第二章⑨
エリコは朱羽の修道院で両親のいない女の子たちと産まれたときから暮らしていた。その暮らしはとても楽しかった。寂しさは全くなくて、女の子たちと皆で庭の巨大なシーソで遊ぶのが好きだった。魔女になることを夢見てシーソに跨っていた。立派な魔女になることがエリコの夢だった。
十一歳の春。エリコは箒に跨り、魔女になった。髪はほんの少し赤く染まった。属性は火。けれど、マッチくらいの大きさの火をつけることが出来るのに一週間の時間が掛かった。火は最新型の消火器が活躍するほどの大きさになったけれど、最終的にエリコは大きく育った火を持て余した。心の中で騒ぐ火をコントロールすることが出来なかったのだ。
エリコには魔法の才能がなかったのだ。先天的なセンスが欠如していたのだ。図書館で魔導書を読んでみたけれど、難しかった。
つまりエリコは飛ぶことしか出来ない魔女だった。
そういう魔女はキャブズになる。キャブズは東京の人たちの大切な移動手段だが、彼女たちが一般的にどう評価されているのか知っているエリコは絶望的な気持ちになって、誰にも相談できなくて、日曜日の夜、修道院を飛び出した。
いつの間にか、新宿の街を歩いた。
新宿では殺人事件が起こっていて、とても騒がしかった。
その時は、そんなことがあったなんて知りもしなかったけれど。
夜の街に鳴り響く激しいクラクション。
そのクラクションがエリコの絶望的な気持ちとリンクして、エリコはそのクラクションがする方向へ歩いていった。
殺人事件が起こったのは新宿ロカ劇場。人は死んでいなかった。未遂事件で、すでに犯人も捕まっていた。被害者は舞台女優で、加害者は熱狂的な男性ファンだった。
劇場の入り口は立ち入り禁止のテープで塞がれていた。その前には警察官と新聞記者、野次馬でごった返していた。劇場で開演を待っていた客がゆっくりとした足取りでテープを潜り、劇場から離れて行く。
エリコは見慣れないセンセーショナルな光景に近づいた。染まりたいと思ったのだ。違う色に染まりたい。きっと複雑な気持ちだった。エリコは人込みに割って入った。体が小さいからすぐに出来事の中心まで近づけた。
昼間の太陽よりも明るい照明で照らされ、写真を撮られている女性が記者に向かって何かを叫んでいた。肩が露出する黒いドレス姿の丸い眼鏡を掛けた長い黒髪の女性は何かを叫んでいる。「……だから、言っているでしょ、明日はやりますよ、ええ、本当は今からでも再開したいくらい、え、何、自粛? どうして自粛なんてしなきゃいけないんですか!?」
彼女の剣幕に記者たちは怯んだ。
「……けれど、」記者の一人が声を上げる。「ヘンリエッタ役の被害者の河村ミナトさんは軽傷で済んだとはいえ、精神的なショックで」
「それが何だっていうの!?」修道院のシスタが絶対に見せないような鋭い表情で女性は言う。呼吸を整えて、眼鏡の位置を直す。「なんでもないことだわ、ミナトが死んだって関係ない、他の誰かに役を与えるだけ、前から私はルックスとスタイルだけで大人気なミナトの中途半端な演技が大嫌いだったの、丁度いいわ、死んでくれて」
「ははっ、ロカさん、ミナトさんは死んでいませんよ、」先ほどとは別の記者が笑いながら言った。その記者はエリコの近い場所にいた。「ミナトさんが死んだら東京中のファンが泣いて騒いでパニックに……、すいません、すいません」
記者が謝罪して逃げるように後ろに下がったのはロカという女性が記者の胸ぐらを掴んで地面から少し浮かせたからだった。記者が後ろに下がってくれたおかげでエリコはロカのことをよく見ることが出来た。ロカもエリコをよく見ていた。どうして見られているのか、不思議だとはその時は思わなかった。
しばらく沈黙があって。
「女優のミナトは死んだ」ロカは黒髪を払った。一度、カメラのシャッタの降りる音がした。魅力的な女性だとエリコは認識した。
「あんたたちから伝えて、ミナトに、もう劇場に戻ってくるなって、戻ってくるな、この××××野郎って伝えておいて、それから、」ロカは人工的な笑みを作ってエリコの手を強い力で掴んで引っ張った。「代役はこの娘」
「え?」エリコは目を丸くしたままロカの横に並んでカメラの被写体になる。
「私が君をスターダストにしてあげる」ロカはエリコの耳元で囁く。
「スターダスト?」スターじゃなくて?
