第三章⑤
大浴場から阿倍野と新田と嘉平はロビィに移動した。ロビィに集合していた説明を求める顔をしている男たちに嘉平は歯切れのいい声で説明を始めた。鳴り響いた警報は誤作動であること、従業員たちが騒がしくしているのはそのせいであること。その不明瞭な説明を聞いて全員が首を傾けながらもそれぞれの部屋に戻ったようだ。
「ふぅ、」嘉平は一息吐いて、額に浮かんでいた汗を袖で拭く。「とりあえず、従業員を集めて説明しないといけませんなぁ、」嘉平はフロントのカウンタの受話器に手を伸ばす。ダイヤル後、天井近くのスピーカから鉄琴の音。「業務連絡、七百番、七百番」
嘉平の声も僅かなラグを伴ってスピーカから流れる。
「七百番?」阿倍野は新田に尋ねる。
「緊急集会のこと、全員ロビィまで走れ、ってこと、」新田は人差し指を立てて言う。「厳戒態勢は九百番」
「ああ、客に放送の内容を知られないようにってことか、なるほど」
「トラブル発生は九十一番」新田は人差し指をくるくる回しながらカウンタまで歩く。
阿倍野もそれに続きながら帳簿を捲っている嘉平に向かって聞く。「あの、徳富は、……俺と千場以外に誰か捕まっていると思うんですが?」
嘉平は老眼鏡を外して顔を上げる。「他に? いいや、君と千場君だけだと思う、美作が牢屋に入れたのは、他の誰かのことは聞いてないね」
「群青色の髪の魔女と紫色の髪の魔女が、昨日の夜、俺たちを置いて逃げた徳富を追いかけて捕まえたと思うんだけれど、派手なワンピースを着た女だ」
「中渡瀬と市野井のことかな、そういえば二人の姿を見てないね、二人ともいつも昼過ぎに起きて来るから、てっきりまだ寝ているのかと、そういうことだったのか、まだ追いかけているということかな」
「徳富は魔女じゃありませんから、それはおかしくないですか?」
「街の中を、あるいは山の中を上手く逃げているのかもしれませんな、市野井は美作のお仕置きを酷く怖がっていますから、捕まえるまでは帰って来ないのかもしれません」
「上手く逃げられるほど、アイツは運動神経よくないんだけど」阿倍野は笑う。
嘉平も笑う。「中渡瀬と市野井も、誰かを上手く捕まえられるほど優秀な魔女じゃありませんよ、二人とも凄い力の持ち主なんですが、まだ幼い、まぁ、ひょっこり戻ってくるとは思うけれど」
「そうですね、徳富もなんでもない顔で、今は新宿にいるかもしれない」
「……ねぇ、アキヒト、」新田はカウンタに肘を付いて上目で聞く。「その、徳富って人は可愛い人なの?」
「可愛い子ぶってるな、いつも」
「あ、じゃあ、可愛くないんだね」新田は安心したように微笑む。
「いや、可愛いんじゃないか」
「え?」新田はなにやら深刻そうな顔をする。「私よりも?」
「何言ってんだ、お前?」
「いいから答えて」新田は体を揺らす。まるで餌を待つ子犬。犬の耳のような髪の毛も揺れる。その仕草の意味は犬から連想してつまり、早く寄越せ、だろうか?
「魔女が好きそうな顔だよな、知り合いが言ってた」
「なんだ、そうなんだ、」新田はまた安心したように微笑む。そしてすぐに顔の表情を変える。「それで、アキヒトとは、ズバリ、どういう関係なの? どういう関係なの?」
「大学の研究室の後輩だ」
「それだけ?」意外そうな反応。
「それだけって、なんだよ?」
「徳富さんとの思い出話が聞きたい、聞いて分析する」
「分析って何を?」とにかく聞かれたので阿倍野は徳富との出会いから昨日までの起こった印象的な出来事を掻い摘んで話した。
「……何それ、羨ましい、」新田は悲しい目をして唸る。「うー、ずるいよ、同じ魔女なのに、くそぉ」
「羨ましい?」阿倍野は新田がやり場のない怒りを堪えるような表情をする意味が分からない。「それに徳富は魔女じゃない」
「私からしたら、十分魔女だよ、私と徳富さんのどちらかが魔女って言われたら徳富さんの方が魔女だよ」
「確かにあの頭の回転の速さは魔女って言ってもいいかもしれないが」
「違うよ、私が言っているのは、そういう意味じゃなくてぇ、」新田は急に小声になる。「……アキヒトと同じ時間を過ごしたんだよ、長い時間、アキヒトと一緒に研究したんだよ」
「まぁ、同じ研究室だから、一緒に研究はするよなぁ」
「そうじゃなくて、だから、その、私だってアキヒトと一緒に、」
新田が跳躍して阿倍野に顔を近づけたところで、嘉平が大きな咳払いをした。新田は嘉平を見る。「長くなるお話はお部屋に戻ってからしていただけませんか、お嬢様」
阿倍野は後ろを振り返った。すでに新田ホテル中の従業員が集合して静かに隊列を作っていた。新田も後ろを振り向く。新田は瞬間的に顔をピンク色にして、その色を従業員に見られないように俯いて阿倍野の袖を引っ張る。阿倍野はそれに従う。新田は早足でロビィから出る。エレベータに乗った。
