Chapter 4 - 「Un caso de Alberto Iglesias」
アルベルト・イグレシアスにとって、ロロ・バルビエーリと同じレースで走るのはそれが通算で二十四回目のことだった。しかしそれぞれにデザインの異なるサイクリングジャージにその身を包んでレースに参戦するのはそれがはじめてのことであったので、レースのスタート地点でロロの姿を見つけたアルベルトは、なにか場違いなところへ来てしまっているような感覚と、今日という日を待ちに待っていたという感慨とを同時に覚えることに忙しくて、ロロに声をかけるタイミングを逃してしまっていた。
「――あれがこの街の『天使』とやらか」
低い声で発音されたドイツ訛りの英語がアルベルトの耳に飛んできて、アルベルトが目を向けると、そこには自らと同じサイクリングジャージをその巨体に身に着けているエドゥアルト・ビュッヒナーの姿があった。夜道ではあまり出くわしたくはないたぐいの顔を持つ彼は、その鋭い視線をチームメイトとなにかを話しているらしいロロの後ろ姿へと向けていた。
「ずいぶんと軽そうな身体をしているが、あれで最後まで走れるものなのか?」
「一緒に走ってみりゃあすぐにわかることッスよ」
ロードバイクのハンドル上部に寄りかかるような体勢のアルベルトは、その肩をすくめてからエドゥアルトと同じものにその視線を向けて、バスク訛りの強い英語を淡々とした調子でその口から発音した。
「あいつは速いッスよ、マジで。特に登りでは、ロードバイクになにか細工でもしてんじゃないかってくらいに速いッス」
「おまえがそこまで他人を褒めるというのも珍しいな」
「いやいや、俺ほど『謙虚』って言葉が似合う男もなかなか見当たらないものッスよ、エディさん」
「調子が悪いのなら無理はするな、もともと出場する予定のなかったレースなのだから、結果は気にせず気楽に走れ」
「むしろ絶好調すぎて怖いくらいなンスけどね。――あとツッコんでくれないとボケたほうとしてはいろいろアレなンスけど、こう、なんかなにもないところで落車しちゃったような気分になっちまうンスけど」
「俺にそういう役割を期待するな、そういうのはフェルッチオあたりとやってくれ」
「やー、ルッチオさんはダメッスよ、あのひとは俺以上のボケたがりなンスから。――とこでなんで俺の調子が悪いだなんて思ったンスか?」
「おまえが他人のことを褒めるからだ」
エドゥアルトからの返答はまるで図ったようなタイミングでやってきたので、アルベルトは一瞬どう反応したらいいのかわからなくなってしまった。
「それはそんなに珍しいことなンスか?」
「俺の記憶が正しければ、おまえがなんの批判も加えずに褒めたことのある人間はこれまでに五人しかいない、あの『天使』を含めても」
そんなまさかとアルベルトは反射的に応えてはみたものの、自らの記憶に探りを入れてみると、確かに自分が手放しで褒めたことのある人間は五人くらいしかいなかった。しかもそのうちの三人がフットボーラーでもうひとりがテニスの選手というあんばいであるのだから、エドゥアルトが珍しいと評したり、調子がいつもと違うと考えたりするのも無理のないことである。
「今日のレースはスプリンターのおまえにはきつい。集団から遅れても無理はせず、自分のペースで走ることを心掛けろ」
手袋の具合を確かめながらエドゥアルトが言うと、それよりやや遅れる形でレース開始一分前であることがまずはバスク語で、つづいてスペイン語、英語という順番で辺り一帯にアナウンスされた。レースの開始を待ちわびている観客から贔屓の選手たちに声がかけられて、その中には、アルベルトや、ロロに対する期待の声も含まれていた。
「だから絶好調だって言ってるじゃないッスか」
観客からの声に応えながらそう言ったアルベルトは、姿勢を正してからハンドルを握って、カラフルなスタートゲートの向こうに延びるアスファルトの道路にその視線を向けてからつづけて言った。
「今日は負ける気がしないンスよ、誰にも。エディさんにも、あいつにも。今日は俺の日になるッスよ、――天にいる誰かさんが、そう決めちまったみたいッスからね」
* * *
十八歳という若さでプロのロードレーサーとしての歩みをはじめたアルベルトはそのすべてが順風満帆だったわけではない。むしろルーキーイヤーの彼は『大嵐の中に放りこまれた帆船』とでも言ったほうがその実情を正確に表していて、それは彼のことをよく知る地元の新聞記者などが、ベルギーへと渡った彼の近況を伝える記事のタイトルに『彼はなぜ緑の芝生の上に立っていないんだ?』という一文をおそらくは喜んで並べてしまうほどのものだった。
