《第一幕:負け犬は目を細くして微笑む》
《第一幕:負け犬は目を細くして微笑む》
カァー。
と、黒い鳥類に囲まれ皆久は起きた。数えて十二羽、二十四の瞳に顔を覗き込まれている。
「………………」
「………………」
人類対鳥類の無言の対決。動いた方が先にやられる。そんな張り詰めた空気が、
「うっわ、また集まってる」
比良坂(姉)の介入であっさり終わる。彼女は皆久の毛布を取り上げ、バッサバッサと扇いでカラスを追い払った。
「………何だ。まだ生きていたの」
「生きていて、すいません」
温かさを奪われ欝になる。胸の炎と再起への誓いは夢の中に置いてきたようだ。しかも寒い。朝の日差しが痛い。毛布の温かさが恋しい。
「ん?」
と、皆久は比良坂(姉)の抱えた毛布を見る。
「それ」
「朝ご飯食べる?」
「頂きます」
些細な疑問は空腹で消える。比良坂(姉)の後ろに続いてリビングに入る。みそ汁の匂いがした。
テーブルには、焼き鮭、タマネギのサラダ、キュウリの酢の物、納豆、牡蠣のフライ。みそ汁の具は大根だった。
「適当に座って」
椅子に腰掛けると、大盛りのご飯が置かれた。
「ど、どういうつもりだ」
「あ?」
比良坂(姉)がジト目で睨んでくる。怖いので目を逸らした。逸らしたまま、一応真意だけは確かめる。命にかかわるので。
「な、何だこの食事は? 最後の晩餐か? 世界とか滅びるのでしょうか?! 毒殺にしても造り過ぎだろ。何人分だ?」
「ひとり分よ。わっけわからないこといってないで、さっさと食べなさいよ」
「くっ」
恐る恐る、みそ汁を口にした。毒物耐性ならあるが、こんな量に耐えられるのか疑問だ。疑問だが、口に広がるうま味とか塩気で割りとどうでもよくなった。
「あ、味がある」
「そんな低い水準で感動しないでよ」
皆久は、一皿一口ずつパクつき衝撃に体を震わせる。
「タマネギ辛かった?」
「いや」
比良坂(姉)は頬杖ついて皆久を眺める。しかし皆久には料理しか目に入っていない。
「箸の使い方は上手いね、食べ方も綺麗だし」
「指先で殺せなくては、何の得物も扱えないからな」
皆久は得意気な顔つきで牡蠣フライを貫く。口に運ぼうとして『やっぱりこいつはアレだわ』という比良坂(姉)を目に映し、今更とてもとても遅いが、彼女が料理に手をつけていないことに気付く。
「や、やはり」
毒か。
盛られていたのか。
だが、フライはサクサクして止まらない。味の奔流に負けまいと口内で白米が踊る。二者の戦いは、ほぼ相討ちに終わり。死闘の残響はみそ汁に流される。
次の戦いの為に。
そう、人に振り返る暇などないのだ。
時は温度を奪う。過ぎ去った鮮度は二度と戻らない。最早、止まれない。新たな相手を箸が選ぶ。急き逸るが、無情で正確な動きは的確で獲物を逃さない。
誰しもが強敵で、皆忘れ難い逸材であった。できるならもっと分かり合いたかった。それからでも遅くはなかった。皆久は、胃に去りやがて血肉になるものたちに最大の敬意として心で敬礼をした。
そんな感じで完食。
「クッ」
胃に鈍痛が走る。そうか、ここまでか。だが自らを褒めてやりたい。よくぞここまで持った、と。後悔はない。良い戦いだった。満足だ。
「胃小さいの? 男なんだから、これくらい食べられるでしょ」
「僕にご飯を残せというのか」
「いや、無理して食べなくてもね」
胃は重たく軽い吐き気はあるが、それ以上の症状はない。どうやら、ただの食べ過ぎらしい。まだ、遅効性毒の可能性は捨てられないが、それは置いておいて。
「火事でアパート失くしたんだって?」
比良坂(姉)は皿を片付けながら聞いてくる。
「はい………恥ずかしながら」
「ふ~ん」
何となしに皆久は首を掻く。痒みを感じたからだ。指先に触れる二つの痕、どうやら虫に咬まれたようだ。
皿を洗いながら、比良坂(姉)は背中でいう。
「夜ちゃんね、今寝込んでいるのよ。あの子、凄い対人恐怖症で近所のおばさんに挨拶されただけで熱出すの。それがまあ、彼氏を連れてくるとは。飛躍し過ぎ、アタシものすごい敗北感を味わってる」
ひとつ身に覚えのない言葉があったが聞き流す。
「ひとついっておくけど、夜ちゃんの苦しみはアタシの苦しみ。妹を悲しませるような真似をしたら」
鈍い包丁の輝きが見えた。
「了解、です」
味わったことのない迫力に気押される。
「そう、わかればいいの。アタシ個人としては、あんたみたいな危険人物を家に置いておきたくないけど。夜ちゃんが必死にお願いするから、仕方なく、千歩譲って、しばらく泊めてあげる。でも、ルールを幾つか設けるから絶対守るように」
「はい」
皆久の気質は、制約があった方が楽だ。下手な自由は苦痛でしかない。つまらないことばかり考える。
「まず、食事はアタシが三食しっかり用意するから外食はしないように。リビングとトイレは自由に出入りして良し。他は侵入禁止。お風呂は最後ね。変な気を使って掃除とかしなくて良いから」
