Chapter 1 - 「Un caso de Víctor Arbos」
ビクトル・アルボスにとって、ロロ・バルビエーリとの出会いは神様からの贈り物にも等しかった。ふたりが出会ったのはスペイン北部のバスク自治州にあるとある峠の途中で、季節は春から夏へと移ろいかけていた。
現役を退いてからはジュニア世代の育成に尽力し、還暦を間近に控えていたこの当時はおもに十代の少年たちが所属するサイクリングチームで監督を務めていたビクトルは、週末に開催されるレースのコースチェックを行うため、彼の郷里であり、チームがその拠点を置いている街でもあるサン・セバスティアンにほど近いその峠を、ひとり車に乗って走っていた。その峠はプロのレースでも使われることがあるもので、日常的に自転車には乗らない成人男性が「自転車で登りきることができるか」と問われたら、そのほとんどが「冗談はよしてくれ」と笑って否定するくらいには険しいものだった。
そんな峠であるから、当時まだ十二歳にもなっていなかったロロ・バルビエーリが峠の途中で座り込んでいるのを見つけたときには、ビクトルは、彼は、なんらかの事件に巻き込まれているんじゃないかと考えずにはいられなかった。車を降りて駆け寄ってみると、ロロは破れた服の上から右腕を押さえていて、膝丈のハーフパンツから伸びている白い足には、おもに右足の外側側面に、ひどい擦り傷がその痛々しい姿をさらしていた。
「君、だいじょうぶかい? なにがあったんだい?」
ビクトルが視線の高さを合わせて声をかけると、まだ声変わりを終えていない少年の声が「こけたんです」とだけ応えた。その声は小さくて、少し泣きそうにもなっていて、気の弱さもうかがえた。
「どうしてこけたんだい? 誰かに追いかけられたりしたのかい?」
ロロを安心させるようにおだやかな声でビクトルが訊ねると、ロロは首を振ってから、坂の下っているほうにその小さな指の先を向けた。ビクトルがその先を追ってみると、そこには競技用ではない自転車が横倒しになっていて、十二、三メートルは離れているビクトルのところからでも、そのタイヤがゆがんでいるのはすぐに見てとることができた。
「あれに乗っていたのかい?」
訊ねると、ロロの首はこくんと縦に動いた。
「どうして、こんなところで自転車に乗っていたんだい?」
重ねてビクトルが訊ねると、ロロは俯いて、その表情を隠してしまった。しばらくビクトルは待ってみたが、ロロからはなにも返ってこない。なにか悪いことをして、それを隠しているのだろうか。ビクトルはそう考えたが、いやそれよりも、まずはこの少年を病院に連れていくほうが先だと考え直して、それを実行することにした。
* * *
簡易な応急処置をロロに施したのち、ビクトルはロロと彼の壊れた自転車を車に乗せて近くの病院へと向かった。その途上でビクトルはいろいろなことをロロに訊いて、彼の名前や年齢や、彼の好きなフットボールチームがビクトルの愛してやまないラ・レアル(レアル・ソシエダの愛称)であることなどを知った。
「なんだ、それなら君と私は家族も同然じゃないか」
ビクトルにとって、ラ・レアルを愛する者は皆兄弟であり、皆家族であった。そして赤と白の縦縞のユニフォームを着ているような連中は、たとえ血のつながりのある親や兄弟であっても、ビクトルにとっては、モンタギュー家にとってのキャピュレット家のような存在であった。
「じゃあアノエタ(ラ・レアルのホーム)に行ったことはあるかい?」
「いえ、ありません」
「それはもったいない、君は人生の半分は損しているぞ」
信号で止まった前の車にならって、ビクトルはブレーキを踏んで車を止めた。
「テレビ観戦もいいが、彼らを愛しているならやはりアノエタに行くべきだ。君のお父さんは、フットボールに興味はないのかい?」
ロロからの返答がないのでビクトルが横目にうかがうと、ロロは俯いて、困っているように見えた。ビクトルは己の失態に気付いて、やや急ぐような形で「まあ、機会ができたらいつか行ってみるといい」と言った。先ほどと変わらない調子を心掛けたつもりだったが、どうやらあまりうまくはいかなかったらしい。どうしたものやらと変わらない信号に目をやりながら考えていたビクトルは、そういえば、彼は自分の職業に少しばかり興味を持っているようだったということを思いだした。
「君は自転車が好きなのかい?」
訊ねると、少し間を置いてからロロの声が聞こえてきた。
「わかりません。でも、自転車に乗るのは楽しいです」
「それを『好き』と言うと思うんだがなあ、私は」
ビクトルは助手席の前にあるグローブボックスを開けて、一冊のパンフレットを取りだした。それは彼が監督を務めるサイクリングチームのもので、ビクトルはそれをロロに差しだして、「私は自信を持って『自転車を愛している』と言えるよ」と、前の車につづいて、車にそれ本来の仕事を与えながら言った。
