第一章④
グラス・ベル・キャブズの緋縅エリコはその日、家出娘のミサコを後ろに乗せて一日中空を飛んでいた。ミサコはまだ九歳だった。神社の鳥居の前で泣くミサコを空から見つけたエリコは、彼女に声を掛けた。話を聞くとママに怒られて家を飛び出して来たらしい。エリコはミサコを慰めながら飛んだ。日が落ちる頃、ミサコは帰りたいと言った。ミサコを家に送り届けると母親は泣いて感謝の言葉を繰り返し言った。エリコはミサコの頭を撫でて、柔らかい頬を優しく抓って、手を振って、箒に跨って空高く飛んだ。その時カラスは鳴いた。
ああ、もう、帰らなきゃ……。
エリコの鞄の中のお金は熊谷の営業所を出てから増えていない。ミサコしか後ろに乗せて飛んでいないのだから当たり前だ。ああ、また所長に嫌味を言われるな、と思いながらも、エリコの気分は悪くない。
「あははっ」
なんだか分からないけれど可笑しくなって、笑いながらオレンジ色の空中をロール。
エリコのほんのりと赤い髪とワンピースの裾がはためく。
グラス・ベル・キャブズの制服はいたってシンプル。萌黄色のワンピースの上に灰色のミリタリィ・ジャケット。そして萌黄色のベルの付いたチョーカ。揺らすとちゃんと凛と鳴る。
エリコはさらに空高く飛ぶ。
ミサコの家は熊谷の営業所から北に離れた場所にあった。県境を超えてエリコは群馬まで来ていた。あまり見慣れない土地だ。距離的にはきっとこの空の方が近いに違いないが、エリコは東京の空の方が見慣れていた。東京に急ぐ男の人は多いけれど、群馬に急ぐ男の人は多くない。
エリコは営業所のまで方角を確認すると高度を下げた。空が暗くなって寂しくなったのと、日が落ちて急に気温が下がり始めたからだ。エリコはくしゃみをした。周りに女の子がいないから思いっきりくしゃみをした。寒い。外灯の明かりが近い民家の屋根の高さまで降りた。ミサコの家で薄い毛布を借りればよかったと思った。
少し飛ぶと前方に背の高いビルが見えた。『新田ホテル』というネオンが光っている。丁度いいと思った。何か着る物を貸してもらおうと思った。最低タオルでも首に巻きたかった。熊谷の春の夜は寒いのだ。エリコはホテルの正面玄関の前に降り立った。見上げると立派なホテルだ。快く何かを貸してくれそうな余裕を感じる。一歩入り口に近づいた。その時だった。
女の子が飛び出してきた。
とても慌てている。怨霊か何かから逃げているみたい。可笑しい。とても不細工な表情だ。その女の子はエリコの左側を一度通り過ぎて右側から再びエリコの前に姿を見せた。
「キャブズ!?」女の子は目を大きくしてエリコの手を掴んで言った。
「う、うん、」エリコは戸惑いながらも頷いた。女の子は近くで見ると、可愛かった。髪は黒く、セミロング。女の子にモテるタイプの女の子だと思った。男の子には役に立たない魅力を目の前の彼女は多く持っている。例えばビニル製のワンピースを着ているところとか。「キャブズよ、このベルがキャブズの証」
エリコはグラス・ベルを凛と鳴らし営業スマイルを作って悠長に言う。「グラス・ベルの緋縅エリコ、この世の果てまででも連れて行ってあげる」
「ああ、よかった、」女の子は息を吐いた。そしてホテルの入り口とは反対の方向へエリコを早足で引っ張って行く。
「え、ちょっと、何々、強引じゃない? でも嫌いじゃないわ、そういうの、むしろ好き」
少し走って植木の陰に女の子とエリコは隠れた。どうして隠れる必要があるのか、エリコはこの状況を全く呑み込めないでいたが、なんだか愉快。
