第二章⑧
美作は相当寂しかったのか、小一時間ニシキのことを抱き締めていた。いつの間にか彼女は眠ってしまっていた。寝言を言う美作はとても可愛らしかった。きっと本当の妹の名前なのだろう、それを何度か唇を動かすことなく呼んだ。
ニシキは美作が起きないように慎重に上半身を起こして、乱れたメイド服を正した。ボタンを留める。鏡の前に立って髪型を整える。
すると部屋をノックする音。
ニシキは声を出さずに扉を開けた。
部屋を訪ねてきたのは先ほど食事を運んできてくれた、大木という男性だった。無愛想な表情は慌てている。額に僅かに汗を搔いているようだ。大木はニシキを一瞥。何も言わずに扉を強く押して部屋に入る。ニシキは少しバランスを崩す。ムッとなる。「あのっ、常識的に考えて、女性の部屋に勝手に入っちゃいけないと思うんです!」
「おいっ、美作、起きろ!」
大木はニシキを無視。大きな声を出して、美作が寝るベッドに近づいた。言葉はすごく訛っている。大木は美作を包んでいる毛布をはぎ取る。「起きろってんだよっ!」
「……ん、なぁに?」美作は髪の毛を搔きながら不機嫌そうに上半身を起こした。目は半開きだった。「……大木ぃ?」
美作は状況が呑み込めないようだった。大木は美作の肩を触って揺する。「大変だ、美作、ろ、牢屋が開いていてぇ!」
「ろうやぁ?」美作の目は完全に閉じていた。
「誰もいねぇんだよ、誰も!」大木は激しく肩を揺する。「さっき、ほんの五分前だ、見回りに行ったら誰もいねぇ」
「……だれもいない?」美作は目をゆっくりと開いてゆっくりと大きくした。「牢屋に誰もいない?」
「逃げられたのかも、しれない、鍵が開いていた、どういう方法を使ったのか分かんねぇが、牢屋に誰もいねぇんだっ、美作、おい、どうすんだよっ」
そのときアナウンスが聞こえた。『業務連絡いたします、七百番です、七百番です』
七百番は確か、従業員一同ロビィに緊急集合の番号である。
「……逃げた、そんなっ、」美作は何かを考えるように額に手を当てた。それから自分の上半身が下着姿だということに気付いて大木の顔と腹部と殴ってから、服装を正して、シルバの髪の毛をポニーテールにまとめた。声のボリュームを上げて美作は言う。「信じられない、逃げたなんて嘘でしょ、ホントなの、大木?」
「嘘なんて言わねぇって」部屋の外で大木が声を出す。
「ああ、腹が立つ!」美作はヒステリックに床に転がっていた枕を蹴り飛ばした。
その魔女らしい振る舞いにニシキは戸惑う。「……あ、あの、美作さん?」
「お姉ちゃんでしょ、ニシキ、」美作はニシキの頭を撫でて微笑んでから、深刻な表情でニシキの背中を押す。「一緒に来なさい」
美作とニシキは部屋を出た。部屋の外で手拭いを鼻に当てている大木に合流する。その手ぬぐいは紅く染まっている。少し可哀そうだと思った。三人は牢屋があるという地下の部屋へ早足で歩く。事態を知らないニシキはただ後ろに付いて歩いている、という具合だった。
「一体二人はどこに消えたの?」美作は早口で大木に聞く。
「それが誰も見ていないって、美作の部屋に来る途中すれ違った奴、全員に聞いた、知らないって、音も何も聞いてないって」
「牢屋の鍵は壊されていたの? 火薬の匂いは?」
「いいや、まるで誰かが開けたみたいに綺麗なもんだった、針金でも使ったんだろうか?」
「そんな牢の鍵はそんな単純に出来てない」
「じゃあ、誰かが鍵を持ち出して」
「鍵は私のポケットにある、他に持っているのはフエちゃん、いえ、お嬢様だけよ」
「あ、そういえば、朝からお嬢様の姿を見ていないな」顎を触りながら大木が発言する。
「ちょっと、ちょっと、」段々と美作の声が高くなっていくのが分かった。「なんだか、嫌な予感がするじゃないのよ、もうっ」
「お、お姉ちゃん、」ニシキはタイミングを見計らって声を出した。「その、私、状況がよく分かんないんですけど」
「ああ、そうね、そうだわ、ニシキには説明していなかったわね、昨日のシャンデリアのことは、まだ全然、」それから美作はニシキに早口で説明した。昨日の夜のこと。シャンデリアを壊した二人の男と逃げた女のことを。「そういうわけでね、シャンデリアは粉々になったの、本当に迂闊だった、まさかピストルを持っているなんて」
「私は、そういう人たちから真倥管を守ればいいんですね?」
「そう」
「分かりました、」ニシキは情報を整理することが出来て少し落ち着いた。「真倥管ってどんな形なんですか?」
