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キッドナップ・ラプソディー ~Fの狂想曲~

作者: シンクン

「おなか大丈夫か?」

僕の腹痛を案じて振り向く兄。

でも、その時の僕の中では既に治まりつつある腹痛よりも、通学路を逸れて歩いていく僕たち兄弟がどこに向かっていくのかが切実な問題だった。

「お兄ちゃん、おうちはこっちじゃないよ。」

僕の言葉が聞こえていないのか、三つ違いの兄は僕の手を力強く握って、無言で林の中をずんずん進んでいく。


杉の木の間から差し込む木漏れ日は、ほぼ真上から降り注ぐ。

この前理科の授業で習った、「南中」に差し掛かっているのだろう。

こんな時間に家に向かうのは、始業式や終業式を除けば初めてのことだった。


二学期が始まって間もない9月。

その日、三年二組の日直当番だった僕は、突然の腹痛に涙目になりながら、保健委員の増田敦子ちゃんに付き添われて保健室に連れられ、その場で即早退の診断を保健室の先生に告げられたのだ。

僕の自宅は学区の中でも比較的遠い場所で、毎日三十分以上かけて通学している。

一人で帰宅させることを不安に思った教頭先生が、六年三組の兄を僕の付き添いのために一緒に早退させたことは、それほど特別なことではなかったと思う。


林を抜けた。

そこは僕たちが住む公営団地の一角だった。

その時になって初めて、兄が僕の知らない近道を通っていたことを知ったのだ。

「なんで、こんな道知ってたの?」

「五年生以上は、みんな知ってるよ。四年前まではこの道が通学路だったんだから。」

「ふーん。どうして変わっちゃったの。」

「よくわかんないけど、暗いし、危ないと思ったんじゃないの、父兄が。俺が二年生の時にこの道は通っちゃダメってことになって、倍以上時間のかかる今の道が通学路になったわけだ。」

