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第二章⑤

 グラス・ベル・キャブズの営業所は国鉄熊谷駅の北側に隣接する駅ビルの裏で日陰になっている雑居ビルの二階。一階は『メロウディア』という名前のパン屋。グラス・ベルの所長の萌黄縅ミドリコの本業はどちらかというとそっちだった。日陰という立地条件にも関わらず、朝と昼と夕方はとても忙しい。客層の九割は若い奥様である。それは萌黄縅の古い友人で、東京のヒルトンホテルのシェフをしていた上川ヤストモのせいである。上川は美形だ。奥様には王子とか呼ばれているらしい。上川の作るメロンパンは絶品で一日五百個を売る。二人だけで焼ける数じゃない。だから朝はグラス・ベルの緋縅エリコも手伝う。慣れた手つきでパン生地を整形していく。午前七時。すでに昼の分のパンの準備である。エリコの隣の作業台ではヒメゾノというかぐや姫のような髪型の、一見して分からないが正真正銘の男が、慣れない手つきでパンをこねている。

「たらたら仕事していたらいつまでたっても終わらないわよ!」エリコは厳しく言う。

「……ご、ごめんなさい、」ヒメゾノの涙声は女子の声だった。白衣のサイズもエリコと変わらない。エリコの方が美人だが、エリコよりも可愛い。「エリコちゃん、お願いだから、その、怒らないで」

「別に怒ってなんてないわよ、」エリコの口調は怒っているように聞こえる。「ただあんたがもたもたしてるから注意しただけよ、もうここに来て半年でしょ、そろそろ簡単なことは簡単にやってくれないと困るわよ」

「……はい、ごめんなさい」ヒメゾノは俯いた。

エリコは溜息を吐く。「もう、男らしくないんだから、めそめそしない、男でしょ!」

エリコが怒鳴ると、まるで女の子みたいに両手で顔を覆って本格的に泣いてしまった。しまったと思った。ヒメゾノを泣かせてしまったのは、確かこれで六回目だ。「え、えっと、ヒメゾノ、ごめんね、怒ってないから、泣かないでよ、お願いだから」

優しく声を掛けてもヒメゾノは泣き止まない。エリコは頭を搔いた。とても面倒くさいと思う。釜を覗いていた上川が気付いて苦笑いをする。その後ろで洗い物をしている魔女の知念クミも同じ表情でエリコの方を見ている。エリコは二人に微笑み返す。そして売り場で掃除をしていた萌黄縅が調理場へ戻ってくる。エリコとヒメゾノを見てただでさえ怖い顔を怖くした。

「エリコ、あんた、またヒメちゃんを泣かせたの、ええっ、どうなの!?」

 それから十分間、説教が続いた。萌黄縅は男のヒメゾノの肩を抱いて、ときおり頭を撫でて慰めていた。最終的に、エリコはヒメゾノと活動写真を見に行くことを約束させられ説教は終わった。ヒメゾノはエリコのことが好きなのだ。それは皆が知っている事実。普通、泣かされたら嫌いになると思う。でも、ヒメゾノの気持ちは大きくなっているらしい。とても変な話だと思う。エリコが女の子しか興味がないことをヒメゾノも知っているのに。とにかく説教が終わった。十分は比較的短い方だ。

 メロンパンが焼けた。エリコはそれを大きなバスケットに丁寧に並べる。

「じゃあ、いってきまーす」バスケットを抱え、白衣を脱いで萌黄色のワンピース姿の知念は店の裏から出て行く。駅前の様々な喫茶店に配達に行くのだ。

 朝の仕事がひと段落したのは開店の八時。店は働き者の萌黄縅と上川に任せて、エリコとヒメゾノは二階の営業所に戻る。焼きたてのパンを持って。

「ああ、もう起きてたんだ、」エリコの胸は高鳴っている。それを悟られないように声を作っていた。「おはよう、気分はどう?」

「うん、もう大丈夫、」徳富スナオは毛布を肩にかけて緑色のソファに座っていた。昨夜は営業所に着いた途端、徳富は眠ってしまったのだ。きっとエリコがはしゃぎ過ぎたせいだろう。「いい匂い、お腹すいたな、メロンパン?」

