第四章⑤
緋縅エリコは新田ホテルの空を一回りした。しかし、知念とヒメゾノと徳富の姿を見つけることは出来なかった。屋上の貯水タンクの上に降り立ち、非常階段を降りて、最上階の廊下を歩く。壁に掛けられた印象派の絵画の前にロカと阿倍野アキヒトと新田フエコは立っていて、新田はロカと楽しそうに会話をしている。
「徳富は?」阿倍野が視線をエリコに向けて聞いてくる。
「変なの、いないのよ、どこにも」
「いない?」新田は首を傾ける。
阿倍野はエリコを疑う目をする。「お前、嘘を、」
「バカなこと言わないでよ、どうして私がそんなつまらない嘘を付かなきゃいけないわけ?」エリコは早口で言った。
阿倍野は何か言いたげな顔をしていたが、エリコに睨まれて黙っている。
「ねぇ、新田ちゃん」
「はい?」
「洗濯物の種類が変わっていたんだけど」
「ああ、そうです、丁度この時間帯は洗濯の第五作業です」
「その作業は誰が?」
「ウォッシング・ガールズの四人です」
「……ウォッシング・ガールズ?」エリコは瞬きをゆっくりとしてしまった。「なにそれ?」
「はい、うちの自慢の優秀な洗濯を専門にしているメイドです」
「ああ、そうなんだ、そのネーミングセンスはとにかく、もしかしたら、スナオたち、そのウォッシング・ガールズが屋上に洗濯物を干しに来たから、慌ててどこかに逃げたのかもしれないわね、」エリコは腕を組んで言う。「その人たちは今どこにいるの?」
「一階の作業場で干し終わった洗濯物にアイロンを掛けているはずです」
「よし、案内してくれる?」
「はい、」新田は特徴的な色の髪の毛を揺らして頷く。「行きましょう」
新田と阿倍野とエリコはエレベータに向かう。その後ろをロカが付いてくる。
エリコは振り返って言った。「あんたは部屋に戻って脚本を仕上げなさいな」
「いや、」ロカは眼鏡の位置を直して言う。「エリコの後ろを歩いていた方が刺激になる、思えばエリコが劇団にいた数カ月は、刺激的な日々だった」
「あ、やっぱりそうだ、」エレベータのボタンを押しながら、新田が大きな口を開けて言った。「ヘンリエッタ役のモエ様だ!」
「私の中のモエは死んだ、」エリコはエレベータの中に入りながら澄まして言う。「私はもうグラス・ベルのエリコ、モエじゃない」
「モエ?」阿倍野が意外そうな目をエリコに向ける。「モエって感じじゃないよな」
「ええ、自分でもそう思う、」エリコは済まして頷いた。「でも、なぜかアンタにだけは言われたくないっ」
「モエ様、後で記念写真と、それと、」新田はルンルンして跳ねてエレベータを揺らしている。「私を箒の後ろに乗せてください」
「ふん、まあ、ばれちゃったら、しょうがないわね、」エリコは悪い気分じゃない。赤毛を払って言う。「ワンメータ、二円よ」
「やったぁ、」新田は両手を広げて喜んで跳ねる。「美作にお財布を出してもらわなくちゃ」
「おい、新田、お願いだから揺らさないでくれ」
「なぁに、びびってんの?」エレベータの揺れに怖がる阿倍野を見てエリコは愉快に微笑む。「男のくせにだらしないのね」
エレベータは一階に到着。新田を先頭に四人はウォッシング・ガールズというメイドたちがアイロンを掛けている作業場に向かう。新田は他の客室と色調を異にする部屋の扉をノックして開けた。「あの、仕事中、ごめんね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
扉が開くと部屋から温度の高い空気が廊下に流れてきた。部屋の奥に巨大なファンが回っているが、あまり機能していないようだった。その部屋には四つの白くて大きな作業台があって、それぞれにアイロンが立てられていた。アイロンの取っ手付近から天井に向かってビニル製のチューブが伸びている。蒸気式のアイロンだ。
「あ、お嬢様」
その部屋の奥には洗濯物が散乱していて、四人の黒髪の麗しいメイドさんが膝を折って回収していた。そのうちの一人が新田の声に反応して顔を上げた。遅れて三人も顔を上げて回収した洗濯物を作業台の上に置いて、新田の前に整列して手を前に組む。エリコは彼女たちを品定めするように見てしまう。だって、皆それぞれ個性的で可愛いから。
「何かあった?」新田が部屋の奥の方を見ながら言う。「洗濯物が大変なことになっているけれど」
「きっと、」長い黒髪の清純そうなメイドが言う。「ミッコがぎゅうぎゅうにリフトに洗濯物を詰め込んだからだと思うんです、それで弾けて」
「だから違うって、諌山、私のせいじゃないって、」ミッコという長い黒髪を二つに結んだピンク色のリボンのメイドが言う。「リフトに詰め込んだところで洗濯物が破裂したみたいに飛び出るっておかしいって、きっと誰かが悪戯で」