「うちのチームには君と同い年くらいの子もたくさんいて、中には将来グランツールを走るんだって言っている子もいるんだ。君はロードレースを見たことはあるかい?」
「ありません」
「それは残念。――もしロードレースに興味があって、その怪我の経過もいいようなら、次の日曜の昼過ぎくらいに、さっきの峠に行ってみるといい。君よりも三つ年上の子たちのレースがあって、あの峠を登っていくんだ」
ビクトルは横目にロロの様子をうかがった。彼はパンフレットに目を落としていて、まんざら興味がないわけでもなさそうだった。ビクトルは軽快に走る前の車に目をやって、いまちょうどそれに思いあたったのだというような調子で、ロロが、壊れた自転車を指差したときからずっと訊ねてみたかったことを彼に訊いた。
「もしかして、君はあの峠を登っていたのかい? 後ろの自転車で」
ロロの返答は少し遅れて返ってきて、それはビクトルを少し混乱させるものだった。
「いえ、違います」
「ん? 君は自転車に乗っていたんじゃないのかい?」
「はい、乗っていました」
「じゃあなにをしていたんだい? あんなところで」
「下っていたんです」
そう言ってから、少し慌てるようにロロは付け足した。
「家に帰ろうと思って。――上まで登ったあとに」
* * *
ビクトルがロロの家族と顔を合わせたのは、ロロが自宅の電話番号を看護師に告げて、手当てのために、治療室へと連れてゆかれたあとのことだった。
ロロの両親はともに三十代の前半から半ばくらいのバスク人で、父親は職人のような手を、母親は雪のように白い肌を持っていた。ロロがその顔立ちを色濃く受け継いでいる母親の後ろからは、就学前後と思しき女の子が、――ロロの妹のリナ・バルビエーリが、ビクトルに対して、子供がよくはじめて会った両親の知り合いに対して向けるような、警戒と好奇の入り混じった視線を送っていた。
看護師からビクトルを紹介されたロロの両親は、ビクトルに対して何度も感謝の言葉を述べて、あなたは息子の命の恩人だ、なにかお礼をさせてほしいとまで言いだした。この申し出にビクトルは少しばかり狼狽して、ロロの怪我は命にかかわるようなものではないし、ただの親切心でやったことなので礼には及ばないと告げたのであるけれど、ビクトルは、その自らの言葉にわずかに見え隠れしている感情に、決して裕福とは言えない身なりをしている彼らが、はっきりと気が付いているような気がしてならなかった。
なんとか話題を変えなければと考えていたビクトルだったが、先に話題を変えてくれたのはロロの父親だった。さらにビクトルにとっては好都合なことに、彼が選んだ話題はロロがどういった幼少期を過ごして、どういう経緯で彼が現在のような少年になったのかというものだった。
「あの子が自転車で遠くへ行ってしまうようになってから、もう二年以上になります」
そう言ったロロの父親の声はおだやかで、それと同じくらいに疲れていた。
「幼いころのあの子は病気がちで、本当にちょっとしたことでもすぐに体調を崩していました。そういう体質だったからなのか外で遊ぶことも少なくて、家の中で、絵を描いていたり、絵本を読んでいたりすることのほうが多い子でした」
ロロの父親が語るロロの姿は、ビクトルが思い描いていたロロの輪郭と一卵性の双子くらいには似ていた。おとなしくて引っ込み思案で、外で友達と遊んでいるよりも、家の中で、ひとりで過ごしていることのほうが多い少年。――しかし遺伝子レベルでは瓜ふたつであっても、外的な要因が加わればそこには齟齬が生じてくる。
「失礼、いまなんとおっしゃったのかな?」
ビクトルが訊ねると、言葉を遮られる形になったロロの父親は首をかしげた。
「『とにかくものを欲しがらない子で』と言ったのですが……」
「いえ、その前です。――私の聞き間違いでなければ、『あの子は私がフットボールを見に行かないかと誘っても興味がないと言うばかりで』と、あなたは言ったように思うのですが?」
「はい、私は確かにそう言いましたが、それがなにか……?」
ロロの父親は、本当になにがおかしいのかわからないという表情を浮かべていた。
「いえ、ただの確認ですよ」
ビクトルは、自らの思い描くロロという少年の輪郭をわずかに修正した。それからロロの父親に対して、自分がもっとも気になっていたことを質問した。
「彼が自転車で遠くへ行ってしまうようになったのは、どういうわけなんです?」
結論から言えば、ロロの父親はその答えを知らなかった。――それは当然のことだろうとビクトルは思った。なぜなら、彼は自らの息子の姿を正確に捉えることができていないのである。それなのにロロの行動の意味を理解できていたとしたら、それは日本語で発せられた言葉にスペイン語で応えたら、偶然にも会話が成立したようなものであろう。
