第三章⑥
エリコと知念とヒメゾノと徳富は湖を飛び立ってから、水と雷の魔女の襲撃に合うことなく新田ホテルの屋上に降り立つことが出来た。新田ホテルの屋上は彩り豊かだった。等間隔に吊るされたロープに干されたパンツ、ベイビ・ドール、ブラジャなどの洗濯物はまるでこいのぼりのように風に揺れていた。蛍光色のベイビ・ドールにエリコは少し反応してしまう。エリコのコレクションにはないとてもセクシィなタイプだ。お給料日になったら渋谷のショップに行こうと思う。
四人は洗濯物に絡まらないように屋上に降り立ってから巨大な円錐型の貯水タンクの影で短い相談をした。そしてエリコがまず一人でホテルの中の様子を窺ってくることに決めた。ヒメゾノが進んで自分が行くと名乗り出たが、エリコは徳富に格好いいところを見せたいから、格好いい台詞を言ってそれを却下する。「ヒメゾノ、その気持ちは褒めてあげるけど、行くのは私よ、私がスナオの願いを叶えてあげるって決めたんだもの、一番危険な役は当然、私が引き受けるわ」
「エリコ、格好いい」徳富が言う。徐々に分かってきたことだが徳富は格好いいエリコが好きみたいだ。
ヒメゾノは可愛いエリコが好きみたいだ。「ぼ、僕エリコちゃんのためなら、なんだってやるのに」
「じゃあ、私の気持ちを尊重して頂戴」
「あんまり無理すんなよぉ、」知念はそう言いながらキョロキョロと何かを探している。「あ、エリコ、向こうの階段から下に降りれるんじゃない?」
そんな具合でエリコは最上階の非常階段へ通じる扉を開けた。
開けて驚いた。ロカがエリコに向かって走ってきたからだ。新宿ロカ劇場のロカだ。エリコに向かって、ということはないだろう。ロカが偶然を楽しむ顔をエリコに向かってしたからだ。そう。ロカだ。間違いない。特徴的な丸眼鏡とうねった黒髪。四年ぶりの再会。こんな場所で。信じられない。エリコは新田ホテルの廊下の赤い絨毯の上に立って、何かを言おうと口を開いた。するとロカの後方から、男の声が飛んできた。
「そいつを捕まえてくれっ!」
訳が分からなかったでも、ロカは逃げている。ロカは大人のくせに非常識だ。
何をしたのだろう?
エリコは不自然に体に纏わりついたメイド服をヒントに考えた。そして思い出を、思い出した。ロカに大事なベイビ・ドールを盗まれたときのことを思い出した。なるほど、ロカは悪いことをしたんだ。考えが行き届くまでに時間はかからなかった。
エリコは目付きを鋭くして、そこまで走ってきたロカの袖を掴んで、引き寄せて、ロカの体のコントロールを奪って、右足でロカの右足を払った。修道院のシスタから教わった大外刈り。エリコのピンチを幾度となく救ってくれた大外刈り。背が伸びたエリコの大外刈りは大人の男性だって倒してしまうのだ。両足が絨毯から離れて、ふわりと浮かんで、背中からロカは堕ちた。エリコはそのままロカを押さえつけて怒鳴る。「四年経っても同じことしてんじゃないわよ、バカっ!」
「痛いよ、エリコ、参った、完全に私の負け、降参、」ロカはずれた眼鏡を直しながら声を出す。抵抗はしない。「それにしても偶然ね、凄い偶然、あるいは、私に会いに来たの?」
「まさか、」エリコはロカが懐かしくて笑みをこぼした。抑える手の力を抜く。「偶然以外にないでしょ、何をしてたの、群馬のホテルで?」
「缶詰め」
「かんづめ?」
「ホテルの一室に籠って脚本を書いていたのよ」
「なるほど」
「なるほど、」見上げるとロカを捕まえろと叫んだ男が立っていた。男は背が高く、顔つきは鋭かった。幕末の武士のようだと思った。「でも、どうしてメイド服を?」
「ごめんなさい、」ロカはメイド服を男に渡しながら反省している演技をしている。「アイデアが纏まらなくて、煮詰まっていて、気がおかしくなっていたの、ほら、私、魔女で若い女の子が好きだから」
「やっぱりロカは魔女だったの?」四年越しの疑問が解けるとあってエリコは少し興奮した。「どうなの?」
「二人は知り合いなんですか?」
「ええ」
「うん、まあ」
そこへ朱色を明るくしたような変な髪の色の少女と体にシーツを巻きつけた少女がやってきた。二人ともキスしたい柔らかそうな頬っぺたをしている。シーツの彼女は男からメイド服を受け取ってお礼を言って頭を下げて廊下を来た方に戻っていった。
「ありがとうございました、あなたのおかげです」
変な色の髪の少女はエリコに握手を求めてきた。太陽みたいな笑顔。瞳の奥の色は水色の混じったシルバだろうか。手が触れた瞬間に分かった。まだ小さいけれど、凄い力を持った魔女だ。エリコは魅かれてしまう。顔を可愛くしてしまう。一度唇を合わせたいと思ってしまう。けれど、感じる彼女の純粋さが、エリコに行動することを躊躇わせる。諦めて、普通の顔になる。欲張ってはいけない。「どういたしまして」