「なんで、ダメな道を」と言いかけたけど、すぐにその理由に気付いて僕は兄の顔を見上げた。

普段は口数が少なくてぶっきらぼうだけど、本当は誰よりも僕のことを心配してくれるのを知っている。

兄の気持ちに気付いて、腹痛がさらに和らいだ気がした。


再び家に向かって歩き出す。

僕たちが林を抜けたところは二十号棟の前、団地中でも一番端のあたりで、僕たちの住む一号棟まではまだ五分ほど歩かないといけなかった。

途中、階段の下で井戸端会議中のお母さん達が僕たちを見て、不思議そうな顔をしていた。

「こんにちは。こいつがお腹痛くしたんで早退したんです。」

「あら、そうなの。大丈夫。おうちにお母さんいるの。」

「はい。」

実際、母が必ず家にいるという確証はなかったけど、兄はそう答えた。

名前も知らないおばさんは、すごく心配そうな顔をしてくれて、曖昧な返事をしようものものなら家までついてきそうな勢いだった。

そこまでしてもらうことに、兄は気が引けたのではないか。そう思った。


僕たちのお母さんは、仕事はしていない。

いわゆる専業主婦というやつだ。

それでもこの時間買い物に出かけることはおおいにあることだろうし、最近具合の悪い母の父、僕たちからすると祖父の家に顔を出すことも多くなっていた。

祖父は隣町に一人で住んでいる。祖母は僕達が生まれる前に亡くなったそうだ。

今は仕事を退職して家にいることが多い祖父だが、体調を崩してからはご飯を作ったり買い物に出かけたりすることが少し大変になったので母が手伝いに行っている。

母の話では、病気は心臓が少し疲れているだけで、徐々に良くなっているから、もう少しすれば手伝いに行かなくても大丈夫だろうとのことだった。


そんなわけで、僕たちはそれぞれ合鍵をもたされていた。

兄が首にかけた合鍵を取り出した。

すでに一号棟は目の前だ。

綺麗に掃除された階段を三階まで昇る。

兄が鍵を開けて扉を手前に引き、僕を先に入れてくれた。

「ただいま」

思ったより元気な声が出た。

腹痛はほとんど治まっていた。

兄も後手に扉を閉めながら「ただいま」と声をかけた。

返事がない。

靴を脱いで右手のダイニングキッチンの扉を開けると、やはり母の姿は見えなかった。

「おじいさんのところかな。」

ランドセルをテーブルの上におろしながら兄が言った。

「うん、でも。」

僕は室内の様子が少しおかしいことに気付いた。

兄も既に同じ気持ちのようで、台所のシンクのあたりを眺めている。

シンクの中には調理後のフライパンや鍋が無造作に積まれており、テーブルの上には調理に使ったと思しき野菜や肉等の材料が散らばっていた。

母が調理の途中で外出したのだろうかとその時は思った。

だが、僕と兄が感じた違和感の正体はそこではない。


母は料理の際、必ず片づけながら料理を進める。

といっても、他の人が調理するところを見るまでは、僕はそれが当たり前だと思っていた。

友達の家に遊びに行って、ご飯を御馳走になる機会があった時に初めて、調理を作り終わってからまとめて鍋やトレーを洗ったりする人もいるということを知ったのだ。

そして、その時は、料理を作り終えるとほぼ同時にシンクの中や調理台の上も片付いている母の手際の良さを少し誇らしく思ったりしたのを憶えている。

それが、今はどうだろう。

少なくともこれまで、我が家の台所がこれほど散らかっているのを見るのは、母が病気の時に父が夕飯を作った時を除いては生まれて初めてだった。

「おじいさんに何かあった、とか。」

兄も僕と全く同じことを考えていたらしい。

呟き終わると同時に、兄はダイニングの扉の脇の棚にある電話機を取り上げた。

ボタンを一つだけ押した。

我が家の短縮ダイヤルに登録してある二つの番号のうちの一つ、母のケータイの番号にかけたのだろう。

もう一つは、二年前に離婚した父のものだ。


僕は黙って兄の行動を見ていたが、まだ自分がランドセルを背負ったままであることに気付いて、肩ひもに手をかけた。

その瞬間、聞きなれたメロディーと振動音が足元のほうから聞こえてきた。

僕と兄は、ほぼ同時に音のしたほうに視線を向ける。

テーブルの下に、緑色の光が点滅しているのが見えた。

違和感がさらに募った。

兄は受話器の通話切りボタンを押すと、無言で椅子を引き母のケータイを取り上げた。

小さな溜息。

少しだけ躊躇う表情を見せた。

多分、着信履歴を見るべきかどうか逡巡していたのだろうと思う。


後でこの事件を思い起こしたとき、もし、この時兄か僕が着信履歴を覗いていたら物語は全く違った展開を見せていたと思う。

だがこの時、兄も僕も結局母の着信履歴のボタンを押すことはしなかった。

二人ともケータイを持たされてはいなかったけど、持っている同級生はたくさんいたし、操作方法がわからなかったわけではない。

ただ、なんとなく肉親とはいえ、ケータイ電話の着信やメールを見ることに決して弱くない抵抗があったのだと思う。

誰かに教えられたわけではないけど、「見ても良いことはない、寧ろ見なければ良かったと思うだろう。」そんな感覚が物心ついたころから僕達には備わっていた。


次に兄がとった行動は、僕の予想とは全然違うものだった。

ケータイをポケットに入れると、冷蔵庫の扉に取り付けたホワイトボードをまじまじと見つめ始めたのである。


「おじいさんのところに。」

言いかけて僕は考えた。

なんで、兄は祖父のところに電話をしないのだろう。

それがこの時点では、最も当然の行動に思えた。

電話をして、母が祖父のところにいることが確認できれば、すべては一瞬で解決するのだ。

そこでまた考えた。

