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Chapter 3 - 「Un caso de Lina Barbieri」

 リナ・バルビエーリにとって、ロロ・バルビエーリに関するもっとも古い記憶はひどくその扱いに困るものだった。それは彼女の記憶の回廊にひっそりと飾られていて、彼女がその印象派を思わせる絵画の前に自ら進んで赴くことはなかったし、彼女としてはもっと自分の好みに合うようなものが代わりに飾られたらと考えることもたびたびあったのだけれど、たとえば友人の口から誰かの悪口を聞いた日の夜や、想いを寄せつつあった同窓生の少年が、階段で転んで泣きだしてしまった下級生の男の子に対して、通りすぎざまにひどい言葉を投げつけたことに気付いてしまったあとの授業中などには、自らの手を引いて、オレンジ色の世界の中で前を向いて歩いているまだ幼いころの兄の姿が描かれているその絵画の前で、彼女はその足を止めないわけにはいかなかった。

 この絵が描かれたのは、おそらく自分が三歳くらいのころであろうとリナは推測している。はっきりしたことは憶えていないけれど、なにか納得のいかぬことがあって家を飛びだして、しかし行くあてなどどこにもなく、ウサギのぬいぐるみを抱えて、公園のベンチの上で途方に暮れていたところに、確か彼がやってきたのである。なにを話したのかは憶えていない。ただ、彼が自分に手を差しだして、帰ろうと、やわらかい声で言ったことだけはリナははっきりと憶えている。

 ロロはいつもそうだったと、リナは自らの回廊を散策しながら振り返る。彼はどこか頼りなくて、なにを考えているのかよくわからない兄ではあったけれど、自分がなにかに困惑していたり、いろいろなことに対してひどく疲れたりしていると、彼はちょうどよい頃合いにリナのところへやってきて、リナにとっては最高に望ましい距離感を保ったうえで、自分が最近読んだ本の話や、最近気付いた人生の取るに足らない秘密などを、まるでひとりごとのように、リナの心がやわらかくなるように、ゆるやかな口調で、一時間でも二時間でも話してくれていた。このロロの厚意はリナにとって決してうれしくないものではなかったし、実際これのおかげでリナは巡礼の旅に出たりしなくてすんだのであるけれど、しかし同時にそれはなんだか腹立たしくて、悔しくて、すなおに受け入れるには、いささか我慢のならないものでもあったのである。それゆえリナはロロに対して感謝の言葉を伝えることはなかったし、彼が自分と同じように日常のいろいろなことに疲れきっていることに気付いても、そうしてあげたいと思う気持ちはあっても、彼が自分にしてくれたことと同じように、ロロの心を軽くしようと声をかけることはなかったのであるけれど、しかしリナはそんな自分が腹立たしかったし、また自分をこんな気持ちにさせるロロのことも腹立たしかった。

 そう、――リナはロロのことが腹立たしかった。リナは自転車に乗っているロロが嫌いだったし、そんな彼の周りにいるひとびとも嫌いだった。リナは自転車も嫌いだった。その理由を彼女は考えたことはなかったけれど、彼女はとにかく自転車やそれに乗っているロロが嫌いだったし、自転車なんかこの世からなくなってしまえばいいとも思っていた。

 だから、ロロが競技を離れて、マドリーの大学に進学するということを両親の口から聞いたときには、リナは、なにかに対してほっとした。自分がなにに対してほっとしたのかリナにはわからなかったけれど、とにかく心がその落ち着きどころを見つけられたのは確かなことであるのだから、これ以上このことについて思いわずらう必要はないとリナは考えた。考えなければ、見えなければ、きっと世界は変わらないと彼女はその無意識下で信じていた。――当時まだ十三歳にもなっていなかった自分に対して、そしてロロの厚意がどれほど自分を助けていたのかまったく気づいていなかった自らに対して、リナは、伝えられるのであれば、たったひとつのことでもいいから伝えたかった。それはとても単純なことで、誰もが知っているようなことで、けれど、そのことを実感するときには、ほとんどすべてのひとが、すでに手遅れになってしまっているようなことだった。


