したのか。男はその頭を掴んで持ち上げる。皆久の手足がだらんと伸びる。指先にひっかかっていた鉄扇が落ちる。

「人にしてはよくやった。褒めてやる小僧。………さて、龍神町がこれ以下ということはあるまい。実に楽しみだ。世界にはまだまだ愛すべき敵が多い、狩場はどこまでも広がる。果たしてこの身が朽ちるまでに食い尽くすことができるのやら」

 男の酔った語りに、一つ聞き逃せない人名があった。

「今、何て、いった?」

 霧散していた皆久の意識に火が点いた。震える手が、得物の柄に触れる。

「小僧、お前の出番は終わりだ。わきまえろ。歯牙も無い身で逃げるのは黒虫と同じだぞ。潔く」

 頭を潰そうと男が力を入れる。人の頭をトマトのように潰すことなど男には容易なことだ。それより皆久が遅ければ、だが。

 銀光の一閃。

 常人の目では到底捉えられない高速、男の胸と肩から血が跳ね上がる。確実に骨まで断った一撃、一秒、二秒、三秒と数え、再生がはじまっていないことを確かめる。

 拘束から放れ、ふらついて着地すると皆久は吠えた。

「あれはッ僕の獲物だッ!」

 皆久の震える手には山刀が握られていた。

 忘れていたわけではない。ただ、あまりにも強い魔が宿った得物故、冷静さを保てる自信がなかった。今なら丁度良い。龍神町の名前を聞いて冷静でいられるはずがない。

 こいつに負けたら、こいつは龍神町を殺りに行く。それが何よりも許せない。何をしてもここで止める。確実に、絶対に。あれが何かの間違いで負けようものなら、自分の汚辱はどんな方法で晴らせるというのだ。

 血を吐きながら叫んだ。

「大概にしろボケが。化け物が化け物を殺して何になる。おとぎ話じゃ定番だろ、人間様が化け物を殺すんだよ!」

「その体でよく鳴く。豚か貴様はッ、なら最後に大きく鳴いて見せろ!」

 男に踏まれながら、皆久は一つのメモを読んでいた。それは夜来が仕込んだ物だった。服の鉄片が砕けた時にずり落ちてきて“偶然”目の届く所にあった。

 思えば、服の背に仕込まれた衝撃硬化材は実に上手く男の攻撃を防いだ。腹の鉄片もだ。まるで、そこに攻撃が来ることをあらかじめ予想していたかのように。

 メモにはこうあった。

『吸血鬼にご注意』

 昔、光樹が滅ぼすのに一役かったケダモノの名前。今は名前すら消された化け物。その対抗策は。

 男は近づいて左腕を振り上げる。右肩の再生は銀の抵抗で遅れている。

 近づいてくれたこと皆久は感謝した。これだけ近ければ外しようがない。

 ぎょ、と男が目にしたのは、二つの銃口。重なり一つになった銃声が吼えた。

 銀の散弾とスラッグ弾を受けた男は派手に吹っ飛び転がる。

 山刀の柄を口で咥える。

 ミロクを折り、空の薬莢を吐き出し<イジェクト>、バッグから弾を一掴みする。二、三発落としながら、もたつく手で薬室に弾を込める。

 月下に教わった通り、構え、狙い、撃つ。撒き散らされた散弾を男は両腕でガード。肉に食い込んだ銀の散弾は強烈なアレルギー反応により吸血鬼の血肉が焼ける。

 薬莢が吐き出される。給弾しようと、男の姿を見失う。ミロクを捨て、見えないならと勘で背後を薙ぐ。

「ッぐ」

 男の声に、厚いゴムに似た肉の感触。

 男の腹に山刀の刃が潜り込み、

「調子にッ乗るなッ、小僧!」

 コーティングされた銀が肉を焼き血を蒸発させている。切り落とすには速度が足りなかった。抜けない山刀を一瞬で見限る。手を離し退くと、今いた空間を蹴りが通り過ぎた。

「調子が悪そうだな、吸血鬼」

 散弾のせいで全身から煙を上げている。特に重いのは胸から右肩に走る傷、骨が露出していた。吸血鬼は腹から山刀を引き抜くと忌々しげに投げ捨てた。握り潰す余裕もないようだ。

(さて………これで条件は同じ)

 兄弟子の遺刀をベルトに差し込み腰に帯びる。

 疲労は限界、全身を満たす鈍痛に熱、立っているだけで吐きそうなほど辛い。それと実は、美津にやられた左腕がずっと満足に動かない。

 こんな状況で、

 何故だろうか、

 とても血が沸く。

(一手か、ニ手)

 それが残された手数。失敗すれば、いわずもがな。

 深く呼吸をして、歯を食いしばる。

 自分の技は不死性を斬り捨てるに足るか、否か。

 挑戦してやる。

 男が駆ける。出し惜しみなし、圧倒的な手数を繰り出す。

 皮膚が泡立つ。心臓が高く鳴った。骨が軋む音が聞こえる。肺が空気で膨らみ、呼吸を止める。乱舞する男の拳がゆるやかに遅くなる。

 世界から色が失せた。 

 粘質を帯びた世界に、加速した感覚だけが走る。

 膨らんだ殺気に気付き、男が表情を崩す。

 抜刀、練られた殺意の刃は男の顎を斬り飛ばす。男ははじめて退いた。衝撃も痛みも血もない感触に驚きを見せ、それが錯覚だと気付く。

 幻視の居合い。

 刀は今だ鞘の中、殺気だけを飛ばした。

 隙を逃さす。身を伏せ、地を蹴り滑空した。

 刹那。

 間合い、

 鞘走る本物の刃。安定しない片手の抜刀だが。

 殺った。

 その確信と同時に、

(比良坂?)