いればいい。だが、もし母が祖父のところにいなかったら。


一か月ほど前のことだ。母と一緒に祖父の家に兄と行く機会があった。

「おじいさんの病気のせいで、お前たちさびしい思いしてないか。」

以前に比べて、やせ細った祖父は申し訳なさそうに僕と兄の頭を撫でた。

その時は、もらったお小遣いで何を買うかに頭がいっぱいで気にも留めなかったが、兄はこう答えていた。

「おじいさん、俺もう来年は中学生だよ。お米だって炊けるし、味噌汁だって作れるよ。アキラは俺の作った卵焼きでご飯三杯も食べるんだ。」

兄の作った卵焼きを食べたことは一度しかなかったが、その時の味は今でも鮮明に覚えている。

三年位前だったか。僕と兄が学校から帰宅し、母は買い物に出かけていた。

後で聞いた話では、買い物中の母のケータイに連絡があったらしい。

祖父が救急車で運ばれたと。

そのまま母は病院へ駆けつけ、出張中の父の帰りは夜中になるとのことだった。

兄が母からの電話でそのことを知らされたとき、僕は図書館から借りた「シャーロックホームの冒険」を夢中で読んでいた。

兄はダイニングのテーブルで宿題をしていた。

窓の外には夕闇が迫り、僕はさっきまでのホームズの冒険譚の興奮も忘れ、不安で泣き出しそうだった。

そんな時に兄が作ってくれたのが件の卵焼きだ。

たぶん、見よう見まねだったのだと思う。

母が直接兄につくり方を教えているのは見たことがなかったから。

卵を割った時に入り込んでしまった殻を、悪戦苦闘しながら取り除く兄の後ろ姿を見ながら、落ち着きを取り戻した僕。

出来上がった卵焼きを、少し誇らしげに、少し不安げな表情で僕の前の間に置いた時の兄。

母の作ったものに比べれば、焦げもついていたし不格好だったけど、食べ物で感動して泣いたのはあの時だけだ。

「なんだよ、泣くほどうまいのか。」

兄の声も少し震えていた。


「おい、アキラ。これ何に見える。」

兄が祖父に電話をしない理由を、なんとなく理解しかけていた僕を現実に引き戻す兄の問いかけ。

我に返って、兄の指差す方向を見るとそれは冷蔵庫のホワイトボードだった。

いつもは買い物のメモや伝言に使われるその場所に書かれているのは、母の右肩上がりのくせ字で一文字だけ。

一目見た限りでは文字とも記号ともとれる。

右上がりの横棒が二本。垂直の縦棒が一本の、都合三画。

僕の第一印象としてはアルファベットの大文字Fに見えた。

ただ、Fにしては縦棒と二本目の横棒が交差している。

見様によっては漢字の「干」に見えなくもない。

だが「干」にしては上の棒のほうが長いのがひっかかった。

「お母さんの字には間違いないと思うんだけど。」

兄が呟くのを聞いて、僕の頭の奥に閃くものがあった。僕は考えなしにそのことを口にした。

「ダイイングメッセージだ。」

「いや、死んでないし。」

即座に答えた兄の言葉の意味がよくわからず、きょとんとしている僕の気持ちを察したのか、兄が面倒くさそうに解説を加える。

「アキラくん、ダイイングの意味知ってるか。」

「この前、エラリークィーンの本で読んだから知ってるよ。」

「ほう、クィーンできましたか。おおかた『Yの悲劇』あたりか。」

「うん。よくわからないメッセージが実はすごく重要な意味を持っているんだよ。事件を一気に解決に導くような。」

溜息を一つついて兄は応えた。

「そうだな。まぁ、間違っちゃいないよ。一文字違いだな。今回の場合は。」

「何、どういうこと。」

「これは、お母さんが残した、ダイイングメッセージならぬダイニングメッセージってこと。」



散乱したキッチン。

置き去りにされたケータイ。

謎のメッセージを残して消えた母。

正直、僕は不安で泣きそうだった。

兄が一緒でなければぐずぐずその場で泣き崩れていただろう。

この時ほど兄の存在を心強く思ったことはなかった。

今は、本の中でみた名探偵達と同じような場面に、現実に自分が置かれていることで高揚してさえいる自分に少し驚いている。


文部両道を地で行き、今もスポーツ少年団の四番ピッチャーを張る兄と違って、僕は小さいころから本の虫だった。

いまだに十五メートルしか泳げない水泳の時間は大嫌いだったし、運動会は一年の中一番気持ちが塞ぐイベントだ。

そんな僕の数少ない楽しみの一つが、図書館に行けば会える名探偵たちの冒険譚だった。

一年生のころにルビ入りのハードカバーで読んだシャーロックホームズの冒険に始まり、エラリークィーン、エルキュール・ポアロ、ブラウン神父。

僕は彼らの繰り広げる名推理の数々に心躍らせ、寝る間も惜しんで読みふけった。

兄と違って友達も少ない僕を心配していた母は、ことあるごとに兄と同じスポ少に入らないかと、監督、コーチを使ってまで勧誘したけど、このころから何も言わなくなった。

すべてにおいて優秀な兄、「それに比べてあんたは。」という構図にコンプレックスを抱き続けた僕だけど、これだけは兄に負けない自負があった。

それが、推理小説に関する知識だっただけに、兄が僕の読んだ本をすべて知っているのには少々驚いた。

聞けば、僕が借りてきた本はほとんど僕が寝た後に、読破していたのだという。

でも僕にも意地があった。


「これがお母さんが残した、今のところ唯一のメッセージであることに異論はないですね。」

クィーンの口調を真似た。

「どうなんだろうな。俺は前からお前に聞きたかったんだけどさ、こういうメッセージって結構無理がないか。」

「と言うと。」

まだ僕の名探偵気取りは続く。

「今回、お母さんが不測の事態に襲われて、仮にだよ、何者かに連れ去られるような場面に遭遇したとしてだ。なんでこんな一見意味不明なメッセージを残す必要があったんだ。」