学校を出てすぐにベルギーのプロチームと契約を結んだアルベルトは、選手登録などの関係上、翌年になるまでチームの一員としてレースに参戦することはできなかった。しかし仮に参戦することが可能であったとしても、結局チームからアルベルトに与えられる指示は『プロとしての身体作り』というものであったであろうということは、誰よりもアルベルト自身がいちばん理解していることだった。ジュニア世代のスプリンターとしては指折りの実力があるとは言っても、プロというカテゴリーの中ではそれは少しすぐれている程度のものでしかなかったのである。アルベルトはもちろんこのことを承知していたし、チームがアルベルトと契約を結んだのもその将来性を見込んでのことであったので、このころのアルベルトに対する風当たりはまだ非常にゆるやかで、彼の近況を伝える記事も、このころはまだ好意的な意見がその大勢を占めていた。
彼に批判的な記事が目立ちはじめたのは、彼のルーキーイヤーが本格的にはじまって八ヶ月余りが過ぎたころのことだった。それはアルベルトがプロとして臨んだ三戦目のレースの直後のことで、そのレースで唯一のタイムアウト選手となっていたアルベルトは、自らを評する記事の中に『彼は自転車ではなくフットボールに乗って走るべきだった』という一文を見つけて、まったくそのとおりだと笑いとばす以外に、その記事に書かれている辛辣な批判を受けいれる術を見つけることができなかった。
ルーキーイヤーのアルベルトには、彼に好意的な人間でさえも『平凡以下の選手』という評価を与えざるを得なかった。彼が参戦したのは若手やセミプロ、さらにはプロを目指すアマチュアの選手も走るような小さなレースがほとんどで、チームは彼にある程度の成績を期待していたのであるけれど、アルベルトは、その期待にはただの一度も応えることができないままにプロとしての一年目を終えてしまい、ネット上で『彼はなぜ緑の芝生の上に立っていないんだ?』という一文を見つけても、小さく「うるせーよ」とぼやく以上の反抗の姿勢は見せられなかった。
薄暗い部屋の中で、自分はなぜまともに走れないのかとアルベルトは何度も考えた。周りのレベルが予想以上に高かったわけではないし、自分が必要以上に緊張したりしていたというわけでもない。それなのにペダルがいつも以上に重く、集団が驚くほどに速く感じてしまうというのは、いったいどういうことであるのか。
「いや、それ以前の問題だな、これは」
アルベルトは見て見ぬふりをして、それまで無視しつづけてきた己の正直な心情に目を向けた。そこに転がっていたのはどこまでも純粋な『退屈』という名の感情で、アルベルトにとって、その感情は彼をフットボールの世界から連れ去った張本人でもあった。
「よう、ずいぶんと久しぶりじゃないか」
アルベルトは親しみと攻撃性を込めて言った。相手方からはなんの反応もなかったが、アルベルトには、この相手には言ってやりたいことが山ほどあった。しかしそれらはアルベルトの口を出る前にどこかへと消えてしまい、結局アルベルトの口から出てきたのは、「今度は俺をどこに連れていく気だ?」という問いかけだけだった。
――どこにも連れていかないよ。
ふいにそんなことを言う声が聞こえた気がして、アルベルトは狭くて薄暗い部屋の中を見回した。もちろんそこには誰もいなかったし、テレビやパソコンの電源も落とされたままだった。ではどこから聞こえてきたのかと考えたアルベルトは、――ボクはキミについていくだけだからねと言う幼い少年のような声が、自らの内側から、幼いころにはずっと自分のそばにあって、あるときからどこかへ行ってしまっていて、つい最近、また自分のところに戻ってきたらしい『退屈』という名の感情から発せられているということに気付いた。
「なに言ってんだ、俺をこんなところへ来るように仕向けやがったくせに」
なにがどうなっているのかはよくわからないが、とにかく反応があるのならば好都合だとアルベルトが矛先を向けると、相手方からは、なにかに対してせせら笑うような調子の声が返ってきた。
――ボクはなにもしていないよ、キミがそこにいるのは、すべてキミ自身の数多の選択の結果なんだから。
「冗談言うなよ、おまえがその選択ってやつに介入してこなかったら、俺はいまごろアノエタのヒーローになってたのかもしれないんだぜ?」
――おや? もしかしてキミは戻りたいのかい? フットボールの世界に。
「はっ、冗談じゃないね」
口ではそう言ってみたものの、アルベルトは、ではその言葉がまぎれもない真実であるのかと神様に問われたら、その首を縦に動かすことはできないということもまたしっかりと自覚していた。そしてアルベルトが自覚をしているということは、アルベルトの一部である相手方もまたしっかりとそのことを自覚しているということである。
――確かにあちらのほうが魅力的だろうね、いまのキミにとっては。
「球蹴り遊びのなにが魅力的だって?」
――それはキミ自身がいちばん知っていることなんじゃないのかな?