「断る理由なんてないでしょ?」ロカは威圧的に言う。
「……ない」エリコはあまり考えもせずに同意した。
次の日の新聞のエンターテイメントの欄には、そのときの写真が掲載された。エリコは壮大な未来に胸を躍らせている素敵な表情をしていた。実際は簡単に返事をしたことに後悔していたし、軽くパニックになっていた。五分前の世界には戻れないと思って怖かった。
でも、エリコはそういう表情をしていたのだ。実は、本当は、そう思っていたのかもしれない。とにかく、エリコは舞台女優としてデビューすることが決まった。
エリコはロカに一週間の猶予を与えられた。
まず、髪の色を真っ赤に染めた。優秀な火の魔女のような鮮やかで純粋な赤。エリコの与えられた役はヘンリエッタというファーファルタウの宮殿に仕える優秀な火の魔女。
『イエロー・ベル・キャブズの空中円形交差点』。それが舞台の題名だった。
YBC四部作の最終章。呪いによって魔法を封じられ、空を飛ぶことしか出来なくなった魔女たちの群像劇。当時の東京では凄い人気だった。エリコは演劇には興味がなかったので、その話を全く知らなかった。ただ、YBCの主人公の名前はエリコだった。不思議な偶然だと思った。少し運命を感じた春。
ヘンリエッタはYBCのメンバのアメリアという呪われた魔女の親友で、『空中円形交差点』では重要な役どころだった。ヘンリエッタが主人公じゃなくてエリコは落胆した、ということは全くなかった。演劇なんてしたことはなかったし、エリコは演劇を見たことすらなかった。エリコは違う世界に産まれたような気がした。気分は絶望的ではなかったが、よく眠れない精神状態だった。稽古中、ロカはとても厳しかった。台詞を噛むと頬を叩かれた。何度も泣いた。涙を舐めるとしょっぱい。その代わりに女優の女の子たちはエリコに優しくしてくれた。アメリア役の女の子はエリコの話を真剣に聞いてくれて、優しいアドバイスをくれる。エリコはアメリア役の女の子のことを好きになった。その女の子が知念クミだった。見た目はエリコよりも下に見えたが、二つ年上で、エリコと同じ悩みを持つ魔女だった。「でも、YBCの物語に入っていくとそんなこと、どぉうだって良くなっちゃう、魔法が編めないなんてどうだってよくなっちゃうよね、私はその現実から逃げるために劇団のオーディションを受けたけど、この物語に出会って逃げる必要なんてなかったって思う、そう思わない? エリコちゃん」
一度、エリコは舞台を通しで見せてもらった。ロカに内緒で女の子たちがエリコを喜ばせるために企んだのだ。ヘンリエッタの役は舞台に出ていない女の子がその都度、演じてくれた。稽古もしていないのに、エリコよりも上手だった。エリコは悔しいと思った。心臓に針を刺されたのだと思う。刺激されながら舞台を眺める。知念が言っていたことと同じ気持ちになった。魔法を編めないことがどうだってよくなった。キャブズに対する価値観も変わった。
そして一週間後。
チケットは三日前にソールドアウト。チケットを持っていない客も劇場に押し寄せたため急遽当日券を販売。劇場に入れるだけ人を入れた。
そして。
開演。
エリコは何度も台詞を間違えた。
けれど皆がフォローしてくれた。
アメリアとのキスシーンでは知念はエリコの口の中に舌を入れてきた。
エリコはヘンリエッタの最後の台詞が好きだ。
「飛べぇ、アメリア!」
閉幕。スタンディングオベーション。アンサンブル・カーテンコール。
ロカが最後に出てきて眼鏡の位置を正して怒鳴る。
「お前ら、さっさとウチ帰れ、コラァ!」
それでも拍手は鳴り止まなかった。
『空中円形交差点』はそれから約二か月間公演された。エリコはその二か月間、ヘンリエッタを演じたが演技は全く上達しなかった。向いてないのだ。魔法と一緒で向いていない。エリコは不器用なのだ。けれど世間はエリコの演技を絶賛した。雑誌はエリコの特集を組んだ。エリコは評論家との対談で必死に自分の演技がいかに稚拙なものであるかを説明した。けれど評価は下がることはなかった。公演の最終日はロカ劇場よりも広いホールで行われた。沢山の人々が押し寄せた。エリコはまるで夢を見ているようだった。
