第一章③
阿倍野、千場、それから結局徳富も、その日の夜に大坂駅に集合した。徳富は色の多い服から艶のある白いビニル製のようなワンピースを着替えていた。そのワンピースは初めて見るものだった。伊勢丹で購入したのだろうか。その白いワンピースは伊勢丹特有の流行の的を外したデザインだ。どことなく近未来的。そのデザインの評価が決まるのはきっと五年後くらいだろう。
そんな派手なワンピースと対照的に千場は灰色の和服姿だった。いつもの彼の正装だ。阿倍野はというと黒いスーツのままだった。くたびれたスーツ。洗濯をし過ぎて皺の多いシャツ。これが一番着心地がいい。
三人は千場の金で夜行列車に乗る。夜行列車の中で徳富はとても静かだった。その静けさは異常なくらいだった。千場は横になって二秒も経たないうちに寝た。阿倍野はなかなか寝付けなかった。魔法のことを考えると、眼が冴えてしまう。下の寝床で静かに寝返りを繰り返している徳富に阿倍野は声を掛けた。徳富は返事をしなかった。もう寝たのかと思って暗い天井を見ているといつの間にか徳富が立ち上がり、阿倍野のシャツの袖を掴んだ。阿倍野はビクッと驚いた。「どうした?」
「……気持ち悪い」徳富は涙目で訴えてきた。徳富の介抱で阿倍野はその夜、ほとんど寝ることが出来なかった。早朝、徳富はケロッとしていた。列車の揺れを理解したらしい。千場は横で平和に寝息を立てていた。阿倍野はいつもこんな調子だなと思った。それ以外に何も思わなかった。
さて、新田製作所のある群馬県の由良郷という土地に着いた頃、すでに太陽は沈みかけていた。駅の前で三人は、とりあえず今夜の宿を探すことにした。駅から新田製作所へは広い道が真っ直ぐに伸びていた。その両脇に並ぶ建物の看板に、宿を示すものが何枚か見える。人通りは少なかった。梅田の十分の一の人の量。豪華で清潔そうなホテルの前でようやく徳富は首を縦に振る。八階建てのビルディング。この土地で一番背の高い建物だ。看板には新田ホテル。字はオレンジ色のネオン。
徳富を先頭にして三人はホテルの中央玄関を潜った。ホテルのロビィはとても明るかった。白く発光するシャンデリア。その光を反射する大理石の床。シャンデリアをよく観察してみるとどうやら真空管を模したものらしい。いや、本物の真空管かもしれない。
「うわぁ、」徳富は瞳をキラキラさせて言った。体は弾んでいる。靴底が床を叩いて音が鳴っている。「とっても高そうなホテル、お金は大丈夫?」
その折り、ロビィの奥の方からシルバの長い髪の、思わず息を飲むほど、素敵な女性が阿倍野たちに近づいてきた。背は高くないがスタイルがよく、細身のストライプスーツがそれを際立たせている。胸元に名札が見える。ここの従業員のようだ。目元は涼やかで、いつまでも見ていても飽きない顔だ。彼女の接近とともに心臓が高鳴る。こんな気持ちになるのは久しぶりだと阿倍野は思った。千場は小さく口笛を鳴らして阿倍野を見て「おいおい」と呟いた。徳富は自分よりも素敵な彼女を見て警戒している。近い位置にあった阿倍野の手を掴んでから、遠い位置にあった千場の手を掴んだ。
阿倍野と千場は同時に徳富の手を振り払って近づいてくる彼女の前に進み出た。
「ええ、ちょっと!?」徳富は不平不満を声にした。
「ご予約の方は?」
阿倍野は彼女の名札の文字の並びを目だけ動かして確認した。美作。作られた美しさ。さらに接近して分かる。美しさは完璧だった。メタリック・シルバの髪の色はつまり、彼女が鋼の魔女であることを示している。冷徹な色の瞳も素晴らしい。
「いや、してないんだけど、三人、部屋は空いている?」千場が前のめりに言う。髪の匂いを嗅ぐことの出来るくらいまでに近づいている。美作はそれでも後ろに引こうとはしなかった。余裕を感じさせる佇まい。一般的にこういう女性に男は弱いのではないのだろうかと推測する。