「なんのことやら」
ため息をつくような気配があって、それにつづいて聞こえてきた相手方からの声には、先ほどよりも鋭利な雰囲気がその陰にひそんでいるようだった。
――無知なふりをするのはかまわないけれど、すべてをボクのせいにするのはやめてもらいたいね。
「おまえのせいじゃないならなんだって言うんだ」
――どうして知らないふりをするんだい? キミはもう気付いているじゃないか。どうしてちゃんと走れないのか、どうしてボクがキミのところに帰ってきたのか。
さあ、わからないねとアルベルトは言おうとして、口を動かしても、それに音が伴っていないことに気付いた。いったいどうなっているのかと右手をのどにやってみると、そこにはなにもなくて、そして見下ろしてみても、そこには右手どころか、身体そのものがどこにも見当たらなかった。
――無知なふりをするのはかまわないよ。けれど、キミの目に触れていないものにも時間の流れというものがあって、しっかりと成長したり衰えたりしているものなんだ。だからたとえキミがこれからもずっと知らないふりをつづけていったとしても、いやだからこそ、キミはその代償をその身で引き受けなければならない。限界まで引き絞られた弓から放たれる矢はすべてを貫いて、キミに生涯癒えることのない傷を与えることだろう。キミにとってカレはそういう存在なんだよ。キミにとってカレがそうであるということにはなんの理由も因果もない。それはそうであるというただそれだけのことで、もしどうしても理由がほしいというのであれば、神様が決めたことだとでも思えばいいさ、それがキミにとって慰めになるというのならね。
アルベルトが顔を上げるとそこには暗闇しかなかった。どこまでも暗くどこまでも深いそれはいまにも自らを飲み込んでしまいそうで、アルベルトはそこから逃げようとしたがそのための足は見当たらず、代わりに閉じようとした瞼は、彼の意思に反してまったく動く気配を見せなかった。
――キミはいまでも少年であろうとしているんだよ、アルベルト。キミはいまでもあの幸福な時間の中を生きつづけようとしているんだよ、カレがいて、ビクトルがいて、ルーベンスがいて、それからリナやファビオやニコラウスたちがいたあの幸せな時間をね。だけどもそれは不可能なんだよ、アルベルト。人間にとって時間というのは常に流れていくもので、過ぎ去った時間というのはもはや存在していないに等しいものなんだ。それをむりやり引き延ばそうというのは愚かなことだよ。あまりにも愚かなことだ。それがすばらしい試合だからといって、いつまでも終わることのないフットボールの試合というものをキミは見たいと思うかい? 答えは完全なるノーのはずだ。物事とは終わることでその輪郭が完成するものなんだ。シャーロック・ホームズは生き返るべきではなかったし、ジョン・レノンだってあのとき殺されていなかったらいまほど偉大な存在にはなっていなかっただろう。もちろん彼は殺されるべきではなかったけれど、しかし彼は表現者としてはすばらしい手法とタイミングでその人生に別れを告げることができたんじゃないかと思わないわけにはいかないよ、たくさんの表現者がその人生のピリオドを自分の手で打っていることと同じようにね。