「了解した………ええと、比良坂?」
「アタシは月下でいいわ」
「了解だ」
「でも、夜ちゃんを馴れ馴れしく呼ぶことは許さない」
「了解した、月下」
「アタシ、夜ちゃんの看病するから学園休むけど。血脇はどうするの?」
そういえば、月下はホットパンツにキャミソールとラフな格好。学園の一応の登校時間を考えれば準備している暇はない。
「僕は」
と、古風な黒電話の呼び出し音。太刀川に渡されたケータイが鳴っていた。上着のポケットから摘まんで取り出し『僕だ』と出る。
『どーだー? 姉妹丼はもう食べたか?』
「それはどういう食べ物だ?」
『男の浪漫かな』
「ほほー」
少し興味がある。月下に頼んだら作ってくれるだろうか。
『さておきな、初戦の相手を見繕ってやった。場所はメールに添付して送る。一時間以内に到着しろ』
「どんな相手だ」
『おいおい、皆久くん。殺しの仕事じゃないんだぜ。敵は常に未知で不確定だから己の肉になる。アドリブ、フィーリング、イマジネーションだ』
「なるほど」
その場で何とかしろということだろう。あの手品師にしても龍神町にしても、まともが通用しない相手だ。やり方を模索するには無心で望むの手だろうか、当たって砕ける可能性もあるが。
「用事ができた。外出する」
「そ、何時帰ってくるの?」
「む………………」
そもそも永遠に帰れないかもしれない。
「あーその、遅くなるかもしれない」
「そ、お弁当詰めるからちょっと待って。夜ちゃんに外出するって、いっておきなさいよ。じゃないとアタシが追い出したみたいに見えるから。部屋は廊下左。あ、今回だけ特別だからね。それと顔洗いなさい、洗面所は玄関そば」
こくんと肯いて皆久はスポーツバッグを担ぐ。洗面所を借りて身支度。鏡の自分は生きているのか、これから死ぬのか。比良坂の部屋に向かった。『夜来』とプレートがかかった戸をノックする。か細い返事。
戸を拳一つだけ開ける。
「比良坂。ありがとう世話になった。ゆくよ」
「………………」
返事はなかった。戸を閉めようとして『血脇くん』と名を呼ばれる。
「いってらっしゃい」
「………………」
か細いのに、やけにはっきり声が聞こえた。何と返事してよいかわからず口ごもる。言葉は出ず、沈黙のまま戸を閉めた。
「はい、お弁当。こっちがお茶。こっちがおみそ汁」
月下が後ろにいた。スポーツバッグに弁当と水筒二つが突っ込まれる。月下は何故か嬉しそうに八重歯をのぞかせて笑った。
「じゃ、いってらっしゃい」
「………………」
「いってらっしゃい」
「え、あ、いってきます」
ああ、そうか。仮初めといえ、誰かが待っている場所なのだ。ここは。
背中を向け、去りながら月下は手を振る。
軽く頭を下げて比良坂のマンションを後にした。
▼
地図の場所には徒歩二十分で到着。
繁華街の喧騒から少し離れた地域、薄汚れた三階建ての廃ビル。窓は薄汚れヒビが走り、半分消えたテナントの名前が残っていた。
目的地はこのビルの地下。
入り口は施錠されていなかった。
気配を殺し、気配を探り、すり足で進む。相手は全くの未知、度を越して慎重になっても不安ばかりが脹らむ。
自分の技術はどこまで高みに登っても、昨日の手品師や、龍神町のような未知には対抗できない。いいや、対抗できないからこそ負けた。戦い方さえ見つけられれば刃は届くはず。届くと思い込まなければやってられない。
壁紙が剥がれ、人の名残が埃の下に埋まっている。置いて行かれた椅子がぽつんとあった。それに転がった電話機。空き缶やら鉛筆やらゴミが落ちてる。
地下に降りる階段はあっさり見つかった。
一段一段、踏みしめながら暗闇を降る。目はすぐ慣れたが得体の知れない感情に汗が滲む。荒れそうになる呼吸を静かに押し殺して整える。
罠の類も見つからず。地下に着いた。
廊下の先から、ほのかな明かりが漏れている。警戒を怠らず足音を消して進む。そこはテニスコートくらいの広さがあった。コンクリートがむき出しで寒々しく。西洋風の照明器具が一つ床に置いてある。
側に佇む、ひとり。
年頃は十代後半。薄闇で更に深く黒い長髪、栄える白い肌。切れ長の目に紅を引いた赤い唇。まるで和風の吸血鬼のような風貌。古風なセーラー服を身にまとい。片手には、儀式的な装飾がなされた黒塗りの木槍を携えている。
目が合うと、彼女は薄い微笑みを浮かべた。
「美津<ミツ>」
自然と、その名が口から出る。
「兄さん」
妹弟子の美津だ。血脇の、現当主の娘。何故か皆久によく懐いて、血脇の家では着きっきりで側にいた。歳の離れも気にせず皆久と同じ修練を積み。常人なら廃人か死人になる所を、容易く着いて来たのは直系の血がなせる力か、そう望まれて生まれてきたからか。
素養だけなら、皆久が知る誰よりも大きな物を持っている。
「ここで何を」
「兄さんを待っていました。一緒に帰りましょう」
「帰る?」
美津の言葉が飲み込めず繰り返す。