その翌日のことである。打ち上げ開場はロカ劇場の神聖なステージの上だった。深夜に始まって、それは朝まで続いて、皆昼までステージの上で寝ていた。そこへ現れた人物がいる。殺人事件以来姿を見せなかった元ヘンリエッタ役の河村ミナトだった。河村は別人のように太っていた。河村は皆の前でロカに謝罪し、殺人事件がただの熱狂的なファンの猟奇的な行動じゃなくて、男女関係のもつれだということを説明して、それはすでに記者に記事にされて皆知っていることだったが、そして「私は演劇以外の世界で生きていくことは出来ない」と涙を流して訴えた。
ロカは「ウチ帰れ、コラァ!」とは言わなかった。
「全速力で遠回りしなくちゃいけないよ」ロカは乱れた頭を搔いて優しく言った。
その日、エリコと知念は劇団から脱退した。しばらく日本中を旅して、たまには大変な目に合って、女優で稼いだお金が底を付いた時に熊谷の駅で新聞の求人情報を見た。そしてエリコと知念はキャブズになった。グラス・ベル・キャブズになって、萌黄色のワンピースと灰色のジャケットを着る人生。悪くない。後ろに急ぐ人を乗せて飛ぶ、人生。悪くない。昔のことを思い出しながら、エリコはそんなことを考えていた。
そんな微睡むような時間は突然。
終わった。
本当に、急だった。
急過ぎて、エリコは事態をしばらく把握出来なかった。一緒に並んで飛んでいた知念も、ヒメゾノも、エリコと同じ気持ちで、四百メートルくらい離れた場所に飛んでいる二つの魔女の影を見ている。
群青色と紫色の髪の魔女の登場。
昨日の夜、徳富を追っていた魔女の二人だ。徳富は魔女たちが後ろにいることを真っ先に気付いてエリコに伝えたのだ。その時。
周囲が薄暗くなった。空を見上げると、巨大な柔らかい水晶のようなものが浮かんでいる。エリコがそれについての感想をまとめる前に、その柔らかい水晶のようなものは落ちてきた。エリコは目を瞑って悲鳴を上げた。死んだかと思った。死ぬまではいかなくても、経験したことのない痛みに襲われてしまうのではないのかと思った。
けれどエリコは無事だった。目を開ける。
知念も、ヒメゾノも、突然のことに目を丸くしているが、何事もない。エリコは地上が濡れているのを見て、柔らかい水晶が、水の塊であったことを知る。エリコの赤毛は濡れていなかった。知念の髪も、ヒメゾノの髪も、後ろの徳富の可愛いマッシュルームヘアも。
「……スナオちゃん?」知念はエリコに近づいてきて表情を変えて声を出した。「スナオちゃん、何をしたの、一体全体、いや、凄いもの見ちゃったよ、なぁに、魔法?」
「違うよ、魔法じゃなくて」
「そうよ、知念、何を言っているの、スナオは魔女じゃないんだから、ただの可愛い女の子なんだから、」エリコは難しい表情をして聞く。「……で、スナオ、何をしたの、私、何も見てなくって」
「僕は見たよ、」ヒメゾノも近づいてきて両手を箒の柄から離して興奮気味に言う。「バリア、バリアだよね、バリアで水の塊を吹き飛ばしたんだよね、魔法だよね?」
「うん、アレは間違いなく魔法だった、」知念がヒメゾノに同意する。「スナオちゃん、君ぃ、実は、魔女っていう、そういうことかいなぁ?」
「違うって、知念ちゃん、魔法じゃなくて、魔法工学、厳密に言うとバリアじゃなくてね」
『魔法工学?』グラス・ベルのメンバはその単語を聞いただけで一斉に首を傾げた。
「そう、私の来ているこの白いワンピースのスパンコールが水を弾いたんだよ」
「すぱんこーる?」ヒメゾノは首を傾げる。「どこにスパンコールが?」
「あ、でも、光ったかも、スパンコール、一瞬だけ、こう、」知念は手首を振ってきらめきを表現している。「キラキラっと」
「うん、そうそう、」徳富は頷いた。「一瞬だけね、キラキラっとなるんだよね」
「え、なぁに、」エリコは首だけ動かして後ろの徳富を見ようとする。「え、どこがキラキラしているわけ?」
「今はキラキラしてないってば、」エリコは転車台の車両のようにゆっくりくるくると回転し始めた。「エリコ、それよりちゃんと前を向いてってば」
「スナオちゃん、でもどうして、そんなワンピースを?」ヒメゾノが問う。