暗闇が揺らめいて、そこからなにかの輪郭が浮かびあがろうとしていた。アルベルトはなんとかそこから目を逸らそうとしてみたけれど、もはや、アルベルトの自由になるものなどなにひとつとして存在していなかった。
――彼らは気付いていたんだと思うよ、つづけることなんて無意味だってことに。彼らは終わらせるということを完璧に理解していて、そして理解しすぎていたがために、自らの人生の終止符をのろまな神様の手にゆだねるなんて我慢ならなかったんじゃないかと思うよ。
浮びあがってきた輪郭はヒトの形をしていた。頭があって、身体があって、その下には足があった。アルベルトはその浮びあがってきたものに見覚えがあるような気がして、必死に記憶の中を駆け巡ろうとしてみたが、そもそも駆け巡れるような記憶そのものが見当たらなかった。
――キミのことに話を戻そう、アルベルト。そもそもボクはキミという存在の一部であるのだから、ボクの口から出てくる言葉はすべてキミの言葉であると言ってもなんら過言ではない。つまりキミはボクが言ったようなことは全部理解していて、そして委細承知しているにもかかわらず、キミはいまでも過ぎ去った時間の中で生きつづけようとしているというわけだ。それが愚かなことであることをキミは理解しているし、もはや自分の身体がその時間の中にとどまることができ得ないほどに成長してしまっているということにも気付いているはずだ。いまのキミに伝えるべき言葉は『医者よ、汝自身を癒せ』以外にないだろう。キミは終わらせるということの重要性を知っているし、そのためにはなにをすればいいのかも認識している。なのにキミはためらっている。なぜか? 答えは至極簡単なものだよ、アルベルト。キミは怖いんだ。そしてずるくて小賢しくて浅ましくて卑小な人間なんだよ、キミは。キミは自分の手を汚すことがいやなんだ、キミはいつまでもなにも知らない少年のままでありつづけたいだけなんだ。キミは自分の世界さえきれいで幸福に満たされているのならその外側で何百万という人間が殺し合いをしていようと絶望の淵から暗闇の中へとその身を投げ捨てるひとびとが存在していようとまったく関係がないと思いこんでいる愚劣な人間たちと同じ選択肢を選びつづけているだけなんだ。その選択肢が世の中でなんと呼ばれているか知っているかい? 『怠惰』だよ。君もよく知る七つの大罪のひとつだよ、アルベルト。キミは自身がやるべきことを自覚していながらそれを後回しにしつづけることでそれが勝手に解決してくれまいかとあからさまに期待しているひとびとと同じことをしているんだよ。恥ずかしくないのかい? キミはこの世の中でもっとも汚らしい人間たちと同類だと罵られてもなお死にたくならないというのかい? これが恥辱でなければいったいなんだと言うつもりなんだい?