「普通の真空管と見た目はほとんど変わらないわ、いや、私から見ればほとんど同じ」
「私、普通の真空管も見たことないんです」ニシキは視線を下に傾けて嘘を付いた。
「見せてあげる、」美作は立ち止まって進路を変えた。「うん、もしかしたら五分後の未来に必要かもしれないから、それに、ピストルも」
大木を先に行かせて、二人はフロントに寄る。フロントには嘉平が立っていた。「こりゃあ、大変なことになりましたな」
「ええ、本当にね、」美作は苦笑で返す。魔女の顔。「状況を教えて」
「今、従業員総出で、探し回っているところです」
「ああ、日曜日だっていうのに」美作は大きく息を吐いた。
「何をおっしゃる、」嘉平は朗らかに笑った。「うちは日曜日が一番暇でしょうに」
「それもそうだった」美作は微笑んだ。
美作はフロントの奥へ入って行く。ニシキはピタッと金魚のふんみたいに美作についている。美作は様々な資材の奥に隠れていた金庫に鍵を指してダイヤルを回して開けた。わざと隠しているのかもしれなかった。「ほら、コレが真倥管」
美作は二つの真倥管をニシキの顔の前で揺らす。
「これが?」ニシキは真倥管をこの目で初めて見た。とても小さいと思った。いや、それは知っていたことだが、とても凄いものなのに小さいと思った。存在感は電球と変わらない。ただ、とても洗練されているとは感じた。ゴールドのメッキが反射する光が、ニシキ好みだった。触ったら冷たいだろうな。それを自分の熱で温めたいと思う。ニシキはそれに触ろうとした。けれど、美作が寸でのところで引いた。「え?」
美作は真倥管をネックレスのように首から下げた。「ごめん、ニシキ、あなたにはまだ触らせられないの、フエちゃんの、」美作は言い直す。「お嬢様の許可がないと駄目なの」
「は、はい」ニシキはぎこちなく頷く。少し残念だった。全く興味のない表情を無理に作成するのは大変なエネルギアを必要とした。
そして美作はピストルを腰に差した。同じ金庫にあったものだ。新田ホテルを騒がせている略奪者が持っていたピストルのようだ。二人は牢屋のある地下へ早足で向かう。鉄製の扉を開き、階段を降りて部屋に着く。
「ここよ」美作は扉を押す。
その部屋の作りは他の部屋と変わらなかった。ただ他の部屋と決定的に違うのは、その半分が白い空間だということだった。その空間との境界に鉄格子が天井からまるで床へ突き刺さっている。太い鉄格子だ。とても異様な雰囲気。白い意味がニシキには全く分からない。大木はその白い空間の中にいて、向こう側から鉄格子の扉を押したり引いたりしていた。
「どうして白いんですか?」ニシキは疑問を口にした。
美作は部屋を見回しながら言う。「向こうで魔法を編んでみなさい」
ニシキは言われた通りに白い世界に入った。大木が先に外へ出た。
「やっぱり鍵を使ったとしか思えないな、傷がない」大木が鍵を観察した感想を言う。
ニシキはそれを聞きながら魔法を編もうとした。
例えば、そう、デイライト。
「大木、コレを持ってなさい、」美作はピストルを大木に渡した。「弾は後三つ」
「ええ、」大木は驚いている。「いや、いいって、そんな物騒なもん、触りたくもない」
「この中ではアンタが一番無防備なんだから、」美作は強引に大木に握らせた。「それにライカもカスミも戻って来てない、戦力になりなさい、先陣を切るのは大木、アンタよ」
「……嫌だなぁ、こんなの」大木はピストルの感触を確かめながら本当に嫌そうだった。
「……嫌だ、」ニシキは閉じた目を開けて発言した。「デイライトが編めない、解かれていく、嫌、何これ」
ニシキはすぐに牢から出た。魔法を編めないというのは恐怖だ。とても気持ちが悪い。
「そう、つまり、そういうこと、」美作はニシキの反応を見て可笑しそうに金髪を触る。「その白い空間に入ったら最後、魔法を編むことが出来ないの、特殊な白が塗られていて、その白は魔法を解いていくの、」言ってから美作は首を振った。「ああ、妹とのコミュニケーションを楽しんでいる場合じゃないわね、大木、ここはもういいわ、お嬢様を探しましょう、細かい状況はよく分からないけれど、まずお嬢様の無事を確認してから、」
「いましたぞ!」嘉平が呼吸を乱しながら部屋に顔を出して叫んだ。
「え、どこに?」美作が詰め寄る。「どこっ?」
「風呂です!」嘉平は口を大きく開けて発声した。
「風呂ぉ?」美作は眉を潜めた。