「皆が変な勘違いをしているの。そんなこと無いのに、ウチがいっても誰もわかってくれなくて、だから兄さんが直接誤解を解いて」
「勘違いって何だ」
心当たりはある。しかし濁す。
「兄さんが負けて、尚且つ醜く逃げ回っていると」
懐いていても、美津は血脇だ。血の濃さと同じく信条も濃く流れている。
唇が開かない。
どこか酔ったように美津は喋る。
「そんなこと、ありえるはずないのに。下種が集まって悪口を吐くものだから、ウチもやんちゃしちゃいました」
美津が槍を振る。足元に液体が飛び散る。
緊張のせいか、それとも鈍って感覚が鈍っていたのか、辺りに立ち込める血の匂いに今更気付いた。
美津の後ろに五、六人が折り重なり倒れている。鈍い声が漏れ、恐らくまだ死んではいないようだが軽傷ではないだろう。
「美津、その間違いないよ」
「そうですよね。ウチの兄さんがそんな、え?」
きょとん、とした顔。少し会わなかっただけで随分と大人びたというか、綺麗になったなぁ、と全然関係ないことを思う。たぶんこれは逃避なのだろう。
「いや、その、負けたよ僕は」
「………………」
美津の顔から表情が消える。
この子の前では正直に話そう。
「圧倒的にやられた。手も足もでなかった。正直な所、欠片も届かなかったんだ。だけどさ」
「あなた、誰」
「え?」
言葉と裏腹、そんな射殺すような視線は他人には向けない。
「美津、いや僕は」
「違う、違うッ!」
髪を乱して美津は全身で否定する。
「ウチの兄さんは誰にも負けません! 一番強く、格好よくて! 負けるはずがない!」
「聞いてくれ! 確かに僕は負けたがもう一度!」
「あなた………誰」
壊れた人形が前にいた。
皆久は知らなかった。
血脇美津にとって、皆久の強さは絶対的な信仰だった。切っ掛けは彼女も忘れた。ただ狭く囲われた世界の中で強く彼女を惹きつけ、危険な熱病のように蝕んでいた。彼が命じれば美津は死ぬし家族すら、いいや家属すら殺すつもりだった。
全てを彼の強さの為に、そんな呪いが血に流れている。
そう、皆久の敗北は受け入れがたい。有り得ないのだ。自分より大事な者が自分を裏切って良いはずがない。
盲目になって心を閉ざすには十分な事実。
確かに美津は皆久に懐いて異性としての好意も抱いていた。だがそれは、龍神町に敗ける前の皆久を、である。
そうでない今の皆久は直視すらしたくない残骸。いいや、今すぐにでも消して忘れ去りたい憎悪の対象でしかない。
▼
槍を引く様しか捉えられなかった。
太腿から甘く血がしぶく。咄嗟に足を引かなかったら骨まで達していた。鞭のように美津の右腕がしなる。
一拍遅れた腿の痛みに足が止まり、次の一撃は腹に刺さった。
「ぐっ」
貫かれなかったのは染み付いた生き汚さ。それと槍を挟み込んだ両手。鈍った精神でも勘は働いてくれた。
ぐち、ぐち、と穂先が肉に食い込んでくる。吐きそうになる痛みと手の平に染みる赤い血が体を動かす。
槍の柄に膝を叩き込み、折り、いや折れない。ゴムのような反りを見せてたわむ。この木槍は、光樹という霊木を薬液で補強し、鉄に近い強度と若木のしなやかさを併せ持たせた代物。組織が代々製法を受け継ぎ、当主に近い極僅かな者だけに与えられる得物。
腑抜けの蹴り一つで折れるような物ではない。それがわかっていたから、体を捻り槍を曲げる。膂力と体格だけなら美津には負けない。得物を奪えば話す余裕くらい。
甘く見ていた。
首が捥げそうな衝撃に襲われる。
蹴られた、と自覚できたのは壁に叩きつけられ、胸を踏まれて体を固定された後。美津の全体重が乗って穂先が喉に落ちる。
槍は肉を貫き頚椎を砕く。
致命傷。
死に落ちる僅かな時間、何かを掴むように手を伸ばし空を掻いて事切れる。
皆久の脳裏にそんな情景が浮かび。
「え?」
美津は思わず声を上げた。
彼女の体は頭を下にして浮かんでいる。逆転した視界に混乱しつつも、猫のしなやかさでバランスをとって着地。何をされたのか、という疑問は熱を帯びた感情に飲まれる。
怒りのまま睨み、ふらふらと立ち上がる皆久に体ごと槍でぶつかる。
狙ったのは正中線、速度は申し分ない。
臓腑を抜き背骨を砕く一撃は、
「ごめん美津」
皆久の肘と膝に挟まれ微動だにしない。
「僕は、まだ死にたくないらしい」
美津の切り替えは速い。槍を手離すと二歩で部屋の隅まで退く。髪に隠したスローイングナイフを両手に収め、投擲体勢。
皆久が槍を捨て、美津をわずかに驚かせた。些細なことだと彼女は忘れる。
両者の息継ぎが一つあって、無数の銀光が放たれる。
無造作な拳の横薙ぎ。
ナイフと共に血の花が散る。
皆久の片腕はズタズタになったが致命傷は避けられた。美津はこれで終わらない。両の手に、刃で造られた鉄扇を広げ斬りかかる。
瞬く間に十、二十と鉄扇が閃く。
優雅だが触れれば斬れる舞。凶風が皆久の頬を掠め肌を裂く。皆久は防戦一方、避けることしかできていない。速度は上がり独楽のように、一つでも当たれば骨まで断つ。