「はい、」美作は首を傾けて微笑みを作る。「こちらへ」
美作はフロントのカウンタまで歩く。千場と阿倍野はその後ろ姿を観察しながら続く。ヒップの形がいい。徳富はなぜか後ろで唸っている。
「何泊のご利用でしょうか?」カウンタの向こう側に移動し、ペンを持った美作が笑顔で聞く。カウンタの奥の方に、何人か仕事をしている人間がいるようだ。
「えーっとね」
受付は千場がした。千場は見栄を張ってスイートルームが空いているか確認した。見事に空いていた。素晴らしい宿泊料金だったが、千場は迷うことなくサインする。美作は少し目の色を変えた。金など持っていなさそうな三人組がスイートルームに泊まることを不審に思ったようだった。しかし千場が先に宿泊料金を現金で支払うと美作は阿倍野たちに興味を持ったらしい。子供らしい表情をして、もしかしたら美作は阿倍野たちよりも年下なのかもしれない、質問してきた。「こちらへはご旅行ですか?」
「この辺、何か見るものとかあるの?」
「いいえ、何もありません、」美作は苦笑する。「本当に何もないんです、新田製作所の真空管工場くらいです、見て愉快になるものは、工場が出来た頃は観光客で毎日が忙しかったんですけれど、今ではもう、こんな感じなんです」
「そうそう、俺たちは新田製作所に用があって来たんだよ、大坂から」
「大坂ですか? 遠いところから、でも、言葉がその、普通ですね」
「俺は長い間長崎にいて様々な言語に接していたし、」千場は饒舌に話す。「こいつは静岡、後ろのあいつは千葉出身だから、言葉といえば君だって普通じゃないか」
「ええ、気をつけていますから、」美作は口元に手を当てる。「普段はもっと訛っています」
「普段通りにしゃべってみて」
「え?」美作は困っているが、つまらなそうではなかった。「変なことをおっしゃいますね? 申し訳ありませんがお断りさせていただきます、その、恥ずかしがり屋なので」
「いいね」千場は顎を触りながら美作を観察している。きっと髪の色を見ている。
「あの、あなたは魔女ですよね?」阿倍野は質問した。当然、会話をしたかったからだ。阿倍野は美作の目を見ている。
「ええ、はい、」美作はシルバの髪を触った。「一応、鋼の魔女です、」美作は困ったように微笑む。「それが、何か?」
「いいえ、いい目の色だと思って、凄くナチュラルな感じがして」
「お上手、」美作の反応は悪くない。「今まで何人の魔女の目の色を褒めてきたんですか?」
「なんのことです?」魔女は目の色を褒められるのが好きだ。その事実を阿倍野は知っていたが、とぼける。
「そうなんだよ、こいつはまず目の色から褒めるんだよ、それが手なんだ」
「……お前は髪の色を褒めるよな」魔女は髪の色を褒められるのが好きだ。
「そう、」千場は美作の髪の色を観察する。「とてもいい色だ」
「……ふふっ、あははっ、」突然、美作は吹き出した。口を手で押さえながら言う。「ごめんなさい、その、お連れ様が」
『え?』阿倍野と千場は同時に徳富の方を見た。
「……なんだよ、早くしろよ、もうっ」徳富は腕を組んで、酷く不機嫌な顔を膨らましている。とても面白い顔だ。
二人は同時に美作の方に向き直った。
「あいつのことは気にしないでいいから、なんだろうな、壺みたいなもんだから」
「誰が壺だって!?」徳富は高い声で怒鳴った。
「ああ、そうだ、真空管じゃない、真倥管って、知っています?」阿倍野は聞く。
「……真空管じゃない。真空管?」美作は瞬きを一度して、二十度くらい首を傾けた。「……それは言葉遊びかなにか、ですか?」
「違います、細かいことはまだ知らないんですけど、誰でも魔法が簡単に編めるようになる『真倥管』っていう装置があるらしくて、新田製作所に、ええ、ですから、何か知っていたら教えて頂けたら」