「何かお礼を」少女は提案する。
キス、と言いたかったが首を振って辞退する。「お礼なんて、いらない」
「……あの、もしかして、キャブズの方、ですか?」少女は手を離さないで聞く。
「え、ええ、そうよ、」期待してしまうじゃないの、とエリコは自制心を押さえられる自信がない。「私は緋縅エリコ、グラス・ベルのエリコよ、」そう名乗って赤毛を払ってポーズを決めてから後悔する。潜入している身なのに名乗ってどうする。「この世の果てまで連れてってあげるわ」
エリコはその調子のまま首の萌黄色のベルを凛と鳴らした。
「うわっ、うわっ、格好いい!」少女は興奮している。「エリコってイエロー・ベルのエリコと一緒ですね、私、昔新宿の劇場でイエロー・ベル・キャブズを見てから、ずっとキャブズになりたかったんです、キャブズになって流浪するのが私の夢なんです」
「ああ、だから、そんな恰好をしているのね、」少女は黒いジャケットに白いワンピースというキャブズのいでたちをしていた。この組み合わせはファーファルタウの大手、ホワイト・ベル・キャブズのものだ。コスチューム・ロウテイション、いわゆるコスロテをしているのだろう。「でも、あなた魔女でしょ? キャブズにならすぐになれるんじゃ」
「あ、えっと、そのぉ、」笑顔の少女の声は徐々にしぼんでいく。「いろいろ事情があって」
「新田」
と男は少女のことを呼んだ。つまり少女はこの新田ホテル、新田製作所の社長の娘か何かだろうか? いろいろな事情というのもそれに関係しているのかもしれないと簡単に推測する。
「この御乱心の脚本家はどうする?」
ロカは胸の前で両手をクロスさせ、姿勢よく仰向けになって目を閉じていた。きっとふざけているのだ。エリコはつま先でロカの脇腹を軽く蹴った。微動もしない。エリコは新田から顔を背けて声を殺して笑う。
「ああ、忘れてた、」新田は本当にロカの存在を忘れていたようだ。「ええっと、どうしよう?」
それほど私に会えたのが嬉しかったのか、と思ってエリコはいい気分だった。可愛い魔女。だから新田のことを少し驚かせようと思う。「さっきあなた新宿の劇場でイエロー・ベル・キャブズを見たって言ったけど、もしかしてその劇場って新宿ロカ劇場のことじゃない?」
「はい、そうです、そうですよ、どうして、それを……?」新田はすぐにエリコの微笑の意味に気付いたようだ。頭の回転がとても速い。「え、嘘、まさか、え、本当ですか?」
「うん、この人が正真正銘、新宿ロカ劇場の支配人兼劇団ロカの団長兼脚本家のロカ」
「うわっ、うわっ、どうしよう!?」新田は側頭部を押さえて混乱している。
「ここに、」ロカは急に立ち上がって、ポケットから紙の束を取り出した。「ここに今劇場で絶賛公開中『ノベルズ』のチケットが百枚あります、」そして新田の前に跪いて許しを請う。そういう演技をする。「お嬢様、どうかこのチケット百枚で先ほどの愚行をお許し下さい、いえ、許されるとは思っておりません、例えお嬢様がお許しになられたとしても雲に住まう天使たちは私を許さないでしょう、これはせめてもの償いです、劇場にいらしていただいた際にはパンフレットにキャストのサインも致しましょう」
「え、えっとぉ……、」新田はチケットの束を受け取って困った顔をした。そして後ろの男の表情を確認してからロカに向き直って微笑む。「はい、私は許しました、いえ、許したなんておこがましいです、あなたから私は素敵な物語を貰いましたから」
「ありがとうございます、お嬢様」
「あ、あの、当分新宿には行けそうにないので、出来たらサイン入りのパンフレット、ここに送ってきて欲しい、です、」新田は恥ずかしそうに言う。「そ、それとキャストの皆さんで、一度、ここに泊まりに来てくれるなんて、出来ませんよねぇ、ホテルの前で一緒に記念写真とか、撮れませんよね?」
「お嬢様、」ロカは低い声で返答する。「私は支配人です、キャストは私の奴隷のようなもの」
「ふざけたこというな、」エリコはロカの頭を軽く叩いた。「誰もロカの奴隷だなんて思ってないわよ」
「あの、二人のご関係は?」新田は素敵な色の目にロカとエリコを映す。「とっても親しそうですけど」
「知り合いよ」エリコは答える。
「それだけ?」
「うん、」エリコは頷いた。「それだけ」
「……あれ?」新田はエリコの顔を見ていて何かに気付いたような目をする。「うーん、違う?」
「うん、きっと違うわ」