暗闇の中に浮かびあがったそれを、アルベルトはよく知っているような気がした。それはいつものように弱々しい笑みを浮かべていて、その小さな身体の背中には、まるで純白の大きな翼が生えてでもいるようだった。
――もう時間は過ぎてしまったよ、アルベルト。
頭に直接響くようなその声は、アルベルトにとってひどく聞き覚えのあるものだった。それはいつも小さくて、自信というものがぜんぜんないようで、けれど、その奥には、ほかのどんな声にもまして、確かな意志というものが明確に感じられるような声だった。
――キミがどれだけ願おうとも時計はその針を後ろへと戻してはくれない。十二時の鐘は鳴り終えて、うつくしいドレスはみすぼらしい衣服に、カボチャの馬車はただのカボチャへと戻り終えてしまっている。魔女の姿もどこにもなくて、残っているのはただ、小さな衣服にむりやり袖を通して、まだ魔法の時間は終わっていないと自分に言い聞かせながら踊りつづけている無知な少年少女のふりをした大人たちの姿だけだ。キミもそんな彼らのひとりなんだよ、アルベルト。違うとは言わせない。なぜならキミは、まだボクを――
無機質な電子音が突然響いて、アルベルトは、自分が薄暗い天井を見上げているのだということを理解するのに一、二分ばかりの時間が必要だった。耳に届くのは着信を告げる電話の声だけで、いくら待ってみても、あのなつかしい声は聞こえてこない。天井へと伸ばした右手はどこにも消えていなくて、起こしてみた身体も、脚も、全部いつもと同じところにあって、「あー、あー、テス、テス」という自分の声も、少々しわがれているような感じはあったものの、電子音に混ざって、はっきりと自分の耳へと帰ってきていた。
「……まあ、夢だよな、ふつうに考えて」
床に足を降ろしてソファから腰を上げてみると、ふわふわしていたいろいろなものが鋭角になってきて、それに反比例するように、なつかしい声が言ったことや、つい先ほどまでしっかりとした質感を持って自らのうちにあったものがパッとその姿を消してしまったような気がして、アルベルトは、鳴きつづけている電話がその声を枯らすまで、電話を見つめつづける以外のことがどうしてもできなくなっていた。しかしもう一度電話が鳴きはじめるころにはその感じもどこかへ行ってしまっていて、ほどなくして電話の声に応じたアルベルトは、電話の向こうの自らの母親から、ロロの父親が事故に遭って、そしてすでに帰らぬひとびとのひとりになってしまっているのだということを聞かされた。アルベルトに驚きはなかった。ただなんとなく、これでもう戻れないという認識だけが、アルベルトの心のうちに、ひどく静かに広がっていった。
それからはいろいろなことがとんとん拍子に進んでいった。二年目のシーズンを迎えたアルベルトはひとが変わったような走りを見せて、下部カテゴリーのレースとはいえプロとしての初勝利を含む三勝を記録し、同じく下部カテゴリーのレースとはいえ早々と初勝利を飾ったロロと同様に、未来のロードレース界を担うであろう若手のひとりと数えられるようになっていった。
翌シーズンになってもアルベルトの好調ぶりは変わらなかった。初のクラシック出場となったミラノ~サンレモではアシストとしてチームエースの勝利に貢献し、チームメイトの不調で出番が回ってきたツール・ド・スイスでは、ブエルタ・アル・パイスバスコで若手ナンバーワンクライマーがいったい誰なのかをはっきりと知らしめてみせたロロにも勝るとも劣らないポテンシャルが自らにあることを十二分に証明し、直前の怪我のためにツール・ド・フランスへの参戦はかなわなかったものの、三大グランツールのラストを飾るブエルタ・ア・エスパーニャには、ロロとともにエントリーされてもなんらふしぎなことではないし、むしろエントリーされないというのであれば、チームはなんらかの釈明を行う必要が生じるだろうと例の新聞記者たちがそれぞれの記事にあるいはいやいやながらにでも書かねばならないほどにアルベルトに対する評価は高まっていた。
自分たちは、まるで天にいる誰かさんに気に入られてでもいるみたいだとアルベルトは思った。このなにをやってもうまくいく感じには憶えがあって、アルベルトは、だからこそ近い将来に待ち受けているのであろう暗闇よりなお暗い常闇との対面がなによりも怖かった。それはおそらくどうあがいたところで避けられない未来なのだろうとアルベルトは感じていた。自分がやっていることはルーキーのころとなんら変わっていない。それなのに結果が伴うのはなぜなのか? あのときと今とではなにが違うのか? アルベルトは何度考えても同じ答えにしか辿りつけない自分が腹立たしかったし、誰かにそれは徹底的に間違っていると強い口調で否定してほしかった。