ただ、当たれば。の話しだ。
無数の閃きは最高速度まで上がり、臨界まで上がると下降する。僅かな数瞬。
するり、皆久は刃をすり抜け肉薄。
美津の両腕が跳ね上がる。一蹴で二つの鉄扇は手から離れた。
首、肺、心臓、内臓、数え切れない急所が晒される。
来る。
身構える美津。
反射的に片目を閉じて視界を狭めてしまう。
「?」
数秒とはいえ、無防備な体に攻撃を加えるのには十分な時間。しかし、いつまで待っても皆久の手は来なかった。
それ所か、彼は少し下がって美津を待っていた。
左手を血に染め、呼吸を乱し、あちこち切り刻まれながらも、脅えず引かず。
次は何だ? といわんばかりに。
その行動は美津のプライドを深く傷つけた。非人道的な家に育ったとはいえ箱入り娘には違いない。恐れ多いと誰しもが彼女を腫れ物のように扱っていた。挑発されたことなど、ましてや好いていた相手にこんな侮辱を。
愛憎という言葉では足りない。
怒りは崩れた精神のバランスを更に壊し、人間性を消し去る。
言葉にならない叫び。
隠した得物の全てを取り出し、爪と牙とし襲い掛かる。激情は、皆久を八つ裂きにしても納まらないだろう。疲れ果て眠るまで、もしくは永久に眠るまで。触れれば殺す術を撒く。
殺意は刃に宿り、技は衝動に任せ、さながら武器を持ったケダモノのように。
▽
比良坂夜来は、夕方頃に熱が引き部屋を出てきた。今はパジャマ姿のまま居間のテーブルで軽い食事をしている。
「夜ちゃんさ」
「うん」
ちまちまとお粥を食べる妹に姉は疑問を投げかけた。
「血脇の何処がよいの?」
「え、えと、あの………」
姉は大雑把な人間だが、流石に顔見知り程度の付き合いでは、異性を泊めてくれなく。それで仕方なく。皆久の家が炎上して夥しい不幸にあった後、もう頼る人間が交際中の自分しかいない、などという大嘘を吐いた。
本当は、皆久のことなど何も知らない。
「優しい、所」
無難な台詞でごまかす。
「優しい?」
「う、うん」
恥ずかしいのと申し訳ないので、姉の顔が見られなかった。そんな嘘を知ってか知らずか、姉はため息混じりで優しい顔を浮かべる。
「まー、夜ちゃんがはじめて家に連れてきた人間だし。アタシもそれなりにもてなしはするよ。血脇の好きな物って何?」
「………お米」
わからないので無難な物を。
「そりゃ日本人なら大抵好きでしょうが。まぁカツ丼でも作りますか」
姉は席を立ち、キッチンで夕飯の準備にかかる。
母の姿は知らないが、その後姿はたぶん母と似ているのだろう。そんなことを思い。大して歳の違いのない姉に、苦労ばかりかけている現状を落ち込む。
「てかさーあいつ何時帰ってくるの?」
「………………」
「夜ちゃん連絡とれたりしないの?」
「う、うん。待って」
もう帰ってこないかもしれない。
今までの経験だとその可能性のほうが高い。夜来には、そう見えていた。
駄目元で携帯をかける。姉に悟られたくないので廊下に移動。一回、二回、三回、四回、虚しくコール音が響く。わかっていたことだが、どうしようもなくため息が出た。
すると、玄関のチャイムが鳴る。まさか、と思い。それでもオドオドと姉を待とうかとして、扉の覗き穴をこっそり見る。
「っ!」
急いでチェーンを外してドアノブを引いた。
「や」
「あ………」
皆久がいた。知らない女生徒を肩に担いでいる。それはさておき、熊に襲われたような有様だ。制服はボロボロ、怪我だらけ血だらけ、槍? のような棒に体を預けていなければ今にも倒れそう。
「夜ちゃん。誰~? って血脇。あれまあ、ええと、おかえり」
「おかえり、血脇くん」
忘れていたので挨拶。
皆久は足をプルプルさせながら、
「ただ、いま」
といって気絶した。
▼
《血脇皆久、密教系組織である四法光樹の尖兵。
次期当主候補のひとりとして育てられたが、組織内の権力闘争において、師事していた人間敗れ、関係者である皆久は組織内での居場所を失う。
その後、当テラリウムの講師であり、四法光樹の諜報員でもある柳功利の紹介により施設内に観察対象として潜入した。
予想通り、当施設の最大個人戦力であり、重要観察対象である龍神町夕顔と接触。
暗殺を試みたようだが、失敗。
しばらく停滞していたようだが、また学園に姿を現し、龍神町との接触機会をうかがっている。
彼女たっての要望である為、処分せず経緯を見守りたい。
四法光樹は、護国機関の中位に属し、その主な役割は異能の排除である。十七世紀に設立された暗殺集団が前身であり、その頃から今にいたるまで、異能者を狩る優秀な人材を輩出している。
狂気的な信条を戦闘要員に刷り込んでおり、非常に前時代的。遺物であり異物であるのだが『無能力者よる能力者への戦闘法』という点に置いては比類なき成果を上げている。その証として二十年前のパンデミックでは、感染者の排除に大きな戦果を上げ組織の力を膨らませた。