その時紫の魔女が光るのが視界に入る。遅れてポップコーンが弾ける音。
プラズマ。魔女はプラズマになって飛んでくる。
グラス・ベル・キャブズのメンバは互いに目を合わせて散開する。
「ビックリし過ぎて忘れていたわね、」エリコは地上に向かってロールしながらプラズマを避けた。「群青と紫の魔女のこと」
プラズマは一度弾けて止まった。
紫色の魔女は乱れた髪を直しながら知念、ヒメゾノ、エリコの順で見て、どれを標的にしようか考えているようだ。いや、考えるまでもなく、魔女たちの標的は徳富であることは違いない。紫色の髪の魔女はエリコの方向に飛んできた。
「え、エリコっ、」プラズマを見たせいだろう、徳富は震えていた。「は、早く飛んで、昨日の夜みたいに」
「そうね、」エリコは頷いて箒の柄を持つ手に力を入れて、加速しようとして、止めた。エリコは思った。結局、一緒なんじゃないかって。早く飛んで魔女たちより早く新田ホテルに着いたところで、魔女たちはやってくる。エリコは手首をクルクルと回転させて、反転した。紫色の髪の魔女に向き直る。「いや、やっぱり、遠回りしましょう」
「ふえ、ええ、何言ってるの、エリコ?」
紫色の魔女はエリコの前で止まった。
顔つきは幼い。警戒しているのか、エリコから距離を取って浮かんでいる。
群青色の魔女が紫色の魔女に並ぶ。
「あ、アンタたち、ターキィにいた、メイドじゃん!」エリコの横に並んだ知念が声を上げる。「なんだよ、え、もしかして、あれぇ?」
「ん、ターキィにいたって?」エリコは知念を見る。
「あなたはとても素晴らしいヒントでした、」群青色の魔女の美しい声はエリコの耳によく届いた。「あなたがとてもおいしいメロンパンを配達してくれなかったら、私たちはまだ熊谷の街を歩いていたと思います」
「知念、どういうこと?」エリコは聞く。
「別に私のせいってわけじゃないと思うんだなっ、」知念はエリコと目を合わさない。エリコと目が合わない位置に移動しながら呟いている。「私は毎日のルーチンをこなしただけ、ただ偶然が重なり合ってしまった、そう、それだけのことで私は悪くないと思うんだなっ、うんっ」
「だから、知念、どういうことなのよっ!?」エリコは知念の首根っこを掴んで引き寄せる。エリコはどうして知念が偶然を主張するのかまだ分かっていない。
「乱暴だよ、エリコちゃん!」知念はそれでも目を合わせない。「ご勘弁、ご勘弁!」
「萌黄色のワンピースを着ていたからでしょ、」いつの間にか傍に浮かんでいたヒメゾノが言った。ヒメゾノは状況を把握したように落ち着いている。「萌黄色のワンピースを着ていたから、知念さんがエリコちゃんの仲間だって分かったんだよ、それで見つかって、今、こんな風にピリピリしているんだ、ピリピリって」
「知念ってば、もうっ!」エリコは知念の襟首から手を離した。「前もこんなことなかったっけ?」
「あったよ、確かにあったよ、よく覚えているよ、」知念は声を震わせながら答える。「でも、前も今も偶然、運が悪かっただけ、私は何も悪くないっていうか、悪くないじゃん、怒んないでよ、エリコちゃんのバカぁ!」
「なっ、」エリコは知念の唾を浴びて熱くなる。「バカって何よ、バカって!?」
「怒んないでよ、もうっ!」
「別に怒ってなんてないわよっ!」
「ふ、二人ともこんなときに、」ヒメゾノが弱々しく間に入ろうとする。「止めようよ」
『男は黙ってろっ!』エリコと知念の声はユニゾンした。
「ひっ」ヒメゾノの顔は歪んで今にも涙がこぼれそうだった。
それからエリコと知念は何往復か罵り合った。
そろそろエリコの手が出そうな時だった。
「いい加減にして!」怒鳴ったのは徳富だった。頭のすぐ後ろで叫ばれたから、エリコの耳はキーンとなった。「いい加減にしてよ、よく分かんないけど今は喧嘩している場合じゃないでしょ、巻き込んだのは私だけど、目の前に敵がいるんだよ、敵がドラゴンだったらもう骨まで焼けてるよ、あと、二人ともボキャブラリが少ないよ!」
『……ごめんなさい』エリコと知念はしゅんとしてしまった。
「しゅんとしないでよ、魔女なんだからっ!」
「だ、だって、スナオが怒鳴るんだもん、」エリコは拗ねていた。「スナオに怒鳴られたらしゅんとしちゃうよ」