 モノクロの情景に、比良坂夜来の姿を見た。何故こんな所に? 

 ぶつり。

 ふとした疑問は極限まで高めた集中を切る。

 色の戻った世界、自分でも知覚できない神速の白刃が鳴く。振りぬいた直後、手から刀が離れ右肩が嫌な音を立てて筋を痛めた。

 だが確かな感触。

 ワンテンポ置き、血袋が割れたような出血。でろりと蠢く内臓がこぼれ落ちた。

 左の脇腹から右へ、刃は背骨をかすめ肉と中身を斬り抜いていた。

 男は憤怒の表情で皆久を睨む。睨むが、それ以上のことはできない。

 行動不能の傷だが、時間さえあれば男は再生するだろう。それを待つほど自分は愚鈍でないし、見逃すほど慈悲深くもない。

「何か、言い残すことは?」

「貴様にはないな」

「そうかい」

 バッグから霊槍を取り出す。

 男は、ここにいない男の名を叫ぶ。

「秀一! 聞こえているか! 貴様のことだッ、どうせ見ているのだろう! ………………礼をいう! 実に満足だったぞ! 先に逝っている!」

 男の叫びを聞き届け、師に聞いた通りその心臓を木の杭<槍>で貫く。

 心臓が止まる感触を手に感じ、槍を抜いた。化け物の血が尾を引く。

 皆久は、重たくため息を吐いて体を霊槍に預ける。


 それは、誰が見ても最大の隙だった。


 トン、と軽く背中を押され皆久はよろめく。バランスを崩し、尻餅を着いてから背を押した人物を視界に入れる。

「比良坂?」

 先ほど見たのは幻覚ではなかった。制服姿の夜来が、何か必死な顔で手を伸ばし、いいや、自分を突き飛ばした後の体勢で。

「え」

 まるで魚が水面から飛び出し虫を喰らうように。

 また猛禽類が地を這う動物を空から襲うように。

 草を食む生き物が肉を食む物に食われるような。

 ただ、当たり前に自然にある残酷でシンプルな、捕食という行為。

 夜来は、足下から突きだした黒い塊に丸飲みにされた。わずか片手の手首だけが塊の口らしき所から余った。くもぐった声が聞こえる。それはすぐ肉を噛み骨を砕く音に変わる。続いて咀嚼する音。最後に、飲み込む。

 体を失った白い手が落ちる。転がる。それが比良坂夜来の物だと理解するのに数秒かかった。

 黒い塊は手首を一口で飲み込むと影となり、ひとりの女の元に移動する。

 いつの間にか噴水の上に立つ女。シルクハットに燕尾服、下半身はレオタードに網タイツ。長身で胸が豊かな手品師。幼稚なツインテールに笑顔の固定表情。人工的な美形。

 うやうやしく手品師は会釈をするとよく通る声を響かせた。

「お集まりの紳士淑女の皆様方、今日の良い日によくお集まりいただきました。さて、このたびは一つの影と大きな獣を使いましての手品でございます。影は照らされ変幻自在、ウサギ、少女、老婆にカニ、ライオンと棺を担ぐ男、まるで月に浮かぶ模様の如く移り変わり――――」

 ぐちゃりとした思考の中、ただ確かにある激情だけで地を蹴る!

 霊槍の一突きは女の顔面を貫く。

 貫いたはずだ。

 確かに眼球と骨と柔い脳髄の感触が手に伝わる。だが刹那、槍は何も貫いていない。女の姿はそこになかった。

 そして自分から左斜め後ろ、そこで平然と悠然と指をパチンと鳴らす。

 衝撃、床に叩きつけられた。

「お客様、お触りは厳禁ですよ。当座の売り物は芸であって人ではありません~」

「う、がっ、がはッッ」

 吐血。体が止まる。重たい睡魔に死の匂いがした。動け、動け、動け、と自分に命じる。それでも血で濡れた手から槍が滑り落ちる。

「これはすみません皆々様、お急ぎの方もいらっしゃるご様子。では演目を少し省略いたしまして、当座の花形グランドイーターをご紹介いたしましょう。これは数多く、数千、数万という無辜の民を食らった人喰王のなれの果て。地中深くに封印されたものの、死にきれず、あまりの飢えから自分の体にかじりつき、身を消し影になった今でもその食欲は収まることなく。では! 皆様も! その食欲をご賞味あれ」

 影が分裂する。おそらく、ここにいる人数分。

 悲鳴がこだまする。

 それは戦いと呼べるものではなく、原始的な殺戮。銃や刃物など物ともせず影に似た化け物が人を襲う。対応できない者から次々と食われていった。

 頬にぬめった感触、ああ、次は自分の番かと無感動に死を自覚する。

「撤退であります!」

 声と共にポニーテイルのメイドが降り立った。彼女に担がれる。嬉しそうに牛刀を振り回していた人だ。何故、彼女が自分を助けようとするのかは疑問に思う暇すらない。

「間に、合わない」

 自分の足下で影はもう口を広げていた。鮫のような歯が、びっしりとすり鉢状に並んでいる。これなら一瞬でミンチになる。

 彼女が地を蹴るより先に影が彼女の足を腿を、次に腹を食らい肩に乗せた自分を砕く。そうやって自分の人生は終わる。

 そうなるはずだった。

 加速、数瞬の重力からの解放。

 メイドは人ひとり担いだまま驚異的な跳躍を見せた。吹き抜けの二階に着地して駆け出す。絶対、間に合わないタイミングだった。あの手品師には気分で殺しを止めるような人間的な部分は感じられない。

 何故?

 遠ざかる手品師は追撃してくる様子もない。一瞬の錯覚か、その手品師の横顔が夜来に見えた。 そして巻き起こった闇が嵐のように全てを包み込む。



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