自動運転のような日々は北半球に本格的な夏が訪れてもつづき、自分の人生の助手席に乗っているような感覚からいまだに逃げだせていなかったアルベルトは、怪我によって離脱を余儀なくされたチームメイトの代わりとして、地元で行われるトップカテゴリーのレースに自分がエントリーされるということをレースの二週間前にチームから知らされた。それはプロになってからははじめてロロと同じレースで走るということも意味していて、アルベルトは、心待ちにしていたレースがようやくやってきたという喜びと、またトラルファマドール星からなんらかのメッセージがタイタンあたりにでも送られたりするのだろうかという漠然とした不安を同時に抱えこんでしまっていたので、レースの当日になっても、まるで夢の中に居るような感覚から抜けだすことができていなかった。
そしてそんな感覚の中で、アルベルトはなぜかはっきりと感じていた。――このレースではどんなことがあっても自分は負けないと、あたかも天にいる誰かさんがそう決めてしまっているみたいにそれは明らかなことであると。アルベルトは、自らの代名詞にもなっている夏の太陽と、ひややかな恐怖との狭間でぶざまな悲鳴を上げたくなるほどに自らの勝利を確信していた。レースがはじまってもそれは変わらなかった。――そしてレースが終わっても、結局それは変わらなかった。
* * *
雨が降りだしたのはメイン集団が三つ目の峠に差し掛かったあたりのころで、二十人前後の逃げ集団は、メイン集団に対して十五分程度の差をつけて雨の中を快走していた。アルベルトはロロやエドゥアルトとともにメイン集団の中にいて、ほかの有力選手たちと同様に、レースの後半に待っているふたつの峠に備えて体力を温存していた。
「クリクラウレを超えるまではこの調子だが、そのあとは一気にペースが上がる」
アルベルトの隣を走っているエドゥアルトが言った。レーサーの中でもひときわ大きな身体を持つ彼はその威圧感でも一頭地を抜いているといったあんばいで、トップカテゴリーのレースではいまなお位置取りに苦労することも多いアルベルトでも、彼の隣を走っていれば、そんなことに頭を悩ませる必要はなかった。
「雨の下りはなによりも経験がものを言う。前に追いつくまでは俺についてこい」
「了解ッス。言われなくてもついて行くッスよ」
そのあとは好きにやらせてもらうッスけどね――そう胸のうちでつづけたアルベルトは腰を上げるついでに周囲に目をやって、ロロの姿を探してみる。自らとは配色もコンセプトも異なるサイクリングジャージを身に着けている彼は四時の方向に見え隠れしていて、その姿はすでにサイクルロードレーサー以外のなにものでもないように見えた。
レースが動いたのは、メイン集団が『ふたつの峠』のひとつである一級山岳のベルトライキにその足を踏みいれた直後のことだった。ベルトライキの入り口には七パーセントを超える勾配の上り坂が待ち受けていて、そこでペースのゆるんだメイン集団から、有力選手を含む三人の選手が抜けだしたのである。このまま行かせてはまずいと判断したメイン集団はペースを上げて三人の選手を追い、そのペースについて行けなくなった選手たちは、次々にメイン集団からちぎれていってしまうという状況が生まれた。
「ペニーは遅れたか。――アルベルト、おまえはだいじょうぶなのか?」
「だから絶好調だっつってるじゃないッスか」
エドゥアルトの問いに若干面倒くさそうに応えたアルベルトは、その視線を見憶えのある小さな背中に固定したまま「あと二百キロくらいは余裕ッスよ、掛け値なしに」とつづけて言った。
「エディさんこそだいじょうぶなンスか? ひとの心配しておいて自分がダメでしたなんてことになったら、笑わない自信なんて皆無ッスよ、俺」
しばらく待ってみてもエドゥアルトからの応答はなく、まさか自分が気付かないうちに集団から遅れてしまったのかと視線を転じてみると、アルベルトは、そこで自らに向けられている鋭い視線と相対することになった。
「…………。え、なンスか?」
「おまえがそう言うのならそれを信じよう」