「悪戯ってどういう悪戯やの?」垂れ目のしっとりとした長い黒髪のメイドが関西弁で言う。「誰が好き好んで破裂したみたいに洗濯物を散乱させんねん、意味が分からへん、まあ、ミッコが悪戯したっていうんなら、まあ、理解できひんこともないけど、まあ、せやね、ミッコが犯人や、そやろ」
「篠崎ってばお嬢様の前で変なこと言わないでよ、私たち、屋上からココまでずっと一緒に来たでしょ、」ミッコは頬を膨らませて言う。「私がこんなことするはずないじゃん」
「まあまあ、二人とも、」新田は険悪なムードのミッコと篠崎の間に入って手の平を下に向けて、腕を上下させた。「ええっと、そうだ、そうだよ、何か洗濯物が盗まれたとか、そういう被害はないの?」
「お、お嬢様、それって、つまり、」今まで黙っていたどことなく儚げな長い黒髪のメイドが顔をピンク色に染めながら言う。「変態さんが私たちのパンツとブラジャとベイビ・ドールの中で楽しんでから、お気に入りのパンツとブラジャとベイビ・ドールを盗んだってこと、ですか?」
「ふえ? いや、私はそこまで考えてなかったけれど、でも、雛方の想像も決して的外れではないのかな、ってことは、ホテルに変態がいるってこと? 嫌ぁ」
「お嬢様、洗濯物の数は減っていません、盗まれたものは何も」諌山は歯切れよく言う。
「なんだ、それじゃあ、変態さんはいないってことだよね、」新田は胸を撫で下ろす。「よかったぁ」
「お嬢、安心するのは早いんとちゃいます」篠崎は腕を組んで悪い目をする。
「へ?」
「もしかしたら犯人はただパンツとブラジャとベイビ・ドールと戯れたかっただけかもしれへん」
「戯れるって、そんな、」新田はきっと想像してしまっているのだろう。声が高く変化している。そして興味がある年頃なのだろう。「戯れるって、……具体的に?」
「きっと犯人は、」ミッコはクールな目をして人差し指を立てる。「パンツの匂いを嗅いで、ベイビ・ドールを抱き締めて、ブラジャの上で転がったんだよぉ」
『いやぁ』新田と雛方は同じポーズで声をユニゾンさせる。
「おっほん、」と大きな咳払いをしたのは諌山だ。「二人ともバカなこと言わないでください、パンツの匂いを嗅いで、ベイビ・ドールを抱き締めて、ブラジャの上で転がる変態なんて、この世にいて堪るもんですかっ、」諌山は自分の両腕を抱き締めながら言う。「とにかく、ええ、この件はもうコレっきりにしましょう、コレっきりでいいですよね、洗濯物はまた洗えばいいんですから」
「また変態が出たらどうするん?」篠崎は聞く。
「そのときは、やっぱり、カスミ様に対峙してもらいます、カスミ様の素敵で優雅な水の魔法で、」諌山は当然のように言って篠崎を睨みつける。「……なにニタニタ笑っているんですの?」
「おお、こわぁ、」篠崎はニタニタしながら雛方の後ろに隠れる。「なんでもないよーだ」
「シノちゃん、あんまりからかっちゃ駄目だよぉ、」雛方は篠崎に耳打ちする。「諌山ちゃん、本気なんだから」
「何をぶつぶつ言ってるんですの?」諌山が睨むと雛方は黙った。
「むふふふ」ミッコは悪い目をして一人笑っている。
「何をむふふふ笑ってるんですの?」
「まあ、とにかく事件の解決は先延ばしってことやね、うん、とても大坂っぽくて素敵な判断やと思う、」篠崎は諌山から視線を新田に向ける。「あ、お嬢、私たちに何の用やったん? ソレに、後ろの見慣れない方たちは?」
「ああ、そうだよ、そうそう四人に聞きたいことっていうのはね、」新田は今まで黙っていた後ろの三人を振り返って見る。「まずはそうだね、誤解を招かないように自己紹介から」
「そっちの黒いスーツは、」篠崎がニタニタしながら言う。「お嬢の彼氏やんね、ロビィに集合した時にも一緒にいたよね、お嬢、おめでとう、素敵な未来を僭越ながら祈らせてもらいますぅ」
「な、何言ってるのよ、篠崎ってばぁ、」新田は手を小鳥みたいにパタパタさせる。「彼氏なんてそんなぁ、違うよぉ、」新田は上目で阿倍野を見上げる。阿倍野はすかしている。エリコはとても気に食わない。「と、とにかく、この人は阿倍野君、大坂帝国大学の工学部の三回生」
「うわぁ、高学歴ぃ、」ミッコは目を大きくして言う。「お嬢様ってば、将来安泰ですわね」
「もぉ、ミッコってば、あんまり、その、からかわないでよ、」新田は顔をピンク色にしてミッコを睨んだ。「自己紹介を続けるよ、この人はロカさん、支配人兼劇団ロカの団長兼脚本家のロカさん」