     *  *  *


 当時はまだ義務教育の真っただ中にあったリナにとって、ロロのあまりにも早すぎる引退表明に対する大人たちの反応は不可思議というほかになかった。彼が所属していたチームの関係者などが彼の説得にやってくるのはまだわかるのだけれど、国内だけでなく、ベルギーやフランスのプロチームがどうしてロロに引退表明の撤回を求めるのかということは、リナにはどう考えても理解のできない事柄だった。

「それはおまえがあいつのことを過小評価しすぎてるからだよ」

 リナにこう言ったのはアルベルト・イグレシアスだった。そのときふたりがいたのはロロやリナの新しい家で、それはサン・セバスティアンの郊外にあった。この家はロロやリナの父親がその友人とともに独立したことを機に購入したもので、前のところよりも広くて、前のところよりもきれいではあったけれど、リナはこの家があまり好きではなかった。この当時のリナには嫌いなものがたくさんあって、ロロの唯一無二の親友であるアルベルトもその例外ではなかった。

「あいつにはでっかい才能があるんだよ、なんせこの俺を差し置いてこの国のジュニアチャンピオンになっちまうようなやつだからな」

「あなたもずいぶんと大きな自信を持っているんですね」

 リナは冷ややかな声で言って、膝の上で開いている本のページをめくった。リナはその本を読んでいるわけではなかったし、その注意は常に左はす向かいのソファに座っているアルベルトに向けられていたのであるけれど、こういういささか行儀のよろしくない態度でロロの帰りを待っているアルベルトの話し相手を務めることで、リナは、アルベルトに対して、自分はあなたにこれっぽっちの敬意も抱いていないのだということを、いささかはっきりしすぎるほどはっきりと知らしめていた。アルベルトがこれをどう受け取っていたのかはリナにはいまいち判然としなかったけれど、少なくとも十全にくつろいでいるというふうな感じはラフな服装のアルベルトには見られなかったので、リナはこの作戦を続行することにした。

「まあ、俺に実力があるのは事実だからな」

 アルベルトの口調は誰にとっても当然のことを言うようだった。

「それに自分を信じてやるってのはけっこう大事なことなんだぜ? 自分にはできっこないなんて思ってるやつは結局なにもできないし、こいつには勝てないって思っちまったら絶対そいつには勝てないんだ。前に柔道をやってるやつから『心技体』って言葉を教えてもらったんだけど、これは強い気持ちと日ごろの練習から得られた技術、それに強い身体の三つがそろうことではじめて自分本来の実力が発揮できるっつぅーことらしいんだけど、まさにそのとおりだって俺は思ってるよ。気持ちだけでも技術だけでも身体だけでもダメで、この三つがちゃんとそろうってことが重要なんだ」

「そうなんですか」

 リナは本に目を向けたまま平坦な声で言った。

「じゃあ、あのときはきっとそろってなかったんですね、その三つのうちのなにかが」

「うん? 『あのとき』ってどのときだ?」

 アルベルトの問い方はそれがなんのことであるのかを明らかに理解した上でのものであったので、リナはなんの反応も返さずに、本のページを一枚めくった。

「ところでなに読んでるんだ? さっきから」

「あなたが興味を持たないような本です」

「おいおい、これでも俺は『ソフィーの世界』を読破したことがあるような男なんだぜ?」

「へえ、そうなんですか」

「なんかあからさまに信じてない言い方だな」

 そんなの当たり前だとリナは思わず言ってしまいそうになったが、彼女はそれを態度にも顔にも表すことはなかった。

「よし、いいだろう。そっちがその気ならこっちだって受けて立ってやるぜ。俺がちゃんと『ソフィーの世界』を読んだんだってことを証明してやる」

「いえ、別にそこまでしてもらわなくてもけっこうです」

「おいおい、逃げるなよ。それともなにか、自分の間違いを認めるのが怖いのかい? お嬢ちゃん」

 アルベルトの声はいやらしいくらいに嘲笑を含んでいて、まだまだ自己コントロールの甘かったリナは、その挑発に対する己の反応を抑えることができなかった。「いいでしょう」と言ってパタンと本を閉じたリナは、本を両手とともに膝の上に置いて、いくぶん姿勢を正して、まっすぐにアルベルトを見据えた。