「それは、犯人に気付かれないように配慮するからだよ。あからさまな内容では犯人に気付かれてメッセージそのものを消されてしまうよね。だから、犯人には意味不明で消すまでもないけど、僕達には伝わるようなメッセージを残す必然性がそこにはあるわけで。」

「そんな切羽詰まった状態で、そこまで考える余裕があることは想像しづらいんだが、まあいいや、百歩譲って、そうだとしよう。次。今時、もう少し気の利いた伝言方法がいくらでもあるよな。犯人に気付かれないようにメールをうつことも、電話をすることも。いくらでもできそうなんだけど。」

「それができない状況だっていくらでもあるでしょ。」

「うーん、じゃいいや、また百歩譲ろう。お前のいう状況はこうだ、お昼ご飯か夕食かはわからないが、料理の最中に予期せぬ闖入者に連れ去らざるを得なくなったお母さんは、たまたま目の前にあったホワイトボードに、俺たちにむけた伝言としてこの一文字を残したってことだ。じゃあこの一文字の意味するところはなんなんだって話。」

「その時点でお母さんがわかることだから当然犯人の特徴を差し示してると思う。」

「つまりこのFだか干だかの一文字が犯人そのものを言い表してるってことだな。」

「そう考えていいと思うんだ」

「お前の考えは。」

「まずFだと犯人のイニシャルだよね。藤井さんとか、福島さんとか。お兄ちゃん心当たりある。」

「ない、ていうか、仮に藤井さんだったら、Fはあまりに曖昧すぎるだろう。」

「名前とは限らないよ。Fがあらわす特徴ってほかにないかな。」

「だから、それが職業にしろ身体的特徴にしろ、曖昧すぎるだろ。絶対わかんねーって。」

僕は兄の指摘を聞こえないふりをして続けた。

「あとF、Fといえば、F1とか。」

「あいにく、この町内に職業レーサーはいないと思うぞ。」

「F難度。」

「体操選手ならいるかもしれないけど、F難度ってオリンピッククラスじゃないなのか。」

「Fが付いた小説とか。」

「森先生は名古屋在住だ。」

「それなら、そうだ、Fっていう名前のお店とかだったらどうだろう。ありそうな気がしない。」

「なぁ、いいかげんFから離れないか。ほかの文字の可能性も考えてみようぜ。」

「じゃあ、漢字の『干』。人の名前ではあまり使われないよね。」

「漢字なら『千』の可能性もあるんじゃないか。」

「あ、確かに。うん、そうだ、片仮名の『チ』にも見えなくない。」

「うわ、なんか収集つかなくなってきたぞ、これ。」

「そうだ、お兄ちゃん、大事なことを忘れてたよ。ダイイング、じゃなくて今回はダイニングメッセージか。これにはもう一つパターンがあって、残したメッセージが書きかけだったって場合もあるんだよ。」

「あぁ、そうだな、その可能性は捨てきれないな。でもそうするとさっきのFにも続きがある可能性を考えなきゃいけないってことか。」

「でも、そうすると、ますます収集がつかなくなるね。」

「仕方ないだろ、俺たちが今できることはこれしかないんだから。とはいっても、やみくもに思いつくことを言い合っても効率が悪い。だから、ここは条件を限定しよう。」

「限定って。」

「まずお母さんがこのメッセージで何を示したかったのか。それが人の名前なのか、店の名前なのか、場所の名前なのか。一つに絞って考えていったほうが考えがまとまりやすい。ん、待てよ、場所、場所。」

