第二章⑦
新田は工場の奥へ、入ってきた扉から真正面の別の扉へ阿倍野を誘った。扉の色は入ってきた扉と一緒だった。大きさも。しかしその扉にはダイヤルキィがあった。円周上に零から九の数字が刻まれているダイヤルキィだ。新田は銀色の鍵を差し込んでダイヤルを回す。きっと開けるためには手順があって、新田は右へダイヤルを動かして、数字をダイヤルの上のポイントに合わせている。
「アキヒト、少し目を瞑っていて」
言われた通りに阿倍野は目を瞑った。新田は一分くらいダイヤルを操作していた。「いいよ、アキヒト、目を開けて、それから、この扉を開けて、この扉もとても重いの」
阿倍野は言われた通りにする。重さは覚悟していた分、驚かなかったが、しかし、先ほどの扉よりもすべりが悪かった。出来た隙間に新田が滑り込む。阿倍野が入るためにはもう少し隙間が必要だ。阿倍野は力を入れて動かして、入り込めるスペースを作る。汗が額に滲んだ。
「ここは保管庫、真倥管を保管している場所」
阿倍野は部屋の中に入る。新田は照明のスイッチを押した。狭い部屋が照らされる。通路は細く、並んでは歩けない。大学の資料室のように金属の棚が等間隔に並んでいる。図書館の書庫のようだなと思ったが、匂いは黴臭くない。無臭。新田が棚の間へ進んでいく。阿倍野も続く。試験官のように木製の什器に、真倥管が並べられていた。その数は計り知れないほどだ。その数あるうちの一つを新田は手にして阿倍野の顔に近づける。「この保管庫の棚にあるのは全てトライオード」
「とらいおーど?」聞き慣れない単語だ。
「あ、扉を閉めて、」新田は早口で言った。「不安だから」
「ああ、」阿倍野は扉を閉めた。「それで、とらいなんとかって?」
「三極管のことよ、二極管はレクティファイア、あるいはダイオードとも言うわ、普通の真空管の名称をそのまま私の真倥管には採用しているの」
「種類があるのか、真倥管には?」阿倍野は聞く。「アレはなんだったんだ、ホテルのシャンデリアは?」
「うん、そう、種類があって、七極まで、私は作ったわ、きっと世界が知っているのはレクティファイアとトライオードだけだと思うけれど、ホテルのシャンデリアは違う、私の真倥管じゃなくて、お父様が作っている真空管、私の魔法の力は普通の真空管で増幅されるの、ここを、保管庫を守るためにシャンデリアがあって、私は魔法を編んだ、私のクラクション、新田クラクションはどうだった?」
「うーん、なんていうか、大変だった」
「クレームはショウコにしてね」
「新田はココを守っているのか?」
「うん、私、真倥管を守っているの、ここにあるトライオードをね、トライオード以外は美作が持っているレクティファイア以外、全部壊したの、壊さないのは壊れないほど頑丈なんだ、よりによって一番危ない真倥管が一番丈夫な構造なの、天使が悪戯したんだね、きっと」
「真倥管を狙っている、その、国とか、秘密結社とか、そういうやつらがいるのか?」
「悪い人って、この世に沢山いるんだよ、真倥管を使って自分だけが愉快になればいいと考える人が沢山いるんだよ、私は一年前まで世界には優しい人しかいないと思ってた、私は優しい人たちに囲まれて育ったから、だから知らなかった、私は知らなかったんだよ、アキヒト、」新田の呼吸は僅かに乱れている。震えている。新田は阿倍野から見えない方向に顔を向けた。「真倥管が群馬大学の紀要に掲載されてすぐ、いろんな人たちが私に会いに来てくれた、私は嬉しかったんだ、特別な気がして、でも、そんな特別はいらなかった、悪い人たちばかりだった、それから心臓の音を聞くようになった、悪い人の心臓の音が分かるようになった、悪い人の心臓の音ってとても乱れていて煩いんだよ、アキヒトの心臓の音は不思議、とても冷たくて静かなんだけど、優しくて暖かい、そういう心臓の音を聞けるのはなんだか、とっても幸せなんだ、論理的に説明できないんだけど」
「悪かった、本当に」
阿倍野は言った。大体の事情が呑み込めた。真倥管を巡って由良郷では小さな戦争が起こっていたのだ。少し考えれば簡単に想像出来ることだ。情報がまるでなかったのも理解できる。美作の対応は戦争中ならば当然の対応だと思える。むしろ目の前の新田は無防備すぎるのではないかと思う。
「俺は、俺たちはかなり無神経だった、安心してくれ、俺は力を使って真倥管を手に入れようだなんて、考えない、絶対に」
「なんのこと?」新田は笑顔で振り向いた。
「……その、なんでもない」阿倍野は息を吐いて、話題を変えるために質問する。「その二つは、レクティファイアとトライオード、だっけ? 何か違いが?」
「ほら、ココを見て、」新田は真倥管を指差し説明しようとする。「トライオードだとね、」
「ああ、悪い、そうじゃなくて、」阿倍野は新田のレクチャに対して手を振って遮る。「俺が知りたいのは原理じゃなくて、その効果というか、性能の違いだ」
新田はわざとつまらなそうな顔を作って微笑んだ。「何も知らないんだね、アキヒトは」
「ああ、そうだ、真倥管のことを知ったのは一昨日だから」
「レクティファイアは整流装置、トライオードは増幅装置よ」新田の説明は終わった。
「つまり、その、なんなんだ?」
