第四章④
新田ホテルには様々な模様の浴衣が揃っていた。浴室から出たニシキは白勝ちの桜錦が背中に描かれた浴衣を見つけてそれに着替えた。鏡の前で帯を締め、藍色のリボンを髪に結んだ。鏡に見える後ろの千場は木製のベンチに座って牛乳を飲んでいる。
「たまんないねぇ」千場は口を斜めにして言った。
「私にも頂戴」
千場の飲み残しをニシキはゴクゴクと飲み干した。「けぷっ」とニシキがゲップをすると千場は立ち上がった。「腹減らないか?」
「うん、お腹空いた」
「十秒経ってから出てこいよ」
千場が脱衣所から廊下へ出てからニシキはきちんと十秒数えた。そして暖簾を潜る。幸い誰もいない。廊下を右側に進むと柱の影に千場がいて、目が合うとニシキと並んで歩き始める。「レストランはどっちだっけ?」
「ご案内しましょう」ニシキは回れ右をする。
「ああ、逆?」
「向こうは遠回りだから」
再び浴場の入り口の前を通ってニシキと千場はレストランに向かう。途中の会話はゼロ。でも、気分はどこまでもルンルンしていた。どうせ、明日には別れる。でも、それがなんなの? 離れていたって近くにいたってあなたのことを勝手に夢見る。変わらない。何も変わらない。とても楽しい瞬間が続くのだ。ニシキは千場の腕に自分の腕を絡めた。
「おい」
「いいじゃん、少しくらい」ニシキは少しムッとした顔を作る。
「あれ、美作さんじゃないか?」
千場に言われて廊下の先を見る。丁度、美作の後姿が廊下の突き当たりを右に折れていった。左がレストランへの通路。右は、何があるのかニシキはまだ知らない。突き当りまできて千場は右方向を見て言った。「仲直りしなくちゃいけないよな」
その廊下はすぐに行き止まりになって、先に進むとすれば左側の鉄製の扉を開いて進むしかなかった。美作はこの扉の奥の階段を降りたのだろう。地下に下りる階段を、二人は降りる。「俺はこの階の牢屋に入れられていたんだ」
「うん、知ってるよ、」ニシキは地下一階の廊下に立って言う。「一度来たことがあるから」
地下一階のフロアはとても静まりかえっていた。しばらく歩いてみた。歩く音さえしない。「この階にはいないみたいだな、下に行ってみようか」
地下二階は何やら資料室、あるいは物置を連想させる、装飾が比較的少ない扉が並んでいた。この階にも美作はいなくて、さらに地下三階に降りると、階段から廊下に出る場所に施錠された扉があって、立ち入ることは出来なかった。地下四階からさらに下に続く階段はなかった。地下四階にもそのフロアの中へ進むためには扉を押さなければならないようだった。とても分厚くて重そうな鋼鉄製の扉だ。その先には何か、大切な物が隠されていそうな気がする。「空いているな」
「うん、」大切なものを守っていそうな扉は手前に開いていた。人一人分の隙間がある。「空いてるね、」そして大きく空気が脈打ったのを感じる。「……揺れた?」
「何が?」
「空気が」何が揺らしたの?