「私も『ソフィーの世界』は読んだことがあります。これから『ソフィーの世界』に関する簡単な質問をします。もしあなたが本当に『ソフィーの世界』を読んだことがあるのなら、簡単に答えられるような質問です」

「答えられれば俺の勝ち、答えられなければそっちの勝ちってことか。――おっと、ついでにこうしようぜ」

 さっそく質問をはじめようとしていたリナを片手を挙げることで制したアルベルトは、自らに不審者を見るような目を向けているリナに自信の絶えない笑みを向けた。

「『負けたほうは勝ったほうの質問に対してなんでもひとつだけ答える』。例外も拒否権もいっさいなし」

 リナはアルベルトの表情からその真意を探ろうとした。しかしアルベルトの顔にはまるでこれから待ちに待ったバスクダービーにいざ向かわんとしているフットボール好きな少年のような笑みが浮かんでいるだけで、彼がなにを企んでいるのかは判断がつかなかった。

 そんなアルベルトの口が動いて言った。

「いやならいいんだぜ? 別に」

 言外に馬鹿にされているような気がして、リナは、自らの口元に冷笑が浮かんでしまうのを止めることはできなかった。

「誰もいやだとは言っていません。――質問をはじめてもいいですか?」


 リナが出した質問は全部で三つあった。最初の質問は『この本で紹介されている哲学者の中で、特に理由も述べられずにその思想の紹介が飛ばされている二十世紀の哲学者は誰か?』というもので、次の質問は『自ら(アルベルト)と同じ名前の登場人物が、主人公に対して最初に紹介した哲学者は誰か?』というもの。そして最後の質問は『この本で最初に引用されているのは誰の言葉か?』というものだったが、この最後の質問をリナが言い終わるや否や、「で? 俺になにが訊きたいんだって?」と、若干開き直り気味に、つけっぱなしになっているテレビに目を向けてからアルベルトが言った。

「…………」

「なんだよ、質問の数を増やしてほしいのか? それともあれか、ちょっと物覚えがいいからって馬鹿にしてんのかコノヤロウ」

 若干やさぐれ気味に言うアルベルトを見ていると少々大人げなかったかと思わないでもなかったが、それでも勝ちは勝ちなのだとリナは思い直して、機会があれば問うてみたいと思っていたことをアルベルトに訊いた。

「どうして勝負をしなかったんですか?」

「頭の悪い俺でもわかるように言ってくれ」

 アルベルトはテレビに目を向けたままだったが、リナはかまわず質問をつづけた。

「これまでのあなたの言動から考えて、あの状況で兄のアシストに専念するというのは不可解です。負担を分け合えばあなたにも充分勝機があったはずの展開だったのに、どうしてあなたはアシストに専念して、兄に勝ちをゆずったんですか?」

「いやいや、あれは別に勝ちをゆずったとかそういうんじゃないし」

 テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばして、アルベルトはそれに軽く口を付けてからつづけて言った。

「だいたい俺たちはチームメイトだったんだ。国内のジュニアチャンピオンっつうタイトルがかかったレースで、先頭では俺たちから十秒差くらいで優勝候補筆頭のファニート君が逃げてたんだぜ? チームメイトと争うよりも、まずはチームとして確実に勝てる選択をするのは当たり前のことだっつぅーの」

「私が聞きたいのは一般論ではありません」

 膝の上の本に一度視線を落として、リナはふたたびアルベルトの横顔に目を向けた。

「私が訊いているのは、自分の実力に過剰なまでの自信を持っていて、兄との勝負に不可思議なほどのこだわりを持っているはずのアルベルト・イグレシアスという人間が、なぜ兄のアシストに専念するという名目で、早々と、兄との真剣勝負の舞台から降りてしまったのかということです」