「どうしたの。」

「ちょっと黙ってろ。」

兄は唇に人差し指を当てて、黙ってしまった。

こんな仕草をする名探偵の話を僕は読んだ記憶があった。

そして、その名探偵はそのあと決まって、真相にたどり着くのだ。

僕は期待と少しの不安で胸が高鳴るのを感じた。


「そうか、場所なら一文字で。そうだ、間違いない。なんてこった。」

「わかったの。お兄ちゃん、もしかして。」

「ああ。俺たちはとんだ思い違いをしてた。俺たちが想像していた以上にお母さんは落ち着いていたし、機転もきいていたんだ。むしろ焦ってたのは俺たちのほうだ。」

「ねぇ、教えてよ。場所って言ってたよね。それはどこなの。」

「お前こそ落ち着けよ。たぶんお母さんはお前でもわかるうように、この一文字を残したんだぜ。」

「僕でも。」

「そう、小学校四年生にもたった一文字で伝わる、場所を差し示す言葉。いやこの場合言葉というのは間違ってるな。」

「それは、もしかして。」

「そう。」

僕たちはほとんど同時に声を上げた。

「記号。」


二十分後、僕たちは家から最も近い、母が残した記号が示す場所の前に立っていた。

僕はまだ興奮していた。

推理小説の中でしかないと思っていた世界。

難攻不落の謎、そしてそれが鮮やかに解決される瞬間。

自分は今まさにその世界の真っただ中にいるのだ。

それだけではない。尊敬してやまない名探偵ばりの名推理を披露するのが、ほかならぬ僕の兄だなんて。

僕はほとんど崇拝に近いまなざしで、隣にいる兄のことを見上げていた。

神さまは目的の場所のドアをまっすぐ見つめたまま呟いた。

「そう、記号だったんだ。考えてみれば特定の場所を伝えるのに、これほどシンプルでわかりやすい手段もないよな。しかも、ああして少し崩して書けばお前が心配していた相手に気付かれるっていうハードルもクリアできる。」

「でも、お兄ちゃん。よくわかったね。すごいよ。僕は全然地図記号なんて思い浮かばなかった。」

「不可能と思えるものを取り除いて最後に残ったものがどんなに意外であろうと真実なのだ。」

兄は僕にとってもう一人の神の言葉を引用して、得意気だ。

「さぁ、お母さんを探そう。もしかしたらここじゃないかもしれないけど、町内に記号が示す場所はあと一か所。ここにいなければ間違いなく、次の場所を探せばいいだけだ。」

そういって兄は、寿町北郵便局の自動ドアに向かって歩き出した。


それからさらに三十分後、僕たちは寿町南郵便局の中のソファに座りこんでいた。

平日の午後、局内の客は二人。宅急便を出しに来たおばあさんと、会社の事務員らしき制服のおばさんが窓口の前にいるだけだ。

あの後、僕たちは北郵便局の中を母の姿を求めて探し回り、トイレの中にも見当たらないことがわかると、窓口のお姉さんに母らしき特徴を尋ねてみた。

お姉さんは不思議そうな顔をしながらも、懸命に記憶をたどってみてくれたけど、あてはまるようなお客さんはここ一時間の間は見かけなかったことを教えてくれた。

少し不安になったけど、僕たちは間違いなく南郵便局に母がいると信じて、十五分かけて自転車でここまでやってきた。

しかし、ここにも母はいなかった。

二人の間の、長く落胆した沈黙を破ったのは兄だった。

「間違いないと思ったのにな。お母さんどこにいっちゃったんだろ。」

俯いて呟く兄の目には涙が溜まっていて、今にも零れ落ちそうだ。

僕は僕で、そんな兄の姿を見て、抑えていた不安が一気に噴き出し、とうとう目から涙をあふれさせてしまっていた。

北郵便局に母が見当たらなかった時からほとんど涙目で、南郵便局に向かい自転車を漕ぎながら泣くのをこらえるのが精いっぱいだったのだ。

そんな僕の姿を見た兄がぐっと下唇を噛んで、僕の肩を抱いた。

「泣くなよ。」

自分も泣き出しだしそうなのを堪えて、次にかける言葉を必死に兄が探しているのがわかった。


「どうした、僕たち。」

突然、頭上から降り注いだ野太い声に驚いて、僕と兄は同時に顔を上げた。

郵便局の制服を着た、お父さんと同じくらいの歳のおじさんが腰をかがめて、僕たちを心配そうに覗きこんでいた。

知らない人に、泣いているところを見られて気恥ずかしいのと驚いたのとで、僕はうつむいてしまったのだけど、兄はこの親切そうなおじさんを、なぜか信頼に足る人と感じたらしく、袖で両目を拭くとこれまでのいきさつを淀みなく、簡潔に説明し始めた。