「……ああ、なるほど、……なるほど、そうですか、そっちの真倥管を探しにいらしたんですね、」美作は一度目を伏せてから、笑みを作って、そして大げさに頷きながら言う。「なるほど、なるほど、そうだったんですね、早くおっしゃってくれればよかったのに」
「知っているんですね?」阿倍野は前のめりに聞く。
「はい、よく存じております、あの、少しお待ちください、少しだけ」
そう言うと美作はカウンタの奥に消えた。阿倍野は千場の顔を見た。
「型録か何か、見せてくれるのかな? それとも、あるのかな?」
阿倍野はそうかもしれないと思った。真倥管はこの街では比較的メジャーなもので、普通の真空管のように店に並んでいるものなのかもしれない。「随分簡単に手に入りそうだな、なんていうか、楽しいな」
「私は全然楽しくないっ、」徳富は二人の間に身を滑らせて腕を絡ませた。「なぁにっ、二人とも、美人にデレデレしちゃってさ」
「拗ねてんの?」千場が徳富の腕を解きながら言う。
「ちげーし!」徳富は口を尖らせたその時。
『……午後六時のニュースです』今まで優しいバイオリンを奏でていた、カウンタに置かれたラジオがそう囁いた。阿倍野の意識は自然とニュースに向く。しかし、途端にラジオのスピーカから流れる音は乱れた。ノイズ。すぐにラジオは新たなチャンネルを拾う。自動的に、である。魔法の力が働いているらしい。しかし、チャンネルはまた変わった。滑らかな音を拾っては、乱れる。それは二秒間隔だ。二秒間隔で繰り返される。なんだ?
「……え、なぁに?」徳富はいつまでもチャンネルを探しているラジオを睨んだ。
「故障?」千場が言って、そのラジオに近づき触ろうとした。「それとも絡まった?」
「ちょ、勝手に、駄目だよ」徳富は真面目に忠告した。
「見るだけだ」千場がそう返して触ろうとしたその時。
ラジオは新たなチャンネルを拾う。
一時の静寂。
そして聞こえる。『……クラクション、レディ?』
ラジオから聞こえた声は水面に映る月のように鮮明で曖昧。
不思議な声。少女の声。……声なのか?
震わせるのではなく。沁みて、伝わる声。
阿倍野の分析は、中途半端に終了する。その声の記憶も消去される。
声の終わり。一秒後。瞬間。
リリリリリリッ。
警報が鳴り響く。鳴り響く音に思わず耳を塞ぐ、巨大な音。逃げ出したくなる音。間違いなく警報。厳戒態勢を告げる音。それは鳴り響いて、止まない。とても長い時間。この状態は感覚的に海に飲み込まれたような閉塞感。呼吸が苦しいと感じる。
阿倍野の思考は停止する。
徳富も、千場も、同じ反応。目を大きくして、動けないでいる。立ち尽くしている。
阿倍野は瞬きを意識してする。脳ミソが低速でやっと、回転し始める。
一体、なんだ?
千場と、徳富と目を合わせた。周囲を見回す。他に誰もいない。
フロントの奥を覗き込む。暗い。美作は何をしているのだろう?
阿倍野たちは互いに口を動かした。
しかし、警報にかき消されて、何も聞こえない。
果たして自分が言葉を発しているのかさえ、ハッキリしない。
耳の奥が痛いと気付く。頭、体が重い。水の中で動いているようだ。
徳富は両耳を押さえて、座り込んだ。
千場は片目を閉じてラジオを持ち上げて、床に思いっきり叩きつけた。その行動を見て、ああ、この訳の分からない警報はラジオから流れているのだなと理解することが出来た。
千場は首を振って、床に転がったラジオを持ち上げた。
ラジオは形を変えていない。傷もついていない。ラジオの色は銀。鈍い色。鋼鉄製だろう。警報は鳴り止まない。チャンネルも変えられない。
思考が回らなくなる。
警報のせいだ。
それは分かる。でもなぜ?