そう言ってアルベルトから視線を外したエドゥアルトは、雨を落としつづけている暗い鈍色の空を軽く仰ぐと、アルベルトにはわからない言葉でなにかをつぶやいた。おそらくドイツ語であろうそれは、のちにアルベルトが己の耳と記憶を頼りに調査した結果、自らの理解できる言葉に訳すと、神を罵ると同時に、なにかを哀願するための言葉のひとつであるらしかった。
「全力を尽くせ、アルベルト」
ドイツ訛りの英語でエドゥアルトが言った。
「たとえ得られる確証がなくとも、己が望むものを得るためにはそれ以外に方法はないのだから」
メイン集団からロロから飛びだしたのは、ベルトライキの登りも残り半分になって、メイン集団が先の三人を含む逃げ集団に追いついた直後のことだった。前を追うという共通の目的を失い集団が不安定になったところを狙ったアタックはものの見事に成功し、これまで以上のペースで十パーセント近い勾配の坂を軽々と登っていくロロについていけたのは、ロロの動向をつぶさに観察していたアルベルトただひとりだけだった。
「おまえだけは逃がしてたまるかっての!」
後ろを一瞥したロロに対して、アルベルトは好戦的な笑みを浮かべてみせる。しかしロロは特にその表情を変えることもなく、前を向いて淡々と坂を登っていく。
「悪いが今日は俺の日だ、ロロ。おまえは後ろの連中と一緒におとなしくしてな」
アルベルトの言葉に対する反応なのか、ロロは腰を上げてさらにペースを上げていく。
「だから逃がさねえつってんだろ!」
同じように腰を上げたアルベルトは、ペダルを目いっぱいに踏み込んでロロの小さな背中を追っていく。ここでロロを逃がすわけにはいかない。ロロの背中を見失ってはいけない。アルベルトはギアを軽くしてくれという両脚の要請を無視して、ペダルを回しながら目の前の背中にのみ集中する。それでも身体の悲鳴は徐々に閉じていた耳を開き、ぐるぐると回りつづけている頭は同じ結論をアルベルトの意識に叩きつけてくる。
予感が正しければこのレースで自分が負けるはずがない――なのに。
それなのにどうして。
自分がロロの前を走っているイメージをまったく思い浮かべることができないのは、いったいなぜだというのか。
あるいはエドゥアルトはなにかに感づいていたのかもしれないとアルベルトは考える。そのおそろしくかつ巨大な外見とは裏腹に細かなことによく気付き、「あれはもうあれだな、『ムッター』とでも呼ぶべき存在だよな、あれは」とフェルッチオがいつになくまじめな調子で言わずにはいられないほどの世話焼きでもある彼は、自分の予感から生じていた焦燥にもあるいは気付いていたのかもしれない。
全力を尽くせ。
アルベルトは胸のうちで自分に言い聞かせる。
たとえ得られる確証がなくとも、己が望むものを得るためにはそれ以外に方法はないのだから。
アルベルトはペダルを回す。耳をふさいでも聞こえてくる悲鳴が身体の支配権を奪いに来るが、アルベルトはペダルを回す脚を止めない。止めてしまえばすべてが終わってしまう気がした。この脚を止めてしまえば、ロロにはもう二度と追いつけないだろうという予感があった。アルベルトは懸命にペダルを回した。それでも小さな背中はさらに小さくなって、翼を持つ背中は容易にアルベルトを置き去りにしていく。あのときもこの光景を見るのがアルベルトは怖かった。だから勝負から降りて、だからロロから逃げだした。――そう、逃げたのは自分だ。逃げたのはロロじゃない、この自分なのだ。ロロに負けるのがいやで、ロロについて行けないことが怖くて、ロロに勝てない自分というものをどうしても認められなかった――
いや違う。
顔を上げたアルベルトは、木立の向こうに消えたロロを追ってペダルを回す。ベルトライキの頂上は近く、沿道にはアルベルトの聞きなれた言葉で声援を送ってくるひとびとの姿が増えはじめていた。けれどアルベルトの聴覚はそれらの言葉を彼の意識に送ることができず、彼の意識は、彼が自らの無意識から、彼がその目を逸らしつづけていたものの中から見つけだしたひとつの答えを、心の中で、もっとも日当たりの良い場所へと移すことに忙しかった。
それは嫌悪という感情だった。
それは憎悪という感情だった。
それは殺意という感情だった。
