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Extra Chapter - 「Un pedazo de Lolo Barbieri」

 リナ・バルビエーリがそれを見つけたのは、ロロ・バルビエーリが天国に移住してから二週間余りが過ぎたころだった。それはペーパーバックサイズの手帳で、こげ茶色の合成皮革の表紙をめくると、扉のところに『これはロロ・バルビエーリの手帳である。見つけた者はすみやかに、もっとも手軽な方法でロロ・バルビエーリへ届けること』という一文が、青いインクで、そして英語で書かれているのが見える。文字は読みやすいブロック体であったが、ところどころに――特に「a」や「h」という文字に――リナもよく知るしなやかな筆跡が羽目を外しかけた気配もうかがえて、この一文を書いたのが、まぎれもなくリナの唯一の兄であるロロ・バルビエーリであるということを示していた。

 この手帳はロロの鞄の中にひそんでいた。所有者に置いて行かれてしまったこの鞄はすぐにリナのもとへと渡っていたが、彼女がこの鞄を含むロロの所有物であったさまざまなものと向き合うためには、現実の重さに耐えきれずに倒れてしまった母親を入院させたり、その母親に代わってさまざまな手続きを大人たちの手を借りながら完遂したりしなければならなかった。

 リナがこの手帳を見つけたのは真夜中で、家には彼女ひとりしかいなかった。大人たちは彼女をひとりにしないようにと心掛けていたのであるが、彼女自身が望んだこともあって、翌朝まで彼女がひとりでいることに同意していた。彼らはいつでもどんな些細なことでも連絡してくれてかまわないと彼女に言い残していたが、彼らの中には、彼女が自ら連絡してくると考える者はひとりもいなかった。

 リナは疲れ切っているのに眠れなかった。空腹も感じなかったし、なにかひとつのことについて考えることもできなかった。気付くと目は開いていて、時計の針はときには遅く、ときには異様なほど早く動いていた。

 気付くとリナは使う者が誰もいなくなった部屋にいた。それはロロの部屋だった。アメリカから送られてきた荷物がそのまま置かれている部屋の中で、リナは唯一、自らに直接手渡された鞄を見つけて、そしてその中からロロの手帳を見つけた。リナは扉の一文をしばし眺めていたが、そのあとは特にためらいもなくページをめくって、扉と同じように青いインクで空白が埋められている手帳の中身を読み進めていった。手帳を埋めている言葉は色とりどりで、大半はバスク語やスペイン語であったが、ときにはフランス語やオランダ語がその隣に並んでいることさえあった。しかしリナは特に苦もなくそれらを読み進めてゆき、そのページをめくる速さは、速読というよりも、もはや読み飛ばしているといったほうがよいくらいだった。

 そんなリナの手が止まったのは、リナのめくったページが手帳全体の三分の一ほどまでに及んだときだった。ピタリとその呼吸さえも止めていたリナは、意識的に、ゆったりと呼吸を再開させてからそのページの冒頭へと視線を向けた。そしてかすかに口を開けて、音を伴わない声でそのページを読みはじめた。

 リナにページを繰る手を止めさせたのは以下のような文で、それはこれまでと同じように、青いインクで、そしてリナにとっても、この手帳の筆者にとってももっともなじみ深いバスク語で書かれているものだった。


『午前三時。七時間後にはレースがはじまる。眠ったほうがいいのはわかっているが、目はどこまでも冴えわたっている。夜というものを見るのはこれが最後だという気がしてならない。おそらくこれは真実だろう。皆が言うようにボクに翼があるというのなら、それは焼け落ちる寸前で、もう一度ヘリオスに目を向けられたなら、ボクはまっすぐにヘリオスの目も届かない暗い奈落の底へと堕ちつづけてゆくことだろう。これは不幸なことではない。むしろ、ボクの魂の一部はそれを心待ちにしている。ボクは皆と同じところに立ちたいと何度も願ってきたのだ。生というものから脱すれば人間は皆等しく死者と呼ばれる。ボクがそれを望んでいないとどうして言えるのだろう?