血脇皆久その者の観察は軽度であるが、四法光樹が用いている薬物及び術、技術等々は有益であり、今後の観察対象として重きに置きたい。
続いては、我々が保有するレアブラッド・レプリカ及びレアエッジ・レプリカの経過報告を………………》
資料は裂いて捨てた。バラバラになった紙は床の血を吸って赤く染まる。
下には散らかった人々々々、無数の手足にトマトかスイカのように砕けた頭、湯気を上げたモツ。虎や鮫に襲われてもここまで酷くはならない。
『面白そうな奴だろ』
「かもな」
深夜、デパートの屋上駐車場。
憂鬱に光る電灯の一つに、男が背を預けている。長身痩躯、ギラついた空気。膝の露出したダメージデニムに、くたびれたジャケット。ボロ布のようなフードを目深に被って人相を隠していた。
『おいおい連れないなぁ』
携帯から響く声に男は舌打ちをした。
「貴様もわかっているのだろう。俺が望むのは一つ」
『龍神町か? 生憎、予約で半年待ちだ。しかし、どーしてもというなら聞いてやらないこともない。ただし、全ては血脇を倒してからだな』
「その小僧、期待は裏切らないだろうな?」
『恐らくな』
「ほう、そうか」
長い犬歯をむき出して男が笑う。虎の威嚇のようだ。
「雑魚を散らすのも飽きた。余興に乗ってやろう。瞬く間に終わったら、貴様のハラワタを抜いて遊んでやる」
『怖い怖い。ま、油断するなよ兄弟』
▼
少年と老人がいる。
そこは古びた道場で、季節は冬、外にしんしんと雪が降り積もっていた。
少年の手には重い木刀。それを用いて五つの所作を覚えさせられた。
手の皮が剥け、それが厚くなるまでひたすら五つの所作を体に刻む。
愚直に、ただ愚直に。
訳や意味など知らされず。そうあるようにあれと血と汗を流す。
少年と少女がいた。
そこは庭園で、季節は夏、煌々とした月が空にあった。
少年は背後から少女の手を取る。少女の手には小太刀。
少年が軽く押し、少女は従い進む。
ゆっくり、静かに、綿を切るような速度で刃が動く。
少年には練り繰り返す無尽の中の一夜、それでも少女にはただ一つの夜。
少年は青年になり。同じように育った別の青年と対峙した。
そこは慣れ親しんだ道場で、季節は春、ふたりを見る好奇の目。
鏡面のような刃が二つ、閃き、踊り、重なり、折る。
金属の悲鳴が音を引き、勝負は決した。だが青年は手を止めなかった。
青年と老人がいた。
そこは古びた道場で、季節は冬、外にしんしんと雪が降り積もっていた。
刀は、老人の血で濡れていた。
青年と化け物がいた。
そこは学園で、季節は秋、観客は多くふざけた騒ぎよう。
青年は命じられたまま化け物を殺そうとした。
そして負けた。
その青年は息苦しさで目を覚ました。体は熱く汗で前髪が額に張り付く。鈍い痛みに全身が浸されている。
覚醒した脳は重たく。身動きできないほど体も重たい。まるで、何かに圧し掛かられているようだ。というか、圧し掛かられている。
「月下?」
明かりの消えた部屋でも月下の顔は見えた。服装は、ゆったりとしたチュニックとレギンス。飾り気はない。彼女は無言、無表情、返事を待つ間に自分の状況を確認する。知らない部屋のベッドで知らないパジャマを着て寝ていた。脇には消毒液に解熱剤、左手には換えかけの包帯。他、体のあちこちに包帯やら湿布やらガーゼやら。意識すると傷が熱を持っているのがわかった。そのせいか頭がぼーっとする。ひどく喉が渇いていた。
「月下」
二度目の呼びかけ、やはり返事はない。
「重いのだが」
月下は馬乗りになったままの退こうとしない。様子がおかしい。呼吸の間隔が短く視線が泳いでいる。
「大丈夫か?」
怪我だらけの自分が心配するのはおかしいが。
彼女はようやく反応して、手の甲で口元を拭った後、
「ごめん血脇、我慢、できない」
「は?」
抱きつかれた。両腕が首に回され胸が密着する。香水かシャンプーかはわからないが良い匂いにくらっとした。月下の吐息が耳を撫でる。
「少し、だけ。少しだけだから」
「え、いや、その」
彼女の唇が首筋に、歯が甘く肉を食んで、生温かい舌が這う。異様な感触に鳥肌が立つ。けれども、湧いた情欲のせいで引き離せない。薄い布越しに自分より熱い肉の体温が染みてくる。少し汗ばんだ肌と肌が吸い付くように重なる。うるさい心音はどちらのものなのか。
彼女にどういう意図があり、自分にとって状況なのか検討もつかないが、男として最後までしかと見守る所存だ。
そうして。
ブツッ、と。
皮膚を裂いて肉に潜り込む痛み。
「え」
悪寒が走りふやけた脳に警鐘が走る。ふと思い浮かんだ光景は、ハラワタを食い荒らす獣。
「げ、月下」
じゅる、じゅるり。
血を吸われていた。血を貪られていた。
月下を引き離そうとするが鈍った腕力では、いいやそれでなくとも強い力で離せない。不味い、貧血で視界が明滅する。怪我で弱っている今、これ以上血を失うとどうなるのかは想像しやすい。
ああ、なんというか。
こんなことで、
こんな風に、
死ぬのか?