ロロの父親の誤りは、いまでもロロを『子供』として見ていることである。
この二十年あまりで二百人以上の少年たちを見てきたビクトルが、その経験から学び得たことは『大人が思っている以上に彼らは大人で、彼らが思っている以上に彼らは子供である』ということだった。ロロもまた周りが思っている以上に彼は大人で、彼自身が思っている以上に彼は子供なのであろう。
ビクトルは、このことをどうにかして彼らに実感してほしかった。そして考えぬいた末に、その実、ロロが競技用ではない自転車であの峠を登っていたということを知って以来、その頭の片隅に芽生えはじめていた計画を、彼は実行に移すことにした。――ビクトルの考えによれば、それはロロを、彼の家族を、そしてこの自分をも、必ず幸せにしてくれるはずのものだった。
* * *
ビクトルがふたたびロロと顔を合わせたのは、幸運にもロロの怪我が身体の表面のみにとどまっていることが判明して、彼の両親ともども、ビクトルがほっとその胸をなでおろしたときから一ヵ月以上が過ぎたあとのことだった。日曜に行われたレースの会場にロロがその姿を見せることはなく、ビクトルは、むしろ彼が、自分の思っているとおりの少年であることを改めて実感した。
ほかのチームスタッフとともにレース会場で教え子たちの奮闘を見守ったビクトルは、その翌週の日曜日には、別れる前に聞いていた住所を頼りに、ロロたちの住む五階建てのアパートの前に降り立っていた。エレベーターのないそのアパートの最上階を目指してすっかり衰えてしまった身体に鞭打ちながら階段を登っていたビクトルは、三階と四階の間の踊り場で、ロロの妹のリナと、彼女と同い年くらいの女の子に出会った。
「やあ、こんにちは」
ビクトルが声をかけると、ふたりは顔を見合わせた。それからすぐに彼女たちはビクトルのわきをすり抜けて、ビクトルが苦労して離れたばかりの階下へと降りていってしまった。ビクトルはふたりの小さな後ろ姿をしばし見送って、苦笑してから次の階段に足をかけた。
事前に来訪を伝えていたことも関係しているのか、ロロの両親は、これから中心街のレストランにでも出かけるのではないかという出で立ちでビクトルを出迎えた。それが彼らに似合っていないというわけではなく、むしろ、これこそが彼らが本来身に着けているべき衣服であるようにもビクトルは感じたが、しかし、彼らの装いが、かえってビクトルの視界を埋める空間を、よりいっそうみすぼらしいものにしてしまっていたのは皮肉な話であった。
キッチンとひとつの部屋を共有しているリビングに通されたビクトルは、テーブルの向こうに座ったロロの両親から、ロロは自分たちがなにかを言う前に、図書館へ出かけてしまったということを告げられた。それはビクトルにとって好都合なことだった。ビクトルが彼らに頼んでいたのは、自分がそちらにうかがうときには、ロロにはなにか用事を与えて、外出させていてくれないかというものだったのであるから。
「それで、私たちに話というのは、なんなのでしょうか?」
世間話に小さな花が咲いて、それが枯れはじめる様子を見せたところでロロの父親が言った。ロロの気弱な性格はこの父親から受け継いでしまったのだろうと頭の片隅で思ったビクトルは、目の前のふたりに一冊ずつ、ロロにも見せたことのあるサイクリングチームのパンフレットを差しだした。
「この前も少しお話したように、私はその少年たちのためのサイクリングチームで、もう十年以上子供たちの指導をしています」
ビクトルは、意識的にゆったりとした口調で語りだした。
「チームには毎年いろいろな子供たちが集まってきます。彼らの多くはプロのレーサーを目指していて、練習にはいつも一生懸命に取り組んでいます。私が指導をした中には実際にプロのレーサーになれた子たちもいて、新聞やテレビを通して彼らの活躍を知るのは、本当に喜ばしい限りです。もちろんプロになれたのはほんの数人だけで、ほとんどの子供たちはその夢をあきらめて、別の道に進むことを選択しました。彼らを分けたのは、やはり才能の有無であったと私は正直に言わなければなりません」
言葉を区切って、ビクトルはふたりの視線が自らに向けられるのを待った。パンフレットから自らに移ったふたりの双眸は、ビクトルには、不安を感じながらも、紙芝居のつづきを待っている子供の瞳のように見えた。
「あなたたちの息子であるロロには、その才能があると私は感じています」
落ち着いていて、しかし力強さを感じさせる声でビクトルは言った。