 今日(日付では昨日)アルビーに会った。彼と会うのはとても久しぶりな気がしたけれど、実際には一週間前にも彼とは会っている。みんながボクらのために開いてくれたパーティーのときだ。あの日は本当に楽しかった。ボクが自転車に乗っていることで幸福になってくれるひとびとがあるという事実がどれだけボクの励みになっているのか、どうすれば彼らにボクの感謝がなにひとつ零れおちることなく伝えられるのだろう? リナや母さんをのぞけば、彼らの存在がボクをこの現実につなぎとめている唯一のものであるとボクは神の前でさえ証言できうる。神よ、彼らにあなたの祝福があらんことを。家族や彼らが幸福であれば、ボクはためらいなくこの身をヘリオスの前に晒しましょう。それがあなたの望みというのであれば、それがふたりのためというのであれば。アルビーもなにかに気付きかけている。気付いたとしてももはや手遅れであるが、「遅くてもしないよりはまし」ということわざのとおり、気付くことになんの意味もないわけではない。それは彼に未来を与えるものになるはずだ。それはおそらく彼の望んだ未来ではない。彼とはなにも話さなかったに等しい会話しかしなかったけれど、彼が望んでいる未来にボクの姿があることはなによりも明白だった。それはうれしくもあり同時に怒りを誘うほどに哀しいことでもある。彼は自らが気付いている真実を見ていないふりをして、誰かが強く明確にそれを否定してくれることを願っている。それができるのは詐欺師か自らを宗教家と思いこんでいる無邪気なひとびとだけであろう。神の意志に従っているひとびとであれば、彼の頬を手のひらではたいて彼に「目を覚ませ! 真実を見つめろ!」と叫ぶことしかできないはずだ。ボクにそれを行う権利はない。ボクが彼にできるのは、ボクが彼にとってどんな存在であったのかをこの身を持って証明することだけだ。ボクは彼のために存在し、そしてリナのために存在しているのだ。ボクがふたりから離れるタイミングは今日をおいてほかにはない。ボクはふたりといつまでも一緒に居たいと思っているが、同じくらいふたりから遠く離れたところへ行きたいとも願っている。ボクはそのために自転車に乗っている。自転車はボクをとても遠いところへ連れていってくれる。けれどいまでは行く先々に誰かの姿があって、行く先々で祝福と怨嗟の声が聞こえてくる。ボクはレーサーになるべきではなかったが、ふたりのためには、特にアルビーのためにはボクはレーサーという存在でありつづける必要があった。ボクの台本にはもうセリフもなにも書かれていないけれど、それでもボクは舞台の上に立ちつづけて、おそらくはボクという存在が両親を結び付けたときから定まっていた結末へとふたりを導かなければならないのだろう。ボクはふたりとそしてみんなの幸せを願っている。そのために太陽に焼かれろというのであれば、ボクは喜んでこの身をあのキュクロプスの目の前へと連れてゆこう。それが多くのひとびとの願いであり、それがボク自身の願いでもあるのだから。

 夜が去りゆこうとしている。キュクロプスが目を覚ましたのだ。彼は数時間ののちにはボクの翼を焼き落とすだろう。彼は何年も前にそうするべきだった。しかしそれは彼だけのせいではない。ボクとリナとの距離が近すぎたことも原因のひとつだ。ボクは彼女からもっと遠く離れたところへ行くべきだった。たとえ彼女が泣き叫んだとしても、たとえ彼女がひとりきりになってしまっていたとしても。リナには幸せになってもらいたい。その姿を見ることができないのはとても残念なことではあるけれど。でも彼女はきっと幸せになれるだろう。そうでなければ、そうならないというのであれば、ボクはいったいなんのために存在していたというのだろう? どこかで道草を食っていたヒュプノスがようやくボクのところへ帰ってきた。あまり時間があるとは言えないが、彼の誘いに応じて少しだけ夢の世界へ出かけようと思う。できることならみんなが出てくる夢を見たいものだ。みんなの笑顔をボクは見たい。さあ、最後の夢を見にゆこう。ロイにひどい起こされ方をされる前に、きっとなにかすてきな夢が見られると信じて。』


 リナがページを繰ると、空白はそこからはじまっていた。それでもリナは一枚一枚ページをめくって、あのなつかしい筆跡が、青いインクで空白を埋めている姿をどこまでも探し求めていった。そして最後のページに辿りついた。そこにあったのはこれまでと変わらない空白だった。しばらくそのページを眺めていたリナは、手帳を閉じて、それを抱きしめるように胸に当てた。そして頭を垂れて、声なき声を上げて泣きだした。その涙を止められる者はどこにもなく、その声を聞くことができたただひとりは、もう彼女のそばにはいなかった。夜だけが彼女を見ていた。夜だけが、彼女の声を聞いていた。


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