ただの音だろ?
ああ、ただの音じゃないんだ。
足が痺れてくる。しかし歩くことは、まだ出来る。歩いて、千場に近づく。千場は汗を搔いていた。阿倍野も同じだった。徳富は床に座り込んでしまって動かない。
千場は口だけで笑って、懐からピストルを取り出した。千場がいつも持っているピストル。不思議な力を持つピストル。ピストルはピストルだから、ラジオを壊すことくらいは出来るはずだ。千場は躊躇うことなく引き金を引く。
銃声は聞こえない。最初から警報に飲まれている。
火薬は破裂した。紅い色は確かに見えた。銃弾は至近距離にあるラジオに激突する。
驚くことに、驚いたという反応は出来なかったが、ラジオは無傷だった。床に転がる銃弾はプレスされたように変形している。このラジオを守る鋼鉄はかなり固い。千場はラジオを壁に向かって投げた。壁に当たってもラジオに変化はない。警報は鳴り続ける。
千場は青い顔をしていた。
阿倍野は脚の痙攣を堪えきれずに、倒れ込んだ。かろうじて仰向けに。
その時、気付く。
天井にあるシャンデリアの方から、体中の自由を奪う、絡みつくような、重量のあるものを感じた。阿倍野の心臓が感じた。真空管を模したシャンデリアから感じる。
もしかしたらシャンデリアは、真倥管、かもしれないと思った。
阿倍野は痺れた腕に力を入れた。千場の目に目を合わせ、シャンデリアの方を指差す。
千場は頷く。そして引き金を引く。銃弾がシャンデリアの中心部に向かう。
シャンデリアは炸裂。落ちてくる。
阿倍野は咄嗟に回転して避ける。
シャンデリアは大理石の床に落ちて割れて激しい音を立てて粉々になった。
ロビィは薄暗くなる。
周囲の壁に供え付けられているオレンジ色の明かりだけが頼り。
そして警報の音が限りなくゼロになる。
ラジオはまだ小さな警報を鳴らしている。
その音は小さく、力も小さいようだ。
どうやらシャンデリアが増幅させていたらしい。その音を。
阿倍野はなんとか立ち上がることが出来た。まだ僅かに筋肉が痙攣している。両手で頭を覆っている徳富に聞く。「……大丈夫か?」
「……もう、なんなの、耳がキーンってする、気持ち悪い、」徳富はスカートの裾を押さえながら座ったまま声を上げる。涙目だ。阿倍野は手を伸ばした。徳富は阿倍野の手を掴んで立ち上がる。しかし、すぐに膝から崩れてしまう。徳富は阿倍野を見上げて両手を開いて微笑んだ。「……阿倍野君、だっこ」
「……少し休んでろ」阿倍野は言って、徳富から離れた。
「……えぇ、そんなぁ」徳富は力のない声を出した。
「よく出来てんなぁ、」千場はラジオを手にして興味深そうに眺めていた。「とても硬い、とても緻密な鋼の魔法が編み込まれているんだろうか、魔弾を弾くなんて、相当だ」
「千場、なんなんだ、その、ラジオ?」
「普通のラジオだよ、普通のラジオをメタリックでコーティングしているんだ、それよりも、このラジオから流れる魔法の方が問題だ」
「魔法なのか、やっぱり、その警報が」警報はまだ続いていた。
「魔法だろうな、よく知らないけど、クラクションって、声がしたな、クラクションっていう魔法なのかもしれない、音で動きを止めるみたいだ、俺たちの動きを止めようとしたんだな、動きを止めて、……つまり、……一体どういうことだ、この状況はなんだ?」
阿倍野は無言で首を振った。千場は床にヘタリ込んでいる徳富を見る。徳富は首を傾けてから、四つん這いで二人に近づいてくる。「……え、なぁに、ごめん、話聞いてなかった」
そのタイミングで、ラジオからの警報が鳴り止んだ。