やがて抵抗する力もなくなった。猛烈な睡魔に襲われる。部屋に明かりが射し込むが、それはお迎えなのだろうか?
「お、お姉ちゃん!」
違った。比良坂の妹の方だ。彼女は自分たちの様子を見て一旦姿を消すと、足音を立てて戻ってくる。その手には水が並々と入ったバケツ。
それをかけようとして、夜来は転んだ。
しかし目的通りにバケツと水はこっちに飛んでくる。水の冷たさに心臓が一瞬止まる。おかげで意識がはっきりとした。
「………………」
「………………」
「………………」
三人の間に微妙な沈黙が流れる。
最初に動き出したのは月下。空のバケツを持ち、ギクシャクした動きで部屋を出て行く。びしょ濡れの皆久は小さくクシャミをした。夜来はまたフェードアウトすると、すぐタオルと着替えを持って戻って来た。
「ありがとう」
礼をいってタオルで髪を拭く。シャツを脱いで水を吸ったガーゼや包帯を外すと瘡蓋にもなっていない傷が露出した。それと、薄暗くても目立つ古傷が多々。
夜来は所在なさげに突っ立っていた。
「傷………凄いね」
「僕の弱さの証だ。凄いことなんて一つもないさ」
「う、ううん、格好良いよ」
「? それはどうも」
意味がよくわからない。新しいシャツに袖を通すと、布が傷を撫でてじわりと痛んだ。血は止まっているから手当てはもういらないだろう。いつも通り寝ていれば勝手に治る。
「あ、あの、あのね、お姉ちゃんのことなんだけど」
「変わった趣向をお持ちで」
「う、うう」
夜来が申し訳なさそうに頭を下げる。
月下の行動には驚いたが、それなりに訳があるのだろう。自分の正常な部分は上っ面だけだ。皮一枚下には生き物を殺す異常がある。そのせいか、他人のそれには寛容である。本当は、ただの無関心かもしれないが。
「気にしてない」
「え」
タオルを持って部屋を出た。直接、本人に伝えた方が効果的だと、居間に行く。いない、と思ったがベランダに月下はいた。
膝を抱えて体操座り。服から水を滴らせ何故かバケツを頭に被っている。シュールだ。
「えーと、風邪引くぞ」
とりあえずバケツを取ってタオルを置く。
「気持ち悪い女」
「ん、ん?」
月下から自虐的な言葉。
「引いたでしょ」
「いや別に」
「正直にいったら? 『この発情した牝犬が』って」
「それは色々意味が違ってくるだろ」
隣に腰掛けて同じように両膝を抱える。月下は視線を落として呟く。
「アタシだって我慢したわよ。でも欲しくなるんだもん、仕方ないじゃない。パックの血液は混ざり物が多いし、夜ちゃんには悪いけど流石に飽きてきたし、あんたが意識不明の時だって舐めるだけで耐えてきたのよ」
「どのくらいだ?」
「他人の縦笛舐めてるみたい! アタシは変態よ?!」
質問が正確に届いていないようだ。
「血だ。どのくらいの量が欲しい?」
直球すぎたのか、月下がフリーズしてまばたきを四回。
「血脇、あんたどういうつもり?」
「二週間にコップ一杯くらいなら大丈夫だ。それなりに健康体だし」
「違う!」
「すまん」
「謝らないで! アタシが謝ってたのに!」
夜闇に月下の声が響く。遠くで犬が吠えた。近所迷惑に気付いたのか月下は身を寄せて来て、小声でいう。
「血脇、アタシの勘違いじゃないなら血をくれるっていっているの、かな?」
うむ、と肯いた。
「まさか、夜ちゃんのスレンダーな体だけでは飽きたらず。アタシの体にまで、た、確かに胸なら勝ってるけど、その分、腰とか腿がちょっとムチってきたとも」
「僕は夜来と手を繋いだこともないが」
「やっぱり嘘だったのね。そうよね、対人恐怖症の人間が友達より先に男連れてくるなんて、どんだけ階級無視しているってのよ。むしろ階級詐欺だったなんて」
「それで血どうする?」
「それよ、それ! 意味わかんないわよ! 夜ちゃんが付き合ってなかったのは至極納得できたけど、あんたのそれは意味わかんない!」
またもや大声。
上の階から『うるさい!』と怒鳴られる。ふたりで謝った。
「ごめん、なんかアタシ動揺してる。あんた見たいなのはじめてで。その、血脇ってマゾ?」
「痛いのは嫌だ」
「それじゃ」
月下は納得できそうな理由を探しているようだ。待つより話すほうが早そうだから説明する。
「僕はさ、月下」
「う?」
「人としての、たぶん大事なものが色々と足りていない」
戦いの中、迷うことが一番の致命になる。敵を前にしたら心は消すように師に叩き込まれた。常識は多少あるつもりだが、知識としてあっても感情として流れていない。いざとなれば、二の次だ。
「は、はぁ………ふ~ん」
飲み込んでからの素っ気ない反応。
「そのせいか異常というものに偉く不感症だ」
「質問してよい?」
「答えられる範囲なら」
「アタシたちに暴力を奮わない?」
「決して」
「欲情したからって襲ったりしない?」
「もちろん」
「アタシを気味悪がらない?」
「当たり前だ」
「夜ちゃんを怖がらない?」
「努力する」
「正直ね」
「すみません」
「………………ここ見て」
月下は顔を近づけて、にぃーと笑うように両方の八重歯を見せる。