「私が彼を見つけた峠は、プロのレースでも使われることのある険しい峠です。あの峠を自転車で登ることは、母親であるあなたはもちろんのこと、父親であるあなたでもむつかしいことでしょう。いまの私には当然無理ですし、――そして私の教え子で、彼よりもひとつやふたつ年上の少年たちでも、競技用ではない自転車では、あの峠を一度も自転車から降りずに登りきるということはできないでしょう」
やや興奮してきた口調を抑えるために、ビクトルはロロの母親が用意していたコーヒーに口を付けた。苦みの中に確かな品を感じさせるそれにビクトルは感心して、思わずどこの豆かと訊ねそうになったが、いまはそれどころではないと自らを戒めて、ビクトルは話をつづけた。
「彼があの峠を登っているところを実際に見たわけではありません。私は彼が『登った』と言ったのを聞いただけで、そしてそれを信じているだけです。しかし私は彼と出会った瞬間から、彼には神様がなにかを与えているのだろうと感じていました。年寄りの耄碌と言われればそれまでですが、私には、彼があの峠を登っている姿をありありと、はっきりと思い浮かべることができるのです」
ビクトルは言葉を切って、ロロの両親とそれぞれに目を合わせた。
「私が今日こちらを訪ねたのはこの提案をするためです、――彼を、あなたたちの息子であるロロを、私に、われわれに預けてはみませんか? 彼には才能があって、われわれにはそれを開花させるメソッドがあります。彼をこのままにしておくのはよくないということは、あなた方も感じていることでしょう。いつまたこの前のような事故に遭って、その身を危険にさらしてしまうかわかりません。そのような事故を防ぐためにも、彼には専門的な指導を受けさせる必要があります。それにわれわれのところには、さまざまな性格を持った子供たちがいます。その中には、きっとロロと波長の合う子もいることでしょう。ひとりでいることがすべて悪いというわけではありませんが、ひとりでいすぎることは決してよいことではありません」
「でも……」
ビクトルが目を向けると、ロロの母親は控えめな声で言った。
「あなたもご理解していらっしゃると思いますが、私たちの家には、その、あまり余裕が……」
「その心配は不要です」
ビクトルははっきりと言いきった。ビクトルにとって、それはひそかに待望していたと申しても決して過言にはならない反論だった。
「費用はすべて私が負担します。自転車もこちらで用意しますし、メンテナンスも専門の者が定期的に行うようになっています。彼がレースに出るようになって、遠征などをするようになった場合の費用もこちらで負担します。どうしてそこまでと思うかもしれませんが、私にとってこれは当然の選択です。彼には翼があって、私は彼に、その翼で自由に飛ぶことのできる空を与えたいのです。私がこれまでに私財を投じてでもその未来に太陽を与えたいと思った子供は過去にも何人かはいますが、その中でも、ロロに感じる才能は飛びぬけているように思います。彼が自らの才能を自覚して、いまのうちから専門的な指導を受けつづけていれば、彼の将来はきっと、――いえ間違いなく、誰のものにもまして輝かしいものになっていることでしょう」
ロロの両親は困惑しているようだった。無理もないとビクトルは思いながら、最後に伝えるべき言葉を彼らに告げた。
「もし彼にやる気があるようでしたら、私のところに連絡してください。連絡はいつでもかまいませんし、この老いぼれた身体が持つ間は待ちつづけるつもりです。それと、この話は、彼にはあなた方から伝えてください。私から伝えるよりも、きっとそのほうが良い結果になると思いますから」
ビクトルのところにロロの父親から連絡があったのは、ビクトルが車に積んでいたジュニア用のロードバイクをロロの両親に預けて家路についたときから、二週間と半分が過ぎたころのことだった。その次の日曜にビクトルはロロと待ち合わせて、実際に彼が例の峠を登りきるところを目の当たりにして、ビクトルは、自らの直感が正しかったことを、震えを伴う喜びの中で実感した。
このときからさらに一ヵ月ののち、季節がすっかり夏になって春の気配がどこかへ引っ越してしまったころになると、ビクトルと、彼の同僚であり、おもにローティーンの少年たちを中心に指導しているルーベンス・カリオンが立ち会う前で、ロロの入団テストが行われた。このときロロとはじめて顔を合わせたルーベンスは、本当に彼が入団テストを受けるのかと、同僚の頭の調子を疑っているような口調でビクトルに訊ねた。
「もちろんさ」
自信満々にそう応じたビクトルは、青と白のヘルメットをその頭に着けて、青いサイクリングジャージでその華奢な身体を包んでいるひとりの少年を見ながら、自らが感じているままの想いに音色を与えた。
「彼の走りを見たら、君もきっと気付くことになるだろう。――彼が、その背中に大きな翼を持った少年であるということにね」