 室内にはしばらくテレビから聞こえてくる音だけが自由に飛び回っていた。アルベルトが息をついてその音の邪魔に入ったのは、リナが本に視線を落として、その背表紙を軽く指でなぞりはじめたころだった。

「その質問に対する答えは、さっきおまえ自身が自分の口で言ったとおりだよ」

 アルベルトの顔は相変わらずテレビを向いていたが、その目はどこか別のところを見ているようだった。

「あのとき俺にはあいつに勝てる自信がこれっぽっちもなかったんだよ。だからあいつのアシストに回った。あとであいつがファニートを登りでぶっちぎったって聞いたときには、アシストも悪くねえかなって一瞬思ったよ、一瞬な」

 そう言って言葉を切ったアルベルトは、視線をテーブルの上に戻していたコーヒーカップに移して、しばらくそれを見つめてから口を開いた。

「最初は勝つ自信もあったんだよ。体調も良かったし、苦手な登りだって死ぬ気で練習して、なんとかロロにもある程度ならついていけるようになってたんだ。下馬評じゃあオールラウンダーのファニートが優勢って言われてたけど、その対抗にはロロと一緒に俺の名前も挙がってたんだ。実際レースは俺たちを中心に進行して、残り十五キロくらいでうまく集団から抜けだしたファニートがペースを上げると、それについていけたのは俺とロロのふたりだけだった。レースは残り十キロちょい。二キロ先には登りが五キロで下りが二キロの峠があって、それを下りきればあとはゴールまで一キロ程度の平坦区間。確かにおまえの言うとおり、ロロと先頭交代しながらファニートを追えば、あるいは俺にも勝機があったのかもしれない。登りでなんとか食らいついて下り区間に入れれば、いちばん有利なのはファニートでもロロでもなく、スプリンターのこの俺だったのは確かだしな」

 アルベルトは口だけを動かして話していた。口以外の部分はほとんど動かず、その視線は、テーブルの上のコーヒーカップに固定されていた。

「でもそのときふと疑問に思っちまったんだな、――『俺は登りでちゃんとロロについていけるのか?』ってさ。この疑問に対する答えはあらかじめ用意されたみたいに俺の頭の中に広がっていったよ。それは親指くらいに小さくなったロロの後ろ姿だった。思わず笑いだしちまうところだったよ、いや、実際に笑っちまったんじゃないかな、ちょっとくらい。とにかく俺は自分のチキンさと情けなさを目の当たりにして、今日は俺の日じゃないってことをさとったのさ。そんでどこかのお利口さんみたいにチームとしての勝利に徹することで貧弱な自尊心をポケットに隠した俺はレースを終えて、ルーベンスやチームメイトによくやったって言われる権利を騙し取ったってわけなのさ」

 ふたたびテレビの音しか聞こえなくなって、リナはなにかを言わなければならないような気がした。しかしリナが言わなければならないなにかを見つける前に、アルベルトは手に取ったコーヒーカップに口を付けて、それをテーブルに戻すとソファの背もたれに身体を預けた。

「フットボールをもう一回やろうかと掛け値なしに考えたのは、自転車をはじめてからはあのときがはじめてだったかな。少なくともチームメイトに囲まれてるときにはどうすればラ・レアルに戻れるかって考えてたし、最後まで俺を引き留めようとしてたあのコーチは、いまでも俺のことを待ってくれてんのかなとか考えてたのは確かだった。――でもその気が変わったのはロロの顔を見たときだったよ。あいつ、俺がどんな気分でいるのか一発でわかったんだろうな。なんつぅーか、友達が喜ぶと思ってやったのに、その行為が友達を傷つけること以外のなにものでもなかったってことに気付いた瞬間みたいな感じだったよ。あいつは俺が喜んでくれると思ってんだろうな、自分が勝ったことを。確かに俺だってうれしかったさ。でもあいつが求めてたのは混じり気のない喜びみたいなもので、俺の中にあった悔しさやらみじめさやらはあいつにとっては邪魔者でしかなかったんだ。このときほど俺はあいつに勝ちたいと心底思ったことはないね。正直殺してやりたいくらいだったさ。どうしてってあいつは俺に勝った喜びなんてこれっぽっちも感じてなかったんだ。これが腹立たしくなくていったいなんだって言うんだよ。あいつは俺との勝負なんてどうでもよくて、レースの結果なんてどうでもよくて、ただ自分が走って、それを俺たちが喜んでくれればそれでいいとしか思ってなかったんだよ。あいつは勝ちたいとも思わずにレースに出て、そしてそのレースでなにがなんでも勝ちたいと思ってた俺たちに勝っちまったんだよ。おい神様、この不公平はいったいなんなんだ?」