 営業所はお世辞にも広いとは言えない。とてつもなく狭い。二つのソファとテーブル、奥の所長の机と後ろの金属製のラック、名前の分からない観葉植物によって歌って踊れるスペースはなくなる。東側が玄関で、南側にガラス窓が並んでいる。しかし手を出せば届く場所にビルがそびえているため、この季節だったら七時七分から十五分の間しか太陽を拝むことは出来なかった。そこにエリコとヒメゾノと知念は寝泊まりしている。もちろんヒメゾノは床で寝て、知念とエリコはソファで寝る。所長の萌黄縅はいいマンションに住んでいる。経営者と労働者の格差を感じる。

「本当に大丈夫そうね、」エリコは徳富の隣に座り、テーブルにメロンパンが入った紙袋を置く。「営業所の下はパン屋さんなの、私たちもそこで手伝いをしているのよ、食べて、きっとおいしいから」

 徳富はメロンパンをかじった。その横顔はとても魅力的だった。

「おお、めっちゃおいしい、何これぇ、ホントにメロンパン? ケーキみたい」

「そうでしょ?」どさくさに紛れてエリコは徳富に近づく。そして片手を振ってヒメゾノに命令する。「ヒメゾノ、紅茶を入れて」

「ええ、なんで僕が?」

「あなたが立っているからよ、合理的でしょ、他に合理的な手段がある?」

「ぶぅ」口を尖らせながらもヒメゾノは紅茶を入れた。三つのカップをテーブルに並べる。

「ありがとう、ヒメゾノさん、だっけ?」徳富はカップに口を付ける。

「お礼なんていいわよ」

「エリコちゃんが言わないでよ」ヒメゾノは対面のソファに座った。膝を揃えて座っている。まるで本物の女の子みたいだ。女の子よりも女らしい。認めたくはないが白いドレスが似合うのはエリコよりもヒメゾノだ。紅いドレスだったら負けない。徳富はそんなヒメゾノを観察していた。

「……ヒメゾノさん、もしかして男の子?」

 その洞察にヒメゾノとエリコは目を丸くする。別に隠しておく必要もないのでヒメゾノは頷く。「うん、そうだよ、よく分かったね、初対面で言われたの、初めてかも、あ、僕のことはヒメちゃんって呼んでね」

「凄い、どうして分かったの、私だって最初女の子だと思ってキスしたくらいなのに」

 それを聞くと徳富は冷めた目でエリコを見る。「ふうん、エリコってば誰にでもすぐキスするんだぁ」

エリコはしまったと思って言い訳を考えるが、こういうときは咄嗟に上手い言い訳が出て来ないものだ。「……あのときは、夜だったんだもん」

「夜になるとキスをするの?」

「もう、スナオの意地悪」エリコは可愛い顔を作って下唇を噛む。それをヒメゾノは頬を朱に染めながら観察している。

「あははっ、なぁに、その顔?」どうやら徳富に可愛い顔は通じないみたいだ。そして何かに気付いたように何かを考え始めた。「……あ、もしかして千場君と阿倍野くんも今の私と同じ気持ちなのかな、だったら、それって、めっちゃ、恥ずかしくない?」

「どうしたの、スナオ?」

「ああ、ごめん、あはは、」徳富は紅茶で口を濡らす。「とにかく、私、目がいいんだ」

「目がいいだけで気付くものかなぁ、」エリコはヒメゾノを観察する。ヒメゾノは恥ずかしそうにカップで顔を隠す。まさに女の子だ。男だけど。エリコはメロンパンを食べた。「駄目、私には分からない」

「エリコちゃんに教えなければよかったな」ヒメゾノは呟く。きっとヒメゾノがそのことを告白してくれなければエリコは今でもヒメゾノにキスしていただろうと思う。そう思うとぞっとするエリコだった。

 それからエリコは徳富から昨晩どうして二人の魔女から逃げていたのか聞いた。それから徳富自