もう、戻れない
――嫌だ。
背中に伝う激しい衝撃。言葉では言い表すことの出来ないほどの痛み。
――嫌だ、嫌だ。
腹の中にも違和感がある。腹部の中心……きっと、先ほどの衝撃で中身がいくつか潰れたのだろう。
――嫌だ、嫌だ……嫌だ。
額に伝う汗と血。視界がぼんやりとし、正面がはっきりと見えない。でも、誰かが目の前にいて、僕に向かって何かを構えていることは明確に理解出来る。
「ナァ、モウ終リカ?」
汚らしい声が耳に入ってくる。ギギギ、という煩い笑い声と優越感に浸った口調に、虫酸が走る。
僕は重たくなった瞼をゆっくりと開けた。瞬間、口から大量の朱が吐き出された。
ああ、僕はこれで終わるのだろうか。
まだやり残したことがたくさんあるというのに……。
黒い烏が一歩、また一歩と近付いてくる。
長い袴の裾を引きずり、正気ではない特殊な色をした目を嬉しそうに細め、手に握った刃で出来た弓でアスファルトを擦り、騒音を立てながら烏養天摩はいやらしい笑みを浮かべている。
「モット遊ボウヤ……。セッカクノ殺シ合イナンダカラヨォ!」
刃の弓を握り締め、自分の手を傷付けながら烏養さんは僕を標的に構える。
「誰、が……あなたと、遊ぶ……ものですか」
まだ口の中が鉄臭い。起き上がろうと身体に力を入れようとするが思うように入らない。
痛い、苦しい、重い、辛い……。
でも、僕がこんなにも追い詰められたのは自分があまりにも甘く、ぬるま湯に浸かるような生活を送っていたからだ。こんなにも傷付いてしまったのは、まさに自業自得だろう。
それに、この後に及んで僕は心のどこかで誰かが助けに来てくれると思ってしまっている。
そう、僕にたくさんの温もりをくれたあの人が――。
『オマエに構ってる暇なんかねぇんだよ!!』
脳裏に、先日言われた怒号が響く。
そうだ、僕は彼に拒絶をされてしまったのだ。
すっかり……忘れていた。
また、僕は突き放された。大事な人に……。一体何度目だろうか。心を許した人に裏切られ、突き放され、拒絶されるのは……。
――嫌だ。もう、もう嫌だ。
心の内に溢れていた温かみや優しさが一瞬で黒いものへと変わっていく。
今まで“人間”として生きていこうとしていた思考が、一瞬であの人と出会う前に戻る。
いや、そもそも僕には温もりも、優しさも、人間になりたいという気持ちも無かったのだ。
最初から、そう……花本篤志さんという存在が、幻だったのだ。
全身に力を入れる。
今まで添えるようにしか持っていなかった刀をしっかりと握り締める。
壁伝いだが、ゆっくりと自分の足で立ち上がると、僕は目の前の烏天狗をじっと見据えた。
――そうだ、僕は鬼だ。
一言だけそう言い聞かせただけなのに、内側から力がたくさん湧いてくる。
「ヤット、本気……出ス気ニナッタカ」
烏養さんはそう言う。
僕も、今まで一体何に酔いしれていたのだろう。
「鬼車〈ギア〉、ニノ段……外します」
呟いて、僕は鬼の力に身を委ねた。
もう、戻らない。
もう、戻れない。
僕は再び、鬼として生きることを決めた。