第四章⑧
千場の腕の中のニシキは眩い光を放っていた。それは天使みたいに神々しい。目を焼くほどの強い光の奥に潜む意志は悪魔のように禍々しいと感じる。
突風が吹いた。
ニシキを中心に巻き起こる風。千場は吹き飛ばされて阿倍野の隣に転がってきた。
すぐに立ち上がって、髪の毛をオールバックに掻き上げて、阿倍野を見て笑う。
「ヨネには言うなよ」
「誰だ?」
「俺の嫁だ」
「ヨネ? ヨメ?」
「今、長崎で診療所を開いていて、……お前には話してなかったっけ?」
「だから何の話だよ?」
「俺は今浮気中だ」
「あの子に? まだ十三歳なんだろ?」
「素敵なゴールドだ」千場は髪の色を褒める。
「瞳はサファイアだな」阿倍野は目を褒める。
「それに大連の大学も卒業していて、とても優秀で、変なグループに所属していて、天使になろうとしている」
「天使?」
「ニシキには羽根がきっと似合う」
「どうして浴衣なんだ? 千場も、あの子も」
「風呂上がりなんだ、」千場は息を吐いて真面目な顔をする。「阿倍野、俺たちは風呂上がりなんだ、風呂上がりに一緒に牛乳も飲んで」
「変態野郎、」阿倍野は吹き出してしまった。「……千場、俺の心臓のブレーキを外せ」
「今は無理」
ニシキは阿倍野と千場を見て、不敵に笑って真倥管を輝かせて、黄金色に輝いて魔法を編んだ。
「イレイザ」ニシキの指先が垂直に堕ちる。
「留め針、」千場の指先には銅の針。素早い動きで光線の先端を針で刺し、工場のコンクリートの床に留める。床は音を立ててゆっくりとひび割れて、最終的にコンクリートが弾けて天井に達する高さまで飛んだ。「無理だ、阿倍野、ピストルは今、ニシキが持っていて」
「どういうことだ?」阿倍野は降ってくる瓦礫を避けながら早口で聞いた。
「気に入っちまったみたいだ」
「あの子を?」
「違う、ニシキがピストルを」
「最低だ、」阿倍野は舌打ちした。「ピストルがなかったら、外せないじゃないか」
「他に方法があるだろ、何か、」千場は後ろのバーニング・モータを見て言う。「何かしてくれるんだろ、魔女たちが」
「そのために時間を作らなきゃいけない、無事な時間を、俺が鬼になって」
「ナンバナイン」冷たい目のニシキが発声する。
襲ってくる強い風に千場と阿倍野は同じ方向に吹き飛んで、工場の機械の上に落ちた。背中全体を打った。痛みは後から来る。突起部分に肘が刺さって血が流れている。何かを思い出した。他の方法。
「留め針はあと三本、いや、二本が限界だ、麻酔針は一本、」千場が言っているのは今日の体の状態から導き出される針のストックのことだ。「縫い針は出せそうもねぇ」
「バイオリンだ」
「は?」
「バイオリンで俺の心臓のブレーキが外れるんだ、いや、分からない、まだ推測の段階だが、バイオリンが使えるかもしれないんだ」
「……本当か?」
「あそこにバイオリンがあるはずだ、」阿倍野は滅茶苦茶に壊された真倥管保管庫の方を指差した。丁度ニシキが立っている後ろ。「留め針二本と麻酔針一本で、どうにかしてくれ」
「麻酔針がニシキに効くかは分からないが、ああ、やろう」
阿倍野と千場は機械の上から飛び降りる。すぐにイレイザが襲ってきた。一本の留め針で防ぐ。ニシキに向かって千場は走る。阿倍野は千場の影に隠れている。ニシキに近づいたところで、彼女は風を編んだ。千場は鋭い風に直撃し、体中が血だらけになって吹き飛ばされた。ニシキと阿倍野の間に遮蔽物がなくなり、ニシキの瞳は阿倍野を映していた。
「邪魔、」ニシキは乾いた声で言う。「焼け死んでしまえ」
阿倍野は動けなかった。ニシキの声に制されてしまった。
「イレイザ」
阿倍野はかろうじて手の平を顔の前にかざす。
「留め針、」千場は阿倍野の前に立って銅の針で膨大な量の光を束ねて床に留める。床は強力な熱に融解する。「麻酔針、」そして千場は銀色の針を持って素早い動作でニシキに近づく。ニシキの反応は遅かった。千場はニシキの首に針を刺した。「回れ回れ回れ」
ニシキは目を閉じて膝から崩れ落ちた。千場が彼女の体を支える。しかし真倥管は離さない。真倥管は輝いたままだ。
「阿倍野、探せ、いつ目を覚ますか、分からない」
「ああ、」すでに阿倍野は真倥管保管庫に入っていた。確か新田は扉の横にバイオリンを立て掛けていた。そこはすでに無茶苦茶になっていた。いや、そこだけじゃなくて部屋全体が無茶苦茶だった。バイオリンはすぐに見つかった。真倥管とそれを並べていた棚の木片の上、丁度部屋の中央に弓と一緒に置かれていた。阿倍野はそれを持って保管庫から出る。
「あったか?」千場はニシキを横に寝かせていた。
「ああ、」阿倍野は千場にバイオリンを差し出す。「それじゃあ、頼む」
「バカ、俺が弾けると思ってんのか!?」
「お前、ハーモニカ吹けただろ?」
「全く違う楽器だろうが!」
「じゃあ、」と阿倍野は考える。新田はバーニング・モータの前で集中している。エリコも同様。反対側の扉にいる徳富たちに阿倍野は声を投げる。「誰か、バイオリンを弾けないか!?」
すると黒髪の麗しい魔女が控えめに手を挙げて叫んだ。「ぼ、僕、バイオリン、得意だよ!」
阿倍野がバイオリンを掲げて通路を走ると、黒髪の魔女もこっちに向かって走ってきた。
「どうすればいいの?」
魔女は上目で阿倍野を見る。大きな黒目がとても可愛いらしい。阿倍野は吸い込まれそうになる。この魔女の奏でるバイオリンはとても素晴らしいだろうと思う。「バイオリンを弾いてくれさえすればいい、それで問題が解決するんだ、君、名前は?」
「ヒメゾノ、」ヒメゾノはバイオリンを顎と肩で挟んだ。「僕は何を弾けばいいの?」
「ヒメゾノさん、どうして自分のことを僕っていうんだい?」
「え?」ヒメゾノは首を傾げる。徳富みたいにわざとらしくなく、とてもナチュラルだ。
「いや、なんでもない、」阿倍野は首を横に振る。「そうだな、アレを頼む、『チェルシの魔女』、分かる?」
「うん、おっけ」ヒメゾノは目を瞑ってバイオリンを奏で始める。
ヒメゾノの演奏はとてもレベルが高いものだった。プロのバイオリニストだと言われれば疑うことなく信じるだろう。豊かな音色に心が楽しくなる。
しかしあのときに感じた、新田のバイオリンを聞いて感じたような気持ちにならない。
曲が終わる。心臓は一度も大きく脈打つことはなかった。
「……えっと、」ヒメゾノは阿倍野の瞳を覗き込んでいる。「何が起こるんですか?」
「……ああ、ごめん、」阿倍野は心臓のブレーキの具合を確かめる。何も変わっていない。硬く掛けられたままだ。「当てが外れたみたいだ」
「やっぱり無理か」千場が歯を見せて笑う。
「まだだ」阿倍野は新田の方を見る。