「え?」雛方が声を上げた。「六〇五号室に泊まられている、ファーファルタウの宮殿から脱走して、その脱走記で宮殿を告発しようとしている風の魔女の佐野ユウコ様じゃ……?」
その場に変な空気が流れた。
なんとなく、というか、ロカは雛方に悪いことをしていたんだなと確信して、エリコは首を横に振ってからロカを睨む。「……アンタ、そんなしょーもない嘘を?」
ロカは首を横に振ってエリコを無視。そして進み出で雛方の前に立ち、丸眼鏡を外し、切れ長の目を見せて、雛方の髪に触って微笑む。「それは実は本名なんだ、君だけに教えた、私の本名」
雛方は五指を組んでロカの顔を見上げる。「……素敵」
「君が洗ってくれる洗濯物は、」
エリコはロカが何かつまらない台詞を吐こうとしているので、パンパンパンと手を叩きながら二人の間に割って入った。「はいはい、そこまで、そこまでよ、ああ、もう、全然話が先に進まないじゃないのよっ」
「最後に君は?」ミッコが言う。「どちらのキャブズ? それともお嬢様のコスロテ仲間?」
エリコはミッコの方に体を回転させた。反射的に、自己紹介のポーズを取る。「私は緋縅エリコ、コスロテじゃないわ、私はグラス・ベル・キャブズのエリコ、」そのタイミングで首の萌黄色のベルを凛と鳴らす。「世界の果てまで連れて行ってあげるわ」
諌山と篠崎と雛方はポカンとエリコを見ていた。新田はキラキラした瞳でエリコを見ていた。ロカは雛方の髪の毛を触っていて、阿倍野は無表情ですかしていて、ミッコはお腹を押さえて笑う。「あはははははははははははははははははははっ、何それ、可笑しい」
「な、なんで笑うのよ!?」エリコはどうしてミッコが笑っているのか、全く理解できない。「何が可笑しいっていうの、ねぇ?」
「失礼だよ、ミッコ、」新田はエリコの機嫌を窺いながら言う。「エリコ様に向かって可笑しいだなんて、ミッコ謝りなさいっ!」
ミッコは言われ、笑うのを堪えた。そして涙目で微笑む。「はい、すいませんでした、ごめんなさい、お嬢様、失礼ですよね、はい、今度どこか遠出をするときは、エリコ様を利用させて頂きたいと思います、ん……あはっ」
「……うーん、なんだか、引っかかるものがあるけど、まあ、いいわ、そんなことより、そうよ、私たちはあなたたち、なんだっけ、そう、ウォッシング・ガールズに聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」ミッコは首を傾げて、他の三人のメイドを見る。
「あなたたちが屋上で干してあった洗濯物を回収して、また新たに洗濯物を干している間、屋上に私と同じ萌黄色のワンピースに灰色のミリタリィジャケットを羽織った二人と、ビニル製の白いワンピースを着た素敵な女の子がいたと思うんだけれど、知らない?」
「屋上には誰もいませんでしたよ」諌山が答える。
「うん、私たち四人以外誰もおらんかったと思うで、なあ」
「うん、」雛方は頷いて何かを思い出したように声を上げた。「あ、そう言えば」
「あ、くしゃみ、」ミッコも何かを思い出したようだ。「くしゃみが聞こえたって雛方言ってたよね、あの時」
「うん、可愛いくしゃみ、その時はミッコちゃんのくしゃみだと思ったんだけど」
「……それはどんなくしゃみだった? やって見せてくれない?」
「え、恥ずかしい」雛方はもじもじする。
「お願い」手の平を合わせてエリコは頼む。
「くしゃみで分かるの?」ミッコが言う。
「分かんないけど、でも、あいつのくしゃみだったら、分かるの、お願い、雛方さん」
雛方は頷いた。「うん、分かった、ええっとね、確かこんな感じだったと思うんだけど、くしゅ、」くしゃみをする雛方はとても愛らしかった。「……どう、かな?」
「ありがとう」
「分かったの?」ミッコが聞く。
「ヒメゾノだ」
「ヒメゾノ?」
「うん、グラス・ベルの仲間、四人が屋上で作業をしていた時にはいたんだ」
「でも、どこにいたんやろ? 全然気付かんかった、」篠崎が言う。「魔女やったら飛んで、空を移動したんと違うの?」
「そうね、うん、ありがとう」
エリコと新田と阿倍野とロカは部屋から出た。
「一体どこに行ってしまったんでしょうね?」新田はエリコの横を並んで歩く。
「このホテルのどこかにいると思うんだ、知念もヒメゾノも私から遠い場所には行かないと思う、新田ちゃん、協力してくれる?」
「ええ、もちろん」新田が頷いた。
その時いきなり響いた警報にエリコは心臓が飛び出るほど驚いた。
「なに?」とても巨大な音だったからだ。声も掻き消される。
そして新田は目の色を変えて走り出した。