「生まれつきね、この歯の先っぽに細い管がついてるの、蛇の毒線に似た構造だけど、毒を出すというより何かを吸う機能がついていた。
だいたい十二くらいまでは普通の食事で問題なかったけど、成長期に入って急に食べ物の味がわからなくなった。そして胃が食べ物を受け付けなくなって、喉が猛烈に乾いて、でも水を飲んでも吐いて、吐いて。衰弱して動けなくなって、ああ、死ぬんだなぁと覚悟して………………そんな時、夜ちゃんがアタシにお粥を作ってくれたの。食べられはしないのだけど気持ちって事よ。でもあの娘ドジだから、ネギを切る時に指を切っていた。その傷が結構深くて絆創膏から血が滲んで、アタシはそれを、見て」
月下はくしゃみをした。
「寒い」
「僕もそう思う」
ふたりで居間に移動。ハロゲンヒーターの前に揃って座る。
「色々割愛して、アタシは秀一とメイドの一味に捕獲された」
「割愛の間に何が起こった」
「簡単にいうと夜ちゃんを殺しかけたのよ。それ以上の痴態を聞きたかったら、アタシともっと親しくなってから」
「了解」
興味があるような、ないような。微妙な所だ。今はまだ、自分のことにしか興味が持てない。ただ、他人への興味の持ち方がわからないだけかも。
「それから、色々と調べられた結果。アタシの病名は」
「………………色々」
ちょっとよこしまな想像を巡らせる。ばれて背中を叩かれた。
「後天性吸血症、の亜種。幸いにも感染能力はなし。栄養を人間の血からしか摂取できないのだって。ま、それ以外は普通より丈夫なんだけどね。両親のどちらかが感染していたみたい」
「感染?」
「詳しい事は教えてくれなかったけど、二十年前に流行った病気だって。今は殆ど駆逐されて、無力化されたけど。たまーに、アタシみたいな撃ち洩らしがいるみたい」
「治せないのか?」
「広い意味でいえば、アタシが死ぬことが治療でしょ」
「………………」
だから駆逐という言葉が出たのか。何とも、な話だ。
「同情した?」
「でも君は笑っている」
己のサガを忌み嫌っていても、月下は素敵な笑顔を浮かべていた。そんな強さには興味がある。自分にはないものだ。
「世の中、アタシよりひどい目にあってる人間はいくらでもいる。血が時々欲しくなるくらい。きっと大したことでもないのよ。たま~~に、あんたみたいに理解してくれる人間がいるのだから」
「僕は、その」
理解はしていない。それは月下の都合のよい解釈だ。
「でも血はもらえないよ。気持ちだけ、ね?」
「でも僕には一宿一飯の恩がある。あ、もう二泊か。それに怪我の手当てもだ。金はアパートと一緒に燃えたから他に恩の返し方がない」
怪我、という言葉で、何か大事なことを忘れている気がした。どうして怪我を負ったのだろう? 寝起きからここまでの、急な流れで記憶が混乱している。
「いやいや、でも、ね?」
「いやいや、大丈夫だ。………………吸い尽くされなければ」
「じゃ吸う。大丈夫、アタシ少食だから一日一口くらいでオーケー!」
二回遠慮するのはマナーだったか。
「じゃ、さっそく」
両肩を掴まれて引き寄せられる。
「できればもう少し体調が回復してからで」
「大丈夫、大丈夫、チビっと飲むだけ。吸いすぎたら戻すわ安心して」
今更ながら身の危険を感じた。
「兄さん」
後ろから声、ぞくりとした殺気に背筋に悪寒が走る。
美津が立っていた。そうだ思い出した。彼女と争ってこの怪我を負ったのだ。
「あ、美津ちゃん。ごめんね~血脇が起きたらすぐいうって約束したのに」
殺気に気付かず、月下は気楽に声をかける。
「血脇。美津ちゃんね、あんたを寝ないで看病していたの。あんまり無理するからアタシがちょっと代わって、それでさっきの状況に続く」
「おふたりはどういう関係なのでしょうか?」
「あははは、やだなー家主と居候だよ」
「そうですか、安心しました。兄さんにはウチという将来を約束した女がいます。申し訳ありませんが、月下さんも兄さんに悪い虫がつかないよう見張っていただけますか?」
「う? ………………うん?」
月下の『どういうこと?』という目。僕も知りたい、と返す。
「月下ちゃん、妹だよね」
「将来を約束した妹です。ほら、未来の女と書いて妹と呼びますから」
「正確には妹弟子なんだが………」
そんな意見は黙殺された。
「確かに、一度ウチは兄さんに幻滅しました。この世のクズだとも下種だとも搾りカスだとも思い、骨の一欠けら肉の一片すら残さないつもりでした。しかし、しかしです。兄さんは堕ちても兄さんでした。
ウチの術を余すことなく受け止め、打ち破り、喰らい。嬲り尽くした上に死に体のウチを更に蹂躙しても尚飽き足らず、ねっとりと時間をかけて虐め抜いて、精も根も切れて意識を失うまで、兄さんは兄さんでした」
「いや、お前ブチ切れて止まらないから、こっちもエスカレートしていっただけで」
くいくいと月下にシャツを引っ張られる。
「ん?」
「この変態」
月下にいわれると、何故かとても傷ついた。
「まあ、アタシみたいなのに寄ってくるのはみんな変態か」