「『ノベルズ』って徳富が見たいって言っていた劇のことかな、」男は新田からチケットを取り眺めた。「うわっ、劇ってこんなに金取るの?」
そんなことを言われてエリコは少しむっとする。「なによ、その言い方は、」やっぱりエリコは根本的に全ての男に腹が立つらしい。わざわざ鋭い目を作って睨んでしまった。しかし、そうじゃない。エリコは首を横に振った。「いえ、そうじゃなくて、今、」そう、今よ。「あなた徳富って言った? もしかしてあなたが、千場君? いや、阿倍野君、かしら?」
男はチケットから目を離して、エリコの目を見て、頷く。
「ああ、やっぱり、そうか、そうなんだ、予想していた未来よりも随分違うな、調子狂うな」エリコはもっと魔法が飛び交うハードボイルドな展開を予想していた。予想外だ。秘密の地下牢を見つける前に、簡単に見つかった。だから力が抜ける。すっかり演技を止めて壁にもたれているロカを見てさらに力が抜ける。
「そうだけど、……俺はお前のことを知らないんだが」
「当たり前よ、」言ってエリコは大きく息を吐く。「とにかく、無事で何よりよ、どうして無事なのかは分からないけど、スナオが喜ぶわ、それと私はエリコよ、グラス・ベルのエリコ」
「お前、徳富のことを?」
「お察しの通りよ、私は昨日の夜スナオと一緒に水と雷の魔女から逃げた、そしてこのホテルに捕えられたスナオの大事なお友達を助けに来た、捕えられていなかったけど、」エリコは早口で説明した。「それと、お前じゃない、エリコよ、男ならエリコ様、と呼びなさい」
「いや、そんなことより、徳富は今、どこに?」阿倍野はエリコに近づく。
背の高さがとても苛立たしい。苛立ちを抑えて答える。「屋上にいるわ、グラス・ベルの仲間と一緒にね」
「……まったく、いつもひょっこり帰ってきやがって、」阿倍野は微笑んだ。その表情には安堵が満ち溢れている。その表情にカチンと来る。台詞にもやっぱりカチンと来る。ここに辿り着くのがどれだけ大変だったかを二時間かけて怒鳴り続けてやりたい気分だ。「じゃあ、徳富を連れて来てくれ、もう誤解は解けているから」
「ふんっ、」エリコは腰に手を当てて頷いた。「分かったわ、連れてくる、連れてきてあげる、ま、とにかく、もう何もかも解決しているって思ってもいいのかしら?」
「千場が人質を取ってどこかへ飛んで行ってまだ帰って来ないけどな」
「……人質って、」エリコは額を触った。「……全然解決している風には聞こえないんだけど」
「今晩はスイートルームに泊まれるんだから、そう思ってもいいんじゃないか?」
それは、それは、エリコにはとてもなんというか、引っかかる情報だ。「……新田ちゃん?」
「はい、なんですか?」
「阿倍野君とスナオの分、もちろん別々のスイートルームを用意しているわよね?」
「あ?」なんでそんなことを聞くんだ、という阿倍野の表情。口の形。
「はい、当たり前です!」新田は威勢よく答えた。「男女を一緒にスイートルームになんて泊まらせません、ええ、泊まらせません!」
「優秀ね、偉い、偉い」エリコは新田の頭を撫でた。
「えへへ」新田の反応はとても可愛い。子犬みたいだ。耳みたいに結んだ髪の毛が揺れる。
「それから、一つだけ言っておくわよ、阿倍野君っ!」エリコは人差し指を阿倍野に向けた。「私とスナオはキスをしたのよ!」
「……はあ?」阿倍野の反応はとても薄かった。いや、どう反応したらいいか戸惑っている表情。いや、余裕の表情なのかもしれない。
新田の反応の方が大きい。「キ、キスをしたんですねっ! 凄いっ!」
とにかくエリコはもう一度念を押す。「いい、阿倍野君、私とスナオはキスをしたんだからねっ!」
「……あ、ああ、分かったよ、キスをしたんだな」
「本当に分かってる?」エリコは阿倍野を睨みつける。
「分かったって」
じっとエリコは阿倍野の目の奥を観察した。阿倍野は後ろに後退した。廊下の壁に背中が付くまでエリコは追い詰めた。「分かりました、……エリコ様」
「分かってくれたらいいのよ、」エリコは微笑みを作った。「分かってくれたら、それで十分だわ、それじゃあ、スナオを呼んでくるね」
エリコは緑色の扉を開けて非常階段を登った。鉄骨の間を潜り、屋上に出る。三人は貯水タンクの影に隠れているはずだ。
しかし、いなかった。「変ね?」
場所を変えたのだろうか?
しばらく屋上を歩いた。大きな声を出して名前を呼んだ。それでも見つからないから箒に跨った。高い位置から屋上を見下ろす。いない。三人が、いない。洗濯物の色彩が変わっている。セクシィなベイビ・ドールがあった場所には、ユニオン・ジャックのステテコパンツがはためいていた。