ニシキは隙間に体を入れて中に入った。何かを期待していたのは確かだったけれど、予想を超える光景に戸惑わずにはいられない。「……工場?」
「何かを作っていることは間違いなさそうだ、」ホテルの地下に広がる異様な空間を見回して、千場は言う。「……真倥管工場?」
「私は実験室みたいな狭い部屋で真倥管が作られているのだと思う、……あ、まただ、また揺れた」
「空気が?」千場は雨を確かめるときみたいに手の平を上に向ける。「それとも地面が?」
「奥、」ニシキは扉から真っ直ぐに伸びる通路の先を指差した。その先には柱が天井に向かって伸びている。天井はドームのように半円球。柱は植物みたいなパイプに絡みつかれている。「奥の空気の揺れが騒がしい」
通路の先からヒステリックな声が響いた。美作の得意のボイスだ。
「ああ、確かに、聞き覚えのある騒がしい声だ」
そして誰かの悲鳴が聞こえる。
「魅力的な声だと思うけど、あまり面白い声じゃないわよね、でも、私は好きだな、この世に邪魔だとは思わない、嘘を付けない魔女の声、」ニシキは早足で通路を進んだ。「なぁに、喧嘩?」
「おいおい、誰だか知らないが、あんまり美作さんを怒らせるなよ」千場も早足で歩く。
「それをヨウスケが言う?」ニシキは笑う。笑いながらあまり経験のない空気の揺れの種類を感じ続けていた。「一番お姉ちゃんを苦悩させたヨウスケが言う?」
「お姉ちゃん?」千場は僅かに目を大きくした。「お姉ちゃんってなんだ?」
ニシキは赤い舌を千場に見せて。
笑いを止めた。歩くのを止めて立ち止まった。空気の巨大な揺れを感じたから。
揺れにこの空間が、工場が満たされていく。少し天使を感じる振動。
真倥管?
真倥管が揺らしているの?
揺れているの?
通路の先の工場のもう一つの扉から三つの影が出てくる。
『逃げろおおおおおお!』という叫び声と一緒に、三人の女の子が飛び出してきた。
「徳富?」千場が言った。徳富というのは千場の、確か、友達。
三人はこちらに向かって前傾姿勢。
僅かに遅れて次の瞬間、空気が大きく揺れる。通路の先の鋼鉄製の扉が周囲を取り囲むコンクリート壁と一緒に吹き飛んだ。
視界を遮るものがなくなった先には巨大な刀剣。
その主の銀色の美作。美作の素敵なシルバ・ブロンドは煌めいていた。つまり、魔法を編んでいる。編み込んでいる。その編み方はとても、雑。太くて丈夫で色の濃い糸を、針を指に差し、血を流しながら、編んでいる。まるで素人。
真倥管の揺れに呑み込まれて、今の美作はまるで悪魔。
銀色で眩い美作は刀剣を背負う。こっちに向かって逃げている三人のうちの一人が足をもつれさせて転んだ。
「徳富!」千場が叫んで走った。
ニシキは風を起こす。跳躍。速く飛ぶ。魔法を編む。ニシキは千場の前に出た。空中で一回転して、黄金色に染まる。美作の色と対照的なゴールド。
「ブレイド」美作はそう発声しながら刀剣を垂直に落とす。鋭くて重いものが迫ってくる。
ニシキは三人の女の子の前に着地して手の平を優しく開いて美作にかざす。私の大事な眩い光の障壁。
叫ぶよ。「シエルミラ!」
黄金色の障壁は白銀色の衝撃を受け止めて、抱き締めて、包み上げて、呑み込んで、消化する。とてつもない衝突音で、感度のいいニシキの耳は一時的に麻痺。それによって訪れた静寂。感じる心臓の音。
初めて見る美作の冷たい表情。
私を私だと認識していない。
あるいは別人。純粋でヒステリックな彼女じゃない。彼女はその表情のまま、三歩ニシキに近づいて、刀剣を再び肩に乗せた。
耳は三十秒で回復した。呼吸を整える。目を閉じて。変わらない目の前の光景を確かめてから、それからきっと普通の魔女には追い付けない速度で魔法を編み込んだ。
「イレイザ」頭上に掲げた人差し指を降ろす。すべてを焼き払う光線が美作に伸びる。
美作は刀剣で受け止めて、光線を左右に切り裂く。