「もう、分からないかなぁ、」新田は腰に手を当て、口を尖らせながらも楽しそうだった。西嶋教授もよくこういう反応で学生に物を教えている。「魔法を編むためにはまず魔導書を読む必要があるよね、そして魔導書を理解しなければ魔法を編むことは出来ない、それを記憶すればいつでも魔法を編めることが出来る、けれど難解な魔導書は難解な哲学書と同じで理解するためにはセンスと力がないといけない」
阿倍野はよく分からないが頷く。
「言わばセンスがレクティファイア、力がトライオード、この二つを身に付ければ、誰でも、素晴らしい魔女になれる、でも、トライオード一つだけだと悪魔になるの、」新田は繰り返す。「悪魔になるの、分かった?」
「悪魔?」
「うん、悪魔、」新田はニッコリと微笑む。「メタファじゃないよ」
阿倍野は首を傾げながら真倥管を眺める。「……質問がある」
「何でも聞いて、なんだか、アキヒトには、何でも教えてあげたい気分」新田は首を傾けて言う。その仕草の意味は分からない。
「それは助かるけど」正直な感想を返す。
「どうしてか聞かない?」
「え?」
「私はアキヒトに何でも教えてあげるって言ってるんだよ、そういう気分だって言ってるんだよ、分からない? ……その、私の気持ち?」
「気分がいいんだろ、あるいは」阿倍野は少しだけ考える。
「あるいは?」新田は体を寄せてきた。少女の、この距離感は果たして何なのだろう。
「新田は好きなんだろ」
「ふぇ? ……そ、そ、そんな、ストレートだ、嫌だ、困るよ、アキヒト、私、恥ずかしくなっちゃうな、」新田はかなりコミカルな動きを開始した。「う、うん、そうだよ、好きだよ、だって私のことを新田って呼んでくれた人なんて今までいなかったから、その、私の、なんていうかな、……分かりやすかったのかなぁ?」
「好きなことをしゃべるのは誰だって楽しい、俺だって専門のことを千場と議論しているのは楽しいし、それと一緒じゃないか、新田は真倥管のことが好きだから、俺に何でも教えてくれる」
新田はとても冷めた目をした。表情の変わり方はまるで大人の魔女のように激しい。「……それで、質問って何?」
「レクティファイアを使えば、触れば、俺は魔法を編めるのか?」
阿倍野は新田に心臓のことを説明した。心臓に縫合された鬼の魂の存在。箒で飛べるが、それ以外に魔法が編めないということ。魔法の知識はほとんどないということ。千場が縫合術師であるということは黙っていた。
「分からない、」それが新田の答えだった。そして新田は怖いものを見たような表情で阿倍野から少し離れた。怯えている。そうじゃない。「分からない、縫合術? 鬼の魂の心臓? ブレーキ? 分からない、私には、」警戒している。警報機が鳴りそうな予感。しかし、新田は頭を回転させて理解しているようだ。吸収しているようだ。きっと未知の領域を。新田の顔つきは明るくなる。「……そうだよね、私の知らない世界があるんだね、縫合術、私は会ってみたいな、見てみたいな、アキヒトの心臓に鬼を縫い付けた魔法使いに」
「試さしてもらってもいいか?」阿倍野は聞く。
「要求を呑んでくれたら構わない」新田は舌を出して微笑む。
阿倍野はその要求を覚えていたが。「……要求って何だったかな?」
「一緒にホテルを、真倥管を守って欲しいの、悪い人たちから、ずっと、一緒に、約束してくれたら、真倥管に触ってもいい、」新田は阿倍野の手を触る。「私がバーニング・モータに触って、あなたのための真倥管レクティファイアを作ってあげる」
「新田は俺がどんな魔法を編むのか興味はないの?」
「全然ない、」新田は即答して阿倍野を見て想像している。「興味なんてない」
「一度だけでいい、実験だと思って、俺に触らせてくれたら、」それできっかけがつかめるかもしれない。阿倍野は難しい魔法を編みたいとは思っていない。シガレロに火を付けられる程度の魔法が編めさえすればきっとそれで、満足するのだろう。「少し愉快な一日になるかもしれない」
阿倍野は自分で何を言っているんだと笑った。
新田も笑った。笑って舌を出した。「駄目」
「そうか、」阿倍野は息を吐いた。「駄目か」
「あ、アキヒトのことを信じてないわけじゃないよ、まだ私はアキヒトの細かいことをよく知らないけど、その、……素敵、じゃなくて、その、その、……悪い人じゃないのは心臓の音を聞いて分かっているから、でも、ごめんなさい、認可は出せない、認可を得るためには、私との、……将来みたいなものを、誓って貰わないと、駄目なのですよ」
「分かった、諦める」阿倍野は引き下がった。真倥管のことは忘れようと思った。魔法を考えることも、もう止めようと思った。息を吸えるだけで阿倍野はいいと思った。一度死んだ身だ。少しははしゃぎ過ぎなのかもしれないと、阿倍野は冷静に自分の処遇を分析。
「アキヒトの中には私と一緒にホテルを守る選択肢はないんだね?」新田は確認する。
「ああ、」阿倍野は頷いた。「明日には大坂に帰るよ」
新田は一瞬寂しそうな表情をして、俯いて、でもすぐに笑顔に戻った。「いい部屋を用意してあげる」
「太陽みたいな笑顔だな」
「え?」新田は笑みを消して阿倍野をじっと見る。「太陽?」
「髪の色も、いい色だ」
新田は頬をピンク色に染めて阿倍野から目を逸らし、髪を触る。「……ああ、うん、この色はね、バーミリオンっていうの、炎と鋼、それから風の、トリコロールカラー」