 アルベルトが言葉を切ると、急に部屋の中から音が失われたようにリナは感じた。それなのに自分の呼吸の音ははっきりと聞こえて、胸の拍動もはっきりと聞こえていた。

「あなたは」

 言いかけて、リナは自らの声に思いがけないほどのやわらかさが含まれていることに気付いて、それを取り除いてからもう一度言った。

「あなたは、兄が競技から離れることをどう思っているんですか?」

 アルベルトはコーヒーカップの中身を飲み干して、カップをテーブルに戻して腰を上げるとリナに向かって言った。

「『質問はひとつだけ』って言わなかったか? ――それにタイムオーバーだ」

 アルベルトが廊下へと通じているドアを示すと、そちらからはちょうど帰宅を告げるロロの声が聞こえてきた。

「さっきの話は内緒にしといてくれ」

 廊下へと通じるドアへと向かう前にアルベルトが言った。

「なんだかんだ言っても、あいつが俺の親友であることに変わりはないからさ」

 アルベルトがドアの向こうに消えると、部屋の中には、テレビの音と、膝の上の本を握りしめているリナの姿だけが残った。ドアの向こうからはかすかにふたりの話し声が聞こえてきて、天井を仰いだリナは、いまはとにかく、そのかすかな声たちがどこかとても遠いところへ行ってくれまいかと希わずにはいられなかった。


     *  *  *


 リナがふたたびアルベルトと会話をする機会に出くわしたのは、一度は去った夏がもう一度イベリア半島にもやってきて、空の色を、やわらかい蒼から強い青へとすっかり変えてしまったあとのことだった。

 仲の良い友人たちは家族旅行に出かけてしまっていて、強い日差しの下をひとり出歩くような趣味を誰からも強要されることのなかったリナは、電話が鳴りだしたときには、リビングのソファの上で、ロロの本棚から拝借してきたキェルケゴールの『死に至る病』の第一篇をちょうど読み終えようとしているところであった。それゆえ彼女は電話は鳴るに任せて本を読みつづけるという態度をしばし取っていたのであるけれど、第一篇を読み終えても電話が鳴りやむことはなかったので、リナはため息をついて、指を栞代わりに本に挟んでから、テーブルの上の子機に手を伸ばして通話ボタンを押した。それから冷たい声で「どちら様ですか?」と言った。

『うん? その声はリナか?』

 受話口から聞こえてきたのは若い男の声で、それがアルベルトのものであるとは、リナはすぐには気付かなかった。

『あいつが「夏には帰省する」って言ってたから、そっちにかけてみたってわけなのさ』

「そうなんですか」

 リナは自らの指を挟んでいる本の表紙を見ながら言った。

「残念ですけど、兄はいま出かけています。こちらの大学に、なにか用があるみたいで」

『そっか。まあ急ぎの用でもなかったから別にいいんだけどな。――ところでおまえはなにしてたんだ? また本でも読んでたのか?』

「だったらなんなんですか? なにか文句でもあるんですか?」

 少々癪に障ったので思わずリナが言い返してしまうと、電話の向こうから返ってきた声には、いくぶん楽しげな雰囲気がうかがえた。

『なんだ、図星か』

「用がないのならもう電話を切りますけど」

『まあ待て、落ち着けって。――おまえ「あの話」憶えてるか?』

 いままさに通話を終わらせるためのボタンを押そうとしていたリナは、その行動を保留にして「なんのことですか?」と、ちょっと自分でもどうかと思うようなとぼけた声で言った。