「うん、」知念も同意する。「だってスナオちゃん、怒るタイプじゃないから、余計、その、心臓に来るっていうかぁ」
「ああ、もうっ、怒ってないよ、私は怒ってないよ、」徳富はまるで小学校の先生のように二人を宥めるように言った。「怒ってない」
『本当?』
「うん、だから」
『だから?』
「お願いだから前を向いてよ、二人とも」
徳富に言われてエリコと知念は前を向いた。二人の魔女がいる方向だ。二人の魔女は欠伸をしていた。
「もう、よろしい?」群青色の髪の魔女が言う。
「見苦しいところをお見せしちゃったわね、」エリコは赤毛を払いながら言う。「どうぞ、言いたいことがあるのなら聞こうじゃないの」
「この熊谷の空で小さな戦争を起こさないために提案があります、」群青色の髪の魔女は人差し指を天に向かって立てる。「そのビニル製のワンピースを着た女性を私たちに引き渡してください、丁寧に、友好的に、そして速やかに魔女のお三方はお家にお帰り下さい、そうすれば戦争は回避されます、そういう段取りで、いかが?」
「その提案に私たちが乗るとでも?」
「いいえ、」群青色の髪の魔女は首を横に振った。「思いませんけれどでも、あなたたちがその女性を大事にしている理由が、」
「分からないの?」エリコは挑発的に言う。
「ええ、しかし、一つ、心当たりがあります」
「それはなに?」
「真倥管、」群青色の魔女は歯切れよく言う。「真倥管の存在を知ったキャブズのあなたたちは、新田ホテルから真倥管を奪おうとしている、だから進路は北、その女性は新田ホテルの情報を、」
「あははっ、」エリコは笑った。「何を言うのかと思えば、そんなつまらないこと?」
「違うのですか?」群青色の髪の魔女はとても意外そうに目を開いた。
「キスをしたのよ!」エリコは大きな声で群青色の魔女の声を切る。「私とスナオはキスをしたの、だから助けるの、スナオの大事なお友達を助けるのよ、真倥管なんてどうだっていい、何それって感じ、キスをしたから私は飛ぶの、キスをしたから私はスナオを、あんたたちには絶対に渡さない!」
徳富はエリコをギュッとした。エリコは徳富の手を触る。暖かい。
「恥ずかしくないの」徳富の小さな声が聞こえた。
「黙っていられないのよ、」エリコは小さな声で答えた。「なんだかとても熱っぽくて、黙ってなんていられないわ」
群青色の髪の魔女はしばらく表情を変えなかった。けれど急に、顔つきをとても魔女にして笑い出す。「あははははははははははははっ」
エリコの背中に鳥肌が立つ。鳥肌は嫌い。「何がそんなに可笑しいわけっ!」
「ごめんなさい、本当に可笑しくて、こんな気持ち初めて、新しい、新鮮、」群青色の髪の魔女は涙を拭った。「すいません、本当に、えっと、確認しますね、彼女を引き渡さない、そういうことでよろしいんですね?」
エリコは箒の柄を持つ手に力を込めて頷いた。「何度も言わせないで、私はスナオを誰にも渡さない」
「はい、実は私も、」群青色の魔女は呼吸を整えている。「そういう未来を期待していました、暴力に溢れた、とても純粋に悦楽的な未来」
群青色の髪の魔女は無邪気な顔をする。やばいと思った。
少しだけ。ほんの少しだけ。……いや、コレは本気で。
……やばい。
魔女はエリコの目を見ている。瞳の輪郭が光っている。とても洗練された鋭いものを感じた。ナイフで頬を切られたみたい。錯覚だが、エリコは痛みを感じていた。背筋が凍る。この表情はとても、徳富には見せられない。
「どうしてそんな顔をするの?」水の魔女は不思議そうに首を傾けた。「あなたは素晴らしい魔女、そうですよね? ……いや、もしかして、それとも、……違うんですか?」
エリコは魔女に表情を見られないように旋回した。正直言って、エリコは水の魔女の力とセンスを測り兼ねていた。彼女の魔力は目を覚ましたように膨らんでいく。女心に鈍感なエリコでもそれは分かった。隠していた牙を見せた虎。隠していた舌を見せた蛇。隠していた爪を見せた黒猫。海から姿を現した鯨。そう、鯨のように巨大。
「知念、ヒメゾノ、」エリコは素早く発声して、右腕を大きく回転させる。「全速力で逃げるのよ!」