そんな風に月下は納得して立ち上がる。
「血脇、お腹空いたでしょ? 何か軽いもの作ってあげる。今日はもう夜遅いからそれ食べたら寝なさい。んで、早く怪我を治すように。とりあえず、濡れた服を着替えてくるわ。覗いたら吸うわよ」
「了解」
月下はリビングから離れていった。
「兄さん、月下さんは良い使用人ですね。少し兄さんに馴れ馴れしいですが、ウチも子供ではないので我慢します」
「使用人っておい」
「居候で、飯炊きするのだから使用人ですよね」
月下に聞かれなくてよかった。居候なのは自分なのだが、説明するのが面倒なので話題を逸らす。
「美津、家に戻らなくても良いのか?」
こんな箱入りお嬢様だ。きっと当主も心配しているだろう。一緒にいるのが反乱分子となると尚のことに。
「家には帰りません。兄さんと一緒に暮らします」
「困る。断る」
「ひどいです、兄さん」
美津がしゅんとする。
居候の身の上で更に人を増やせるか。それに、光樹とはもう関わりたくない。あそこに自分の居場所はない。例え居たとしても強くはなれない。どちらにせよ、光樹も自分のことを切り捨てようとしている。縁切りには丁度良いのだ。そこの当主の娘が自分にくっついてこなければ。
「僕の傍にいても損をするだけだぞ」
「構いません」
「僕が損をする」
「得をするようにウチ頑張りますから」
「飯も作れないくせに」
「覚えます」
美津の頑固さに小さく舌打ちをした。心底面倒で目を合わすこともできない。
「僕は、光樹の反乱分子だ。そんな奴と当主の娘が一緒にいられるものか」
「ウチが一緒にいたい、それだけでは駄目ですか?」
「お前の本当の兄妹や親にそれが通じるか?」
「ウチの兄さんはひとりだけです。それに光樹を裏切ったのは兄さんではなく」
倒れた老人と血で塗れた刀。
そんな光景がフラッシュバックする。
「師の裏切りは弟子の裏切りだ。本来なら問答無用で殺されても文句はいえない。実質、離縁であっても十分譲歩してもらっている」
「兄さんは運がなかっただけで、それがウチとの関係を崩すほどでは」
「美津、僕は運がなかった。しかも一度の負けも許されない状況で敗北した。光樹を吐き出された者が、その名を汚したんだ」
「光樹ことなど忘れてください! ウチを見てください! ただひとり、人間として! 女としてウチを見てください! それで魅力がない興味がないというならウチは去ります!」
「興味はない。去れ」
「なら最初からウチを斬り殺していればよかったでしょう!」
理屈が通じない。何だか口では絶対勝てない気がする。
「それはお前を傷物にしたら光樹の連中と遺恨が」
「そんな理由で、傷だらけになりますか?! 何故一度も得物を手にしなかったのです?! 何故一度も攻め手を出さなかったのです?! 兄さんならウチのひとりやふたり簡単に倒せるでしょう!」
「う、いやそれは」
美津が強いのは事実だが、手の内は知り尽くしている。ただ倒すだけなら難しくはない。守りに徹していたのはリハビリと模索を兼ねてだ。
戦い方が似ている美津だからこそ丁度良かった。それに、女の子であるわけだし。一生残る傷でもつけたら大事という気持ちも、ないわけでも。
「兄さんは、ウチが嫌いですか?」
ぽつぽつと小雨のように床に雫が。美津は気丈にも表情は変えず、だが涙は零れていた。よくわからない感情に息が詰まる。
「嫌いなわけ、ないだろ」
師の一件がなくとも自分は腫れ物扱いだった。異常な組織に於いて異質な扱いを受けていた。そんな自分にまともに接してくれたのは師と美津、それにあとひとりだけ。だからこそ一緒にいて欲しくない。自分は、本人の意思とはいえ仕方なかったとはいえ、師を殺したのだ。
「僕の状況は危険なんだ。もしお前の身に何かあったら………頼む」
恐る恐る手を伸ばして、美津の涙を拭う。
「やっぱり、ウチを思って」
何とか、わかってくれたようだ。根は素直で良い子なのだ。小さい頃から知っているのでわかる。怒るとアレだが、それは置いておいて。
「兄さんの邪魔にはなりません」
「いや」
「あんな狭い部屋でも我慢します」
「おい」
「それに家には『兄さんと一緒になるので』と絶縁状を置いてきました。ほら、これで万事何の問題もありません」
「………万事休すかもしれない」
光樹から刺客来る日も近い。
「恥ずかしい話しですが、ウチの生活能力はハムスター並みです。兄さんに捨てられたら三日も持たずどこぞの路地裏で野垂れ死にます。兄さんがそれを望むというのならば、ウチは従うだけです」
清々しい笑顔でそんなことをいう。表情筋の一部が引き攣った。どこからというか最初から全部、美津の手の内だった気がする。
「ちょっと待ってくれ」
説得は失敗だ。これはもう、仕方ないので家主に相談することに。
廊下に出ると、すぐそこに比良坂姉妹が座って聞き耳を立てていた。
『………………』
見つめ合い沈黙。
とりあえず、頭を下げた。話しを聞いていたなら細かいこと抜きで通じると思ったからだ。
『大変だね』
どうやら、姉妹の同情は買えたようだ。