兄の話を聞き終えると、おじさんは天井を見上げてうーんと唸り、数秒後には僕たちそれぞれの肩に手を置いて交互に目を見ながら言った。

「僕たち、今日はお弁当の日じゃなかったかい。」


二十分後、僕たちは自転車を目一杯の力で漕ぎながら、家に向かって走り出していた。

僕も兄も、涙はすでに乾いて、口元には笑みを浮かべ、目を輝かせて息を切らしていた。

兄はさらに加速して、僕との距離は五メートルほどに開いていた。

僕は追いつけ追い越せとばかりに、ペダルをこぐ足に力を入れ、加速した。

頬を滑る風が心地よい。

さっきまでの不安が嘘のようだ。

少しずつ近づく兄の背中を見つめながら、僕は先ほどまでのおじさんの話を思い返していた。


突然オジサンの口から発せられた予想外の質問に、僕と兄は互いの顔を向き合わせた。

兄の視線は僕に返事を促しているように思えたので、僕は再び顔をおじさんの方に向けて答えた。

「そうだよ、今日は五年生の音楽祭があるから、給食はなかったんだ。でも、」

「君たちはお弁当を忘れた。」

僕の言葉尻を遮るように放たれたおじさんの言葉に、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。

「どうして、それを。」

隣の兄を見ると、僕と同じように口をぽかんとあけておじさんを見上げていた。

「そんなに驚くほどのことでもないさ。実はおじさんにも君たちと同じ位、小学四年生の娘がいてね。もちろん学校は違うけど、今日は市内の小学校が欠食日だってことは知っていた。君たちが驚いているのは、どうしてお弁当を忘れたことを知っているのかってことにだろうから、それを説明しようか。」

そう言うとおじさんは僕の脇に腰を下ろして、元々細い目をさらに細くして微笑みながら僕を見た。

「君達が学校を早引けして、家に帰った時に話を戻そう。まず、君たちは綺麗好きなはずのお母さんならあり得ない程、台所が散らかっていることに驚いた。そうだよね。」

兄が答える。

「そうです。」

「そこで、どう思ったんだっけ。」

おじさんが質問を続ける。

「お昼ご飯を作っている途中で出かけたのかなって。でも、ケータイまで置いていくのはおかしいし、これはただ事ではないって思いました。」

「そして、ホワイトボードの文字に気付き、もしかしたらお母さんは誘拐とはいかないまでも、何か切羽詰まった事情があって、郵便局に行った、あるいは連れ去られたと思ったわけだ。」

「そう、そうです。今考えれば、そこまでして郵便局に行かないといけない事情ってあるのかなって不思議には思うんですけど、その時はメッセージが解けたことで興奮してて、そこまで頭が回りませんでした。」

「君たちはほんとに頭のいい子たちだ。やさしい心も持っている。そして何より素晴らしいのが直観力だね。本来、その直感に従って行動していれば、僕みたいなおじさんにドヤ顔されながらこんな話を聞くこともなかったんだけどな。」

僕はおじさんが何を言っているのかさっぱりわからなかった。

それは兄も同じようで、何も答えることができずにおじさんの次の言葉を待っているようだ。

「これはよくあることなんだよ。うちの娘も君たちと同じく忘れん坊でね。よく、連絡帳を見せるのを忘れて、朝になって『今日お弁当だった。』なんて言って、僕の妻に怒られることがある。『なんで今頃そんなこと言ってんの。』ってね。まぁ、欠食日の予定なんてのは、始業式の時に配られる年間行事予定表に書いてあるわけだから、それを確認していない僕の妻にも非はあると僕なんかは思うんだが、それを言うと奥さんの怒りに火を注ぐことになるからね。」

おじさんは肩をすくめて、また目を細めた。

「君たちもおおかた、昨日のうちに見せるべき連絡帳をお母さんに見せないでそのまま登校してしまったんだろう。お弁当を忘れたことには学校についてすぐ気付いたが、弟君のハライタもあって、それどころではなくなった。」

僕はまだおじさんが何を話しているのよくわからなかったけど、兄は違うようだ。

表情が明らかに先ほどとは違ってきている。

頬に赤みが差し、なんていうか気恥ずかしさと興奮とがごっちゃになったよう顔でおじさんの話に聞き入っていた。

「ところが、君たちのお母さんは君たちが学校に行った後、ふと目にしたプリントかなにかで今日が欠食日であることを知ったんだろう。そのあと、お母さんがどうしたか。さぁ、もうわかっただろう。」