『去年の春ごろの話だよ。おまえの声を聞いたら、ちょうどあれに追加で言っておきたいことがあったのを思いだしたんだ。もう忘れてるんなら別にいいんだけどさ』

「いえ、憶えています。――かすかにですけど」

 リナが若干急いで言うと、しばし沈黙があってから、アルベルトの声が受話口から聞こえてきた。

『いやまあ、別に取り立てて言うようなことでもないんだけどな』

 アルベルトの声はおだやかで、その春の陽射しにも似た声色は、リナにとって、決して心地の悪いものではなかった。

『なんつぅーか、俺もいちおうはプロになってさ、最近になってようやくレースにも出られるようになったわけなんよ』

「それはおめでとうございます」

『そういうのは俺がレースに勝ったときに頼みたいね、もちろんキス付きで』

「そういうのは仕事でやってるひとにでも頼んでください」

 肩でもすくめていたのか、アルベルトからの声は少し遅れてやってきた。

『とにかくまあいろんな連中と走ってみてさ、改めてつくづく思ったのは、ただ単純に楽しかったんだなあってことなんだよな、あいつと走るのはさ』

 指を挟んでいる本の表紙を親指でなでていたリナは、受話口から聞こえてくる声に、なつかしさと、ほんの少しの後悔がひそんでいることに気付いた。

『もちろんあいつに勝ちたいって気持ちはあったし、こいつにだけは絶対に負けたくねえって気持ちもあった。でもそれ以前に、そういう気持ちよりも前にまず面白かったんだよな、おまえの兄貴と走るのは。食っていくために走るレーサーのひとりになって、結果だけが求められるレースに出てみて改めて思ったよ、そして気付いたんだな、勝ちたいだけじゃダメなんだってさ。勝ちたいっていう気持ちだけじゃあ足りないんだよ、それだけじゃあ不充分なんだ。そこには走りたいっていう気持ちが最初になくちゃいけないんだよ。走りたい、ロードバイクに乗ってどこまでも行ってみたい。そういう気持ちが最初にあって、その上に勝ちたいっていう気持ちが乗っかるべきなんだよ。あいつは知ってたんじゃないかって思うよ、このことをさ。だから、――だからいやになっちまったんだろうな、俺たちと走るのが』

「そんなことは」

 思わず素の声が出てしまったリナがどう言い直そうかと思案していると、少し軽快な雰囲気をうかがわせるアルベルトの声が『いんや、間違いないね』と言った。

『あいつはそういうのに敏感なんだよ、いや敏感すぎるって言うべきだね、あれは。知ってるか? あいつ、俺があいつと同じチームに入ったばかりのときは、周囲の目があるとまともに走れないくらいにシャイなやつだったんだぜ? ルーベンスたちはそれがどうしてなのかわかってなかったらしいんだけど、俺にはすぐにピンと来たね、ああ、こいつにとって他人の感情は重力みたいなものなんだろうなってさ』

 リナには、アルベルトの言う意味がなんとなくわかるような気がした。ロロはひとがいやがることは絶対と言っても過言ではないくらいにやらない人間で、同時にそれは、他人の感情に対してひどく鋭敏であるということも意味している。

『あいつは気付いちまってたんだろうな、チームの中には、自分が走るといやな気持ちになるやつがいるってことに。でもチームをやめるなんて言いだしたら、ビクトルやルーベンスたちが悲しむってことにもあいつはちゃんと気付いてた。だから絶対に練習は休まなかったし、ルーベンスたちに対して弱音を吐くこともいっさいなかった。正直すげえやつだって思ったよ、同時に馬鹿なやつだとも思ったけどさ。俺はそういうのが面倒になったっていうのもあってフットボールが嫌いになってたんだけど、あいつは逃げずに立ち向かうことを選んで、結局逃げだしたことは一度もなかった。だから、すげえやつだって思うよ、おまえの兄貴はさ、おまえがどう思ってるのかは知らないけど』