二つに分かれた光線は工場の壁を灼熱の温度で傷つける。
化学反応があって、きっと人体に有害な物質が精製されている匂いが立つ。
「ゼプテンバ、」ニシキは自ら放つ光を消す魔法を編む。つまり今のニシキは誰にも見えていない。「スーパ・ソニック、」音速で美作にキスできるくらい近い場所に移動する。そして目を焼き尽くす光線。「マイ・グレイト・デイライト」
どれもとても疲れる魔法だ。
「スライサァ」美作は発声する。
美作の目は完全に焼けている。瞳の色が変わったのをニシキは確かめている。
にもかかわらず、焼けた目を見開いたまま、美作は鋭い刃になった自分の右腕を振り回して斬新で無慈悲なリズムで回転する。右手の先がニシキの頬に少しだけ触れた。血が流れる。鋭いことの証明。次の回転で逃げ遅れた自慢の金髪を斬られた。ニシキは床に落ちる自分の髪の毛を見て気が狂いそうになる。
しかし気を狂わせている場合じゃない。
次の回転はニシキの首を狙っていた。高い精度で迫ってくる。躱す時間もテクニックもない。
再びニシキはシエルミラを編む。
出現する黄金色。
シエルミラは美作のスライサァを弾く。けたたましい音が響く。スライサァは崩れるように美作の腕から剥がれ落ちた。
同時にシエルミラは光の粒になって弾け飛んだ。
ニシキはバランスを崩して後ろに倒れた。後ろにいた三人がニシキの体をガッチリと受け止める。
「……ふぅ、」ニシキは息を吐いて首を振った。大粒の汗が飛ぶ。「はぁ、熱い」
美作は今頃になって目の痛みを感じて目の前で蹲っている。ニシキはすぐに立ち上がろうとした。美作が心配だったからだ。瞼を閉じずに強い光を直視し続けていた美作の瞳が心配だった。
しかし、足に力が入らなかった。階段を踏み外したみたいになって、三人に支えられる。急に睡魔が襲ってきた。とてつもなく眠い。目を瞑る。脳ミソは物凄い速度で回転中だから眠れない。ニシキの体は眠りたがっているけれど、脳ミソはそれを許さない。手の先と足の先がしびれているのに脳ミソは複雑な魔法の設計図を何度も広げては、シミュレーションを繰り返している。
「だ、大丈夫?」
「ああ、うん、ああ、」脳ミソの回転が早すぎて普通の会話が難しい。「イエス、ノウ、イエス?」
「ニシキ、」千場の声。一拍遅れて顔が見える。「ちょっと黄昏過ぎだ」
「……どういう意味だ!」ニシキは片言で怒鳴る。
「スタイリッシュに決めようとしただろ?」
「うっさいわね!」ニシキは目を開けてがなった。図星だったからだ。顔が赤くなって、すぐに血の気が引いて、がなったのを後悔する。本格的に体の状態が変。
「え、千場君、なんでここにいるの?」三人の内の一人、彼女がどうやら徳富という千場の友人らしい。ビニル生地の白いワンピースはニシキには理解しかねる。
「お前こそ、ここで何してんだ」千場は早口で言う。
「ええっと、話すと長くなるんだけどぉ」徳富も口が早く回る。
「ちょ、そんなことより早く魔女から逃げなきゃ」カスタードクリームみたいな可愛い声の女の子が早口で言う。彼女はキャブズなのか、萌黄色のシンプルなデザインのワンピースの上に灰色のミリタリィジャケットを羽織っている。
「逃げよっ」同じ衣装の長い黒髪の魔女が素早く首を縦に振る。
次の瞬間。
ニシキたちから数メートル離れた場所にあった巨大な機械が半分にカットされた。
美作は見えない目を見開いて、ニシキたちから少しズレた方向を睨んでいる。
美作は魔法を編んでいる。
悪魔みたいな表情で。
その表情に全員が魅せられている。美作は刀剣を肩に乗せてゆっくりと歩いてくる。
「……逃げるぞ」千場が言って、皆、思い出したように危険を思い出す。
徳富はニシキをお姫様のように抱きあげた。意外と力持ちみたいだ。徳富は息を切らせて通路を走る。二人の女の子と千場も続く。美作は走らない。階段へ通じる扉の隙間に五人は滑り込んだ。そして重たい鋼鉄製の扉を千場と黒髪の魔女が押して閉める。そして徳富は階段を登ろうとする。