「あの、とにかく、乗せて、どこか遠くに飛んで、お願い」女の子は手の平を合わせながらホテルの入り口の方を窺っている。
「……え、何、もしかして、あなた、誰かに追われているの?」エリコは女の子に顔を近づけて声を潜めて聞く。「そういう胸躍るシチュエーションなわけ?」
「うん、私もよく分かんないんだけど、とにかく逃げなきゃヤバい気がするの」
「お金は?」エリコは女の子の手を握り返して聞く。
「え?」女の子はキャブズの料金のことなんて全く頭になかったようだ。「あ、お金ない、ないんだけど、駄目?」
「駄目じゃないよ」エリコは微笑んだ。
「素敵、」女の子は笑顔になった。「友達だと思っていい?」
「友達?」エリコは首を傾けて女の子の顔を間近で見た。「友達ってどういうこと?」
「あ、ごめん、別に深い意味はなくて、」女の子は顔を離すことなく俯く。「優しくしてくれたから、嬉しくなっちゃって」
「いいよ、」エリコは短く発声した。「友達だと思っていいよ、まず、友達からね、うん」
「嬉しい、」女の子は顔を明るくしてエリコの手を強く握った。「一緒に逃げてくれる?」
「ええ、もちろんよ、」エリコは握り返す。「エリコよ」
「徳富スナオ」徳富は顔を綻ばせた。とても愛らしい顔。
エリコは我慢できなくて徳富の唇に短くキスした。
「……へ?」徳富は困惑していた。「今、何したの?」
「お金を貰ったのよ」エリコはつまらない冗談を言う。
「え?」徳富は首を傾けて笑った。「全く意味が分からないんだけど」
「さあ、乗って、」エリコは箒に跨った。「ちゃんと腰を抱くんだよ、スナオ」
徳富は何かを一生懸命考えながらエリコの後ろで箒に跨って、腰を抱いた。徳富の体は暖かかった。心臓も鳴っている。エリコはその反応が嬉しい。「じゃあ、飛ぶよ」
徳富が頷いたのが背中で分かる。エリコは飛んだ。徳富はギュウと抱いてくれる。暖かい。キャブズを利用したことがあまりないのだろう。緊張が伝わってくる。エリコは後ろを振り返った。気配を感じたのだ。紫の魔女と青の魔女の姿が見えた。箒に跨って追ってきている。焦りはしなかった。
「あの二人に狙われているの?」エリコは悠長に聞く。
徳富は薄目を開けて振り返って確認した。「……そうみたい、逃げて、早く、エリコ」
「大丈夫よ、慌てなくて」
「本当?」
「私を誰だと思っているの?」エリコは赤い髪を風に揺らしながら上機嫌だった。「グラス・ベルのエリコなんだから」
その時、二人の魔女の魔法を感じた。
エリコはロールして、水と雷を避ける。
「きゃあ!」徳富は短い悲鳴を上げた。
「あははっ、そんな魔法じゃ、私は落とせないわよ、」エリコは高度を上げる。わざと速度を落とす。そして状況を楽しんでいた。「遅い、遅い、遅い!」
徳富は必死に振り落とされないようにしがみついている。「エエ、エリコぉ」
「何?」
「……回転しないでぇ、」徳富は弱々しく訴える。「目が回るよぉ」
「加速するわよ、」エリコは前方に体重を掛けた。「しっかり掴まってて!」
徳富はさらにギュウとエリコの腰を抱いた。
エリコは何も複雑なことは考えない。
前に飛ぶことを考えているだけだ。
それで、それだけで、私は音速を超えられる。
ほら。
今。
空気の壁を貫いた。
二人の魔女は遥か後方。
魔法を編めなくたって。
スーパ・ソニックを編まなくたって。
音速は超えられる。
事実、私は超えたんだ。
私はグラス・ベルのエリコ。
グラス・ベルの色は萌黄色。
萌黄色は雑草の色。