 沈黙が下りて、リナもアルベルトも互いになにも言わない時間がしばらくつづいた。リナは、この静寂が決して自分にとって不快ではないことに気付いて、少し気に食わなくはあったけれども、あえてその感情を追いだすようなことはしなかった。

 やがてアルベルトの声が言った。

『俺はまたあいつと走りたいって思ってるよ、あいつをこっちの世界から追いだしたのはこの俺みたいなもんなんだけどさ。でも、やっぱり自転車に乗ってていちばん楽しかったのは、レースに勝ったときとか、タイムトライアルで記録更新できたときとかそういう瞬間はもちろんうれしかったりもするんだけど、でもいちばん楽しくて、その時間がもっとつづけばいいのにって純粋に思ったのは、馬鹿なことやくだらないことを言いながら、あいつと一緒に走ってたときだけなんだよな』

 その光景を想像するのはリナにはたやすいことだった。ロードバイクに乗って並んで走りながら、アルベルトがなにかおかしなことを言って、それに対して少し困ったように笑うロロの姿は、どこか微笑ましくもあり、リナにとっては、しかしそれは同時に苛立たしくて、唇をかみしめたくなるような光景だった。

『きっと神様だってそう思ってるはずなんだけどな』

「もしそうなら」

 リナは、自らの指を挟んでいる『死に至る病』の表紙を見つめたまま言った。

「もし本当に神様がそう望んでいるのなら、兄にはなにか天罰のようなものが下るのかもしれませんね。神様のご意思に背いているわけですから」

 アルベルトの声は少し遅れてやってきた。

『そういえば、おまえは自転車が嫌いなんだっけ?』

「それがなにか?」

『いや、なんとなくその理由がわかったような気がしてな』

 アルベルトがそんなことを言うのを聞いたリナは、すぐにでもこの電話を切って、またひとり、静かに読書の時間を過ごしたいと思った。しかしそうしなかったのは、つづけてアルベルトが『ロロもきっとそうなんだろうな』と言ったからだった。

「どういう意味ですか?」

『あいつは周りの人間の気持ちにおそろしく敏感だってことだよ。――ついでに言えば、あいつは家族想いでもある』

「まるで私が原因だとでも言いたいみたいですね」

『理由のひとつではあると思ってるよ、最後に背中を押したのは俺だけどな』

「つまり共犯だと?」

 頭に浮かんだ言葉をそのままリナが口にすると、電話の向こうからやってきたのはいくぶん楽しげな雰囲気だった。

『もしそうなら、俺たちにも下るのかもしれないな、天罰ってやつが』

「そんなの冗談じゃありません」

『まったくそのとおりだ、そんなの冗談じゃない』


 確かに冗談ではなかった。――このときの会話を思い返すと、リナはどうしてもそう思わざるをえなかった。神様はロロが休日にだけロードバイクに乗るというのがどうしてもお気に召さなかったようで、ロロが競技から離れるきっかけを与えた自分たちには、なにか罰を与えなければならないと前々から考えていたりしたのであろう。

 そうでなければ――、とリナは思う。

 そうでなければ、自分たちの父親がブレーキの壊れたトラックの前に立たつことなんてなかったはずであるし、父親がその友人とともにはじめた事業が失敗して、テレビなどでしか見たことのないような額の借金が自分たちに残されることもなかったはずである。そしてそれを返済するためにロロが大学を辞めてアメリカのプロチームと契約を結ぶこともなかったはずであるし、アルベルトとともに、地元で行われたあのレースに出場することだってなかったはずなのである。

 あるいは――、とリナは考える。

 あるいは、神様にとって、ロロは書きあやまりのようなものであったのかもしれない。それゆえに神様はロロからその目を離すことができず、またその存在をこの世界に溶け込ませることができなかったのかもしれない。

 そうでなければ。

 そうでなければ、ロロに与えられていた翼とはいったいなんだったと言うのだろう。

 リナは古い絵画の前で立ちどまり、オレンジ色の世界の中にいる、まだ幼いころの兄へとその手を伸ばした。指先に感じるのは渇いた絵の具の冷たさだけで、リナは、叶うことなら、その絵の中に入ってしまいたかった。


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