「待って」ニシキは声を出した。
「え?」徳富は足を止める。
「ねぇ、」ニシキは見つめていた。徳富の手に握られていた、真倥管を。「それは何なの?」
「え?」徳富は言われて気付いたようだ。「あ、ああ、勝手に持ってきちゃった、どうしよう」
「なに?」カスタードクリームの声。
「急ごうよ、スナオちゃん」黒髪の魔女の声。
「真倥管でしょ、真倥管なんでしょ?」ニシキは真倥管を包んだ徳富の手を触わる。「私に触らせて」
「え、でも、駄目だよ、コレは、なんていうか、危ないものなんだ」
「そうだよ、絶対に触っちゃ駄目」カスタードクリームの声。
「うん、火傷もしちゃうし」黒髪の魔女の手は真っ赤に焼けている。
「二人の言う通り、」徳富は手を触るニシキに戸惑っている。「私は魔女じゃないから真倥管を触っても平気だけど、君は魔女でしょ? だったら駄目だよ、危ないよ、お願いだから手を離してよ」
「お願いだから真倥管を触らせて」ニシキは徳富の丸い目を見つめる。
「……危ないって言ってるのよ、」徳富は少し怒っている。「分かんないの!?」
「分かんないよ、そんなの、やってみなくちゃ、やらなかったら全然、何もかも世界は分からないまま!」ニシキは徳富から真倥管を奪って徳富の腕から飛び降りて床に立つ。「危険? そんなの知ったこっちゃない、誰かは危険から逃げればいいじゃない、私は逃げないわ、逃げてたまるか、コレは実験よ、試行実験、真倥管は私が天使になるためのトライアル!」
「……はあ!? 何言ってんの!? バカなの!?」徳富はニシキから真倥管を本気で奪い返そうとする。「危ないって言ってるでしょ! 素直に言うことを聞きなさいよ!」
「徳富、」千場は徳富の肩に手を置いて言う。「コイツは大連の大学を出てるんだ」
「はあ!? だから何だっていうの!?」
「ニシキは天使になるんだ、なるんだって言ってるんだ、大連の大学を出ているんだから、俺たちが止める権利はない、その代わり俺はニシキを観察して分析して論文を書く権利を持っているんだ」
徳富は真倥管を胸元で握り締めるニシキを見つめる。ニシキは上から下まで観察された。
「……きっと私の方が千場君よりも正確に分析できると思う、」徳富はとてもインテリジェンスな表情をする。「……でも、天使って何? 羽根でも生えるの?」
「メタファ、」ニシキは言った。握り締めた真倥管は徐々に熱を持つ。空気をゆっくりと揺らしている。震えている。小さな明かりが芽生えている。「あるいは概念」
「そうだ、概念」千場が頷く。
「概念か、」徳富は微笑んだ。「概念って、便利な言葉過ぎると思うんだよね」
「来るよ、」ニシキはあらゆる感覚が研ぎ澄まされるのを感じた。「皆私から離れて、怪我をしないように」
千場と徳富とカスタードクリームと黒髪の魔女はニシキに言われて階段を登り高い位置からニシキを見下ろす。ニシキはシエルミラの設計図を脳裏に広げる。真倥管が温まった合図は空気の揺れともに黄金色の光。真倥管は握っていられないほど、熱い。だからって離さない。絶対に離さない。シエルミラの設計図に羅列されたシエルミラを構成する原料は体中に溢れていた。コレが、真倥管の力。コレだけの原料があればシエルミラを千枚作って、世界を二つに分けることだって可能かもしれない。なんて、つまらないことを考える。
「シエルミラ」ニシキの黄金色の髪が揺れる。目の前には十枚のシエルミラ。
シエルミラの出現と同時に鋼鉄製の分厚い扉の奥から鋭い衝撃が飛んできた。
鋭い衝撃は鋼鉄製の扉をくの字型に変えた。周りを囲むコンクリートは河原の石ころくらいの大きさになって音を立てて転がる。
鋭い衝撃は三枚のシエルミラを破壊。そして進行を止めた。埃が立つ向こうに気分が悪そうな顔をしている美作は装飾の多い短い刀を下段に構えていた。