扉が自動的に閉まり、沈黙。
「……おい、いきなりどうしたんだ?」阿倍野は聞く。
「なんでもない、」丁度最上階に着いたベルがチンッと鳴って扉が開く。新田が先に出て右方向へ進んだ。少し行って新田は急に足を止める。新田は首を振り、繰り返す。「なんでもないんだ、」そして肩で大きく息をする。呼吸が整え終わると阿倍野の方を振り向く。顔はほのかにピンク色だ。太陽みたいな笑顔。「そういえば、まだバイオリンが途中だったよね」
「いやバイオリンはもういい」阿倍野は正直に言う。心臓のブレーキがおかしなことになるかもしれない。新田のバイオリンを聞くには、千場の立ち合いが必要だ。
「え、胸を押さえるくらい感動してくれてたじゃない、もっと私のバイオリンを聞きたいでしょ? 遠慮しなくていい、え? 遠慮してるんだよね?」
新田は接近してきて色の分からない目で阿倍野を見る。阿倍野は返事に困って顔を背けた。阿倍野は「うおっ」と声を上げるほど驚いた。新田も遅れて驚く。
廊下の隅に座り込んだ魔女が阿倍野と新田をまじまじと観察していたからだ。丸い眼鏡に、蛇のようにうねった黒髪。レンズの奥は黒目の比率の高い瞳。阿倍野より十歳以上年上だろうが、幼い顔つきをしている。顔色は何日も外に出ていないように青白い。黒い皺だらけのブラウスに、皺だらけの黒い短いスカート。魔女の衣装に近い装い。
魔女かどうかは分からないけれど。
なぜか新田ホテルの女性従業員が着用しているメイド服を一着、ポンチョのように両腕に絡ませている。阿倍野が視線を向けても何か難しい問題を考えているような険しい表情は変わらない。その表情のまま両手の親指と人差し指でL字を作って、最終的に長方形を造る。その長方形を眼鏡の前にかざして、二人を観察する。そして言う。「おっと、そのまま、動かないでくれよ」
全く意味が分からない。阿倍野は首を振った。そのタイミングで後ろから声がした。
「お嬢様、九十一番ですっ」
振り返るとシーツを体に巻いた、頭にカチューシャだけ乗せている、おそらく新田ホテルの女性従業員がこちらに向かって走ってくる。女性従業員の白い肩と腕は素晴らしい造形をしていた。意識せずとも目がいってしまう。充血した目が素敵だ。上気した頬が素敵だ。弱々しい叫び声も素敵だ。「お、お嬢様、九十一番ですっ、その人、わ、私のメイド服を、お願い、捕まえてぇ」
阿倍野の反応は早かった。けれど、すでに近くに丸い眼鏡の魔女の姿はなかった。視線を持ち上げる。廊下の角を曲がっていた。阿倍野は魔女を追って走った。
「フミカ、一体全体どうしたの!? は、裸でぇ!」
「お部屋に掃除しに入ったら、襲われて、脱がされちゃいましたぁ」
後ろでそういうやり取りが聞こえた。魔女は悪い魔女だったのだ。フミカがとても可哀そうだ。阿倍野は魔女から必ずメイド服を取り戻すことを心で誓う。阿倍野は廊下を走る。角で右方向を見る。魔女はその先で左に折れた。阿倍野は走る。突き当りで魔女の姿を見失う。立ち止まる。最上階の廊下は絨毯が敷き詰められている。足音は聞こえない。
「アキヒト、真っ直ぐ行って左!」
新田の声。阿倍野は風と鋼と火の魔女の新田の言葉を信じて真っ直ぐ行って左を向いた。
「ごめん、右だったぁ!」
阿倍野は右を向く。長い廊下を魔女が走っている。その先には非常階段へ出る緑色の扉。上には赤いランプが暗く光っている。阿倍野は声を出す。「待て!」
魔女がそれに反応して振り向いて、悪い笑みを浮かべる。鬼ごっこを楽しむようにその場でくるりと回転。また走り出す。
阿倍野は急ぐ。扉には非常用の箒が一本立て掛けられている。外に飛ばれたら魔女を追う術は阿倍野にはない。距離を考えて追いつける距離じゃない。けれど、フミカとの誓いは破れない。阿倍野は前のめりになって走る。
その時、予想していないことが起こる。
緑色の扉が向こう側に開いて赤毛の少女が顔を覗かせた。赤い色素。火の魔女だ。少女は何かに驚いた表情で、扉の隙間から体を入れ、廊下の赤い絨毯の上に立つ。灰色のジャケットに、緑色のワンピース。その組み合わせは、キャブズか?
とにかく阿倍野は叫んだ。丸眼鏡の魔女は赤毛の魔女に手を伸ばせば届く距離にいる。
「そいつを捕まえてくれっ!」
阿倍野の声に赤毛の魔女は一瞬困惑の表情。
しかし、一瞬で目の形を鋭くした。魔法を編むのかと思った。違った。
赤毛の魔女は丸眼鏡の魔女の袖を掴んで体を密着させて魔法よりも難しいことをする。
いわゆる大外刈り。
一瞬で勝負が決まった。お見事。丸眼鏡の女は背中から廊下に倒れた。鈍い音が響く。赤毛の魔女は叱りつけるように怒鳴った。「四年経っても同じことしてんじゃないわよ!」