それはロロ・バルビエーリという名のひとりの少年に対して、アルベルト・イグレシアスという名のひとりの少年が抱いた幼いがゆえにどこまでも純粋な感情だった。アルベルトはロロが許せなかった。アルベルトはロロという存在を認められなかった。アルベルトはすべてが思いどおりになって退屈なフットボールなんてやめてしまって、すべてが思いどおりにはならないサイクルロードレースの世界に飛び込んだつもりだった。けれどもアルベルトが求めていたのは結局自らが王様になれる世界で、自分以外の誰かが神様にいちばん愛されているような世界ではなかったのである。事実アルベルトは何度もロードレースなんかやめてフットボールの世界に戻りたいと思っていた。自らのプライドがそれを許すのであれば、彼はすぐにでも緑の芝生の上に帰りたかった。またチームの王様として試合に出て、ゴールを決めて、仲間から、監督から、そして観客から祝福されたかった。なんなんだこれはとアルベルトは思った。これじゃあ本当にただのガキじゃないかとアルベルトは笑うしかなかった。けれどこれが真相なんだ、これが事実なんだとアルベルトは認めて、そこから目を逸らしたりはしなかった。ようやく気付くことのできた自分の正直な感情を、アルベルトは笑い話として、追っても追っても、追いかけても追いかけても追いつけない小さな背中の持ち主に言って聞かせてやりたかった。
なあ、待ってくれよ。
その小さな背中の持ち主は、いまにもアルベルトの、そしてほかの誰の手も届かないところへと純白の翼に連れ去られようしていた。
頼むから、そいつを連れていくのはちょっと待ってくれよ。やっと気づいたんだ、やっと見つけられたんだよ、そいつに言うべきことをさ。だから、だからさ。そいつを連れていくのはやめてくれ。もうその必要はないんだ、もうそんなこと願っちゃいないんだ。おい聞いてんのかよ、俺はそいつにいなくなってほしいんじゃない、俺はそいつと話がしたいだけなんだ。そいつと一緒に走りたいだけなんだ。そいつと一緒にバカやりたいだけなんだ。だから、だからさ、頼むから、そいつを連れていかないでくれ。頼むから、頼むから昔の俺のくそみたいな願いを聞き入れてそいつを天国の住人にしちまうようなことだけはやめてくれ。そいつを俺たちの前から連れ去らないでくれ。俺が代わりに行ってやるからさ、だから、だから――
――時は逝く、時は移るものなんだよ、アルベルト。
なつかしい声がそう言った。振りかえると、そこには見憶えのある、小さな天使の姿があった。
――キミが眠らなくても明日がやってくるように、キミが引き金を引かなくても放たれる銃弾はあるものなんだよ。そして自らの手で幕を下ろさなかった人間からは、その結末を決める権利は取り上げられる。
天使は弱々しくやわらかい笑みを浮かべていた。アルベルトが手を伸ばしてそれに触れると、それはボロボロと崩れて、アルベルトの手には、まるで脈打つような熱さを持つあざやかな赤色を残した。
――これがキミの選んだ結末だ、アルベルト。目を逸らさず、耳を閉じず、口をつぐんでしっかりとその心ですべてを見届けたまえ。ボクはキミの手で殺されたかったよ、アルベルト。けれどもキミには自らが傷つく勇気と誰かを傷つける覚悟がなかった。引き金を引かないことだって罪になりえるんだよ、なぜならそれは、ほかの誰かに引き金を引かせるということだからね。
悲鳴が聞こえた。
それが他人のものなのか自分のものなのか。
アルベルトには、何度考えてもどうしてもわからなかった。
ロロの姿を見失ったのちの記憶をアルベルトは持っていない。彼の記憶が五感を取りもどしたときにはレースは終わっていて、アルベルトは、レースの優勝者として大勢のひとびとから祝福されていた。――しかしそれは長くはつづかなかった。ある知らせが大勢のひとびとの耳に入って、大勢のひとびとの関心がそちらに移ってしまったからである。その知らせはもちろんアルベルトの耳にも入っていたのだけれど、アルベルトは、それをチームの監督に聞かされる前から知っていたような気がした。
なぜなら、アルベルトはしっかりとその目で見ていたからだった。
ぬれた路面を駆けおりていく小さな背中を。
タイヤがスリップして車体がコントロールを失う瞬間を。
ガードレールの向こうへと、親友の身体が飛んでいく光景を。
その目が自らを、最後まで捉えつづけていたという事実を。
ロロ・バルビエーリが落ちたのは十三メートル下の崖の底だった。当初は意識もしっかりしていたが、病院への搬送中に意識不明となり、その二時間後には、彼の心臓は生まれてはじめてその活動を停止した。そしてもう一度活動を開始することはなく、彼の死亡はまぎれもない事実としてこの世界に認められた。