いきなり警報のベルが鳴り響いた。衝撃でスイッチが入ったのかもしれない。とても煩い。
美作はニシキの方向に床に切っ先を擦りながら迫ってくる。途中で切っ先を目の高さまで上げる。その間にニシキはシエルミラを五十枚製造した。それを凝縮して、完璧な障壁を作る。その完璧な障壁に美作は刀を突き刺した。シエルミラは弾くが、美作は障壁に刃を立てたまま、力で押してくる。とても気分が悪そうで、病気みたいで、悪魔みたいな表情で笑っている。刀の先は徐々にすり減ってシルバの粒になって消えている。シエルミラも光の粒になって数を減らしていく。美作は先がなくなってさらに短くなった刀で押してくる。最終的に刀身の全てがシルバの粒になったとき、シエルミラも崩壊する。
真倥管の熱が手の平に痛い。まるで高速回転するモータを握っているみたい。
しかしニシキは真倥管を酷使させなければならない。いや、どっちだろう。私か、真倥管か。いや、どちらでも構わない。気になるのは、この状態ははたして天使なのだろうか、ということ。
普通の私でないことは確か。
しかし気になるのは、羽ばたけるほど体が軽くないことだ。そして徐々に、他のことを考えられなくなっている。ただ美作よりも上回ることだけを考えている。ユーモアが足りない。魔女の思考じゃない。天使の思考にしては、色が暗すぎる。コレは悪魔の思考?
美作はこの思考に乗っ取られたのだなと、推測。
美作は新たにナイフを手に握っている。装飾の多さが僅かに残った美作の個性を感じさせる。とても気分が悪そうだ。早く楽にしてあげたい。
殺して?
美作が来る。
「イレイザ、」美作を殺す光線を一度編む。「キャンセラ、」違う。イレイザを消去。ニシキは首を横に振る。「殺すんじゃない、守る、助けるよ、」ニシキは天使のことを考えて優しい顔をする。「お姉ちゃん、ちゃんと見ててよ、私の最高傑作、私の優しいトワイライト」
トワイライトは薄明かり。その明かりは心臓まで届いて、不思議な気持ちにさせる。涙を落とさせる。トワイライトはそういう魔法だ。
真倥管が、その不思議を増幅させている。美作はトワイライトを見て、動きを止めた。ナイフを床に落としてぼうっと立ち尽くす。美作の目から涙がこぼれそう。「……私は、……ただ」
ニシキは美作に近づいて、手の中の真倥管を奪った。美作は抵抗しなかった。美作の真倥管は冷めていた。
「……ニシキ、どこ?」美作は手を前に出してニシキを探す。「ああ、ここにいるのね、」美作は目を開けてニシキを抱き締める。「ココ、どこ? 真っ暗で何も見えなくて」
「……真っ暗?」ニシキはショックだった。ニシキのデイライトは美作の視力を奪ってしまったのだ。美作は光のない世界にいる。悲しい。とても悲しい。でも、それじゃあ、どうしてシエルミラの中心を刀で突くことが出来たか? どうしてニシキのトワイライトは届いたのか? 真倥管がないと美作は光を感じられなくなったってこと?
「……ああ、なんだか、疲れちゃったわ」
ニシキは絶望的な気分で、疲れ果てて気を失ってしまった美作を抱き締める。なんだか、何も考えられない。気が遠くなる。考えられない。
しかし真倥管は勝手に温まる。熱を出して、皮膚を溶かして同化しようと企んでいる。
付け込まれた、危険だ、と思った時には遅かった。
指先、足先、脳ミソから遠いところから真倥管に奪われていく。
真倥管に意志はない。
ただ、そういうシステムが正しく機能し始めたのだ。真倥管は手のコントロールを奪って強く握らせる。警報は鳴り響いている。真倥管の増していく輝きとともに大きくなっていく。聞こえる。千場が近づいてきて、愉快そうな表情で何か言っている。
近づいちゃ駄目。ニシキは千場の耳に唇を近づける。「お姉ちゃんをお願い、すぐにココから逃げて、工場を閉鎖して」
「え?」
「あと三百秒で私は、」ニシキは悔しくて泣いていた。「悪魔になりそう」