そこまで聞いて、ようやく僕にもおじさんの言っていることが理解できてきた。

兄は顔を真っ赤にして立ち上がり、おじさんにむかって深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。」

それは、野球のゲームセットの挨拶を見てるようだった。

「そんな、礼を言われるようなことじゃないさ。」

おじさんは照れ臭そうに、周りを見渡して頭をかいてた。

「さぁ、そうとわかったら、もう帰りなさい。きっと君たちの大好きな玉子焼きが待ってるぞ。」

僕と兄は自動ドアに向かって駆け出していた。


息を切らしながら、僕たちは自転車を漕ぎ続けていた。

林の向こう側に団地の四階部分が見え始めていた。

僕は今回の推理劇もどきの出来事を振り返っていた。

結局、なんてことはない、すべては僕たちの勘違い、早とちりだったのだ。

お弁当を忘れたことに気付いたお母さんは、あわてて僕たちのお弁当を作り、普段は省くことのない片づけもそのままにケータイを忘れるほどの勢いでお弁当を学校に届けるため家を出た。

下校途中の僕たちとすれ違わなかったのは、僕たちが普段の通学路と違う道を通ってしまったから。

兄が弟を気遣うことができない性格だったら普段通りの通学路を通って帰ったろうし、学校に向かう母は僕たちに気付いただろう。

そうすれば今回のような狂想曲はおこらなかったのだ。

今にして思えば、兄や母のやさしさがすべて裏目に出てしまったということか。

きっと今頃お母さんは、学校で僕たちが早退したことを聞いて、冷えたお弁当を持ち帰り、僕たちが帰っていないことにやきもきしているだろう。

バカバカしいといえばバカバカしい。まさに狂想曲だ。

しかし、僕は不思議に心が温かくなるのを感じて、一人で「フフフ」とにやついてしまっていた。


ただ、僕にはどうしても一つだけわからないことがあった。

兄に並びかけ、最後にどうしても気になっているそのことを聞いてみた。

「お兄ちゃん、どうしておじさんは僕たちが玉子焼きを好きだってわかったんだろう。」

兄は応えない。

最後の角を曲がり、団地の駐車場の脇を過ぎる。

お母さんの車が駐車場に止まっているのが目に入った。

僕は安堵に胸をなでおろしながらもう一度聞いてみた。

「ねぇ、お兄ちゃん。どうして。」

兄が僕の言葉を遮って答えた。

「ダイニングメッセージさ。」

「え。」

駐輪場に自転車を停めて、僕たちは一号棟の階段に向かって歩いていた。

「玉子焼きが嫌いな子供は多分そんなにいないだろ。郵便局のおじさんは俺たちが玉子焼きが好きかってことではなく、お弁当に玉子焼きが入っているであろうことを推理したんだ。」

「もう少しわかりやすく話してよ。」

入り口の引き戸を開ける兄の背中にむかって言った。

「冷蔵庫のホワイトボードには普段何が書いてある。ほとんどはお母さんの買い物メモだろ。思い出してみろ。昨日の夜。ホワイトボードになんて書いてあったか。」

「えー、思い出せないよ。普段からそんなに気にして見てないし。」

階段を上りながら兄は振り返って言った。

「じゃあ教えてやる。『玉子』だ。」

「あっ。」

そうか、なんてことだ。

フフフ。

僕はまた口元が崩れるのを止められなかった。

なんてことはなかったのだ。

アルファベットの大文字のFにも見えた、漢字の干にも見えた、そして地図記号の〒にも見えたあの文字は、「玉子」を消して「玉」の字の左上の部分だけが残っただけのものだったのだ。

あーバカバカしい。

兄は家のドアの前で立ち止まり、僕を振りかえって言った。

「なぁ、きっとお母さん怒ってるぜ。『なんで連絡帳見せないの。』って。

でも、今日のことを話して聞かせればお母さん笑ってくれると思うんだ。

俺とお前、どっちから、何から話そうか。」

いたずらっぽく笑う兄を見上げて、僕もまた、満面の笑みで微笑み返した。

兄がドアを開ける。

僕達はわれ先に駆け込んで叫んだ。

「ただいま!!」


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