リンっ……。
余韻を残して。
阿倍野と千場は顔を見合す。
徳富は二人の手を掴んで立ち上がって言った。「あれま、急に止まったね」
そしてフロントの奥から美作と、他に二人の少女が、現れた。
美作は目を僅かに大きくしてから、耳栓を片方ずつ外して、ラジオと千場と阿倍野と徳富をそれぞれ不愉快そうに睨んだ。作り笑顔よりも、魅力的だったが、睨まれる理由が謎だ。訳が分からない。いや、シャンデリアを壊したからか。違うな。なんだろう。いや、なんとなく、コレからの未来を予想することが出来たが、正直分かりやすいものではないから阿倍野は考えないように思考を停止した。無性にシガレロが吸いたい気分だった。
美作は警報が鳴る前よりもずっと、魔女の顔をしている。
ずっと、近寄りがたいものになっている。鋭利な刃物を向けられているような気分。
美作の後ろで二人の少女も耳栓を外した。彼女たちは黒と白のツートンカラーの地味なメイド服を着ていた。背の小さい方はまだ小学生のような幼い顔つきで、髪の色は紫。もう一人は高校生くらいだろうか。髪の色は群青。二人とも魔女だ。雷と水の魔女。このホテルは魔女ばかり雇っているのだろうか、非常に、なんていうか、物騒だ。水の魔女なんて、特に危険だ。暴力的なのだ。目の前の彼女のようにどんなに優しそうな目をしていても、音はヒステリックなのだ。
「ピストルなんて聞いてない、」美作は千場の鈍く光を反射する硬いものを確認して軽い微笑みを浮かべる。「ピストルでシャンデリアを壊すなんて」
美作はシャンデリアを壊したことに怒っているのだろうか?
それならいい。警報も何かの趣向だったのかもしれない。それだったらいい。それくらいだったらいいが、そういう訳でもないだろう。無駄な推測だ。
「すいません、でも、なんか、うるさかったから、」千場は笑って言った。「壊しちゃった、へへっ」
「へへっ、じゃないわよっ!」美作は声を荒げた。人が変わったようだと思った。「シャンデリアを作るために一体何本の真空管が必要か知っている?」
千場は阿倍野の顔を見た。俺を見るなよ。分かるわけがない。阿倍野は声を出したくないなと思って徳富を見る。徳富は咳払いをしてから聞く。
「……何本なんですか?」
「沢山よっ、沢山いるのよ!」美作は額を押さえてカウンタに手を付いた。バンッと激しい音が鳴った。「ああ、どうしよう、フエちゃんになんて、謝ったらいいか、ああ、困る、困った」
「フエちゃん?」徳富が言う。
「いや、弁償するから、その、怒るのやめて、元気出して、いくらなの、真空管のシャンデリア?」千場は薄ら笑いで提案する。
美作は千場を睨む。「別に私はシャンデリアが壊れたから怒っているんじゃない、私が怒っているのはあんたたちが大理石の床に倒れていなかったから、どーしてピンピンしているわけ? ピンピンしてて、しかもピストルなんて持っていたら、速やかに牢屋に連れていけないじゃないの、ああ、困る、困った」
『牢屋?』阿倍野と千場と徳富は顔を見合わせた。
「そうよ、牢屋よ、あなたたちは悪い人たちなんですもの、真倥管を、私の大事なフエちゃんの大事な真倥管を奪いにきた悪い人たちなんですもの、だから牢屋に入れて、ゆっくりと殺さなきゃいけないのに」
「ちょ、何言ってんだ?」千場の表情から笑みは消えない。「奪いに来たなんて、そんな人聞きの悪い、俺たちはただ、」
千場が言っている途中で徳富は阿倍野と千場の腕に腕を絡めて力一杯引いた。「やばいよ、逃げよ、この人なんか、おかしい」
その提案に、阿倍野は大賛成だった。美作の目は怖かった。誰かを殺そうとしている目だ。その銀色の髪の輪郭が発光している。その色はとてつもなく綺麗な色をしている。身の毛がよだつ。そんな反応を経験させられている。だから、賛成だ。逃げた方が賢明だ。
「大丈夫だよ、話せば分かる、話せば」千場は余裕がある振りをする。
「莫迦っ、分からずや、私は逃げるからね、恨まないでね、ちゃんと迎えに来いよ、莫迦っ!」
「ちょ、おいっ!」
千場の制止を聞かず徳富はぎこちない足取りでホテルから走り去っていった。その選択はとても正しいと阿倍野は思った。阿倍野がこの場に残ったのは、千場がまだここにいるからだ。千場には義理がある。
「……まったくよ、」千場は頭を搔く。「まぁね、あいつのことは放っておいて、話をしようよ、美作さん、きっとあなたは勘違いをしているんだ」
「カスミ、ライカ、」美作は千場を無視して名前を呼ぶ。どうやら後ろで静かに、あるいは退屈そうに控える二人の名前のようだ。「あの娘を追いなさい」
『了解』ライカとカスミは声をユニゾンさせて頷いて、ホテルのロビィをゆっくりと歩いて外に出た。
「美作さん、助かる、徳富のやつ方向音痴だから、きっと一人で大坂まで帰れない」
美作は何も言わない。言わずに目を閉じている。銀色の髪は発光し続けている。美作の胸元で光るものがある。ブラウスを通しても見える強烈な光が、二つある。彼女は魔法を編んでいる。その魔法の緻密さと巨大さを阿倍野の心臓は感じた。息を飲む。
「おい、千場」阿倍野は千場の肩を叩く。
「分かっている、」千場は非常に落ち着いていた。「きっと、真倥管の力だ」
「ご名答、」美作はうっとりとした表情で答えた。魔法は編まれた。美作は手の平を天井に向ける。そこに向かって収束する力の渦。美作は発声する。「テアビュ」
美作の手に出現したのはシルバに輝くブレイド。
千場はピストルを美作に向けて撃った。
千場の反応は早かったと思う。
しかし美作はテアビュで縦に銃弾を切り裂いた。銃弾の存在はまるで消えたようだった。音もなかった。それから阿倍野と千場の間の大理石には深い溝が刻まれていた。阿倍野のスーツの袖のボタンは消えていた。
一瞬のことだった。
千場は口笛を吹く。「テアビュ、すごい、最高の鋼の魔法だ、この目で見られるなんて、なかなかないことだぜ」
「どうする?」阿倍野は聞く。
「逃げられると思う?」千場は笑っている。
「俺の心臓のブレーキを外せば、あるいは」
「それはよそう、まだ俺自身がよく分からないことの一つだから、」千場はピストルを床に落とし両手を顔の横に持ち上げた。「それに外してもう一度縫い直すのも、結構疲れる、止めよう、それにまだ、話し合える機会があるかもしれない」
「そうだな」阿倍野も両手を顔の横に持ち上げた。
美作は満足そうな表情を浮かべている。とても魅力的だ。「ずいぶん、聞き分けがいいわね」
「褒められた、」千場は笑う。「嬉しいな」
「褒められたか?」
「二人とも、そのままそこに座って」
言われた通り、両手を上げたまま大理石の上に膝を付く。美作はテアビュを大理石に突き刺す。そして美作は二人の前に立つ。阿倍野は美作がこれから何をするのか全く見当がつかなかった。美作は完全に二人を見下していた。
美作はブーツを履いていた。先の鋭い黒いブーツだ。美作はそのつま先を有効的に使って阿倍野と千場の顔を何度も蹴った。口の中は血まみれになった。顔中が燃えたように痛くなった。
「素敵なブーツですね」顔を腫らした千場は苦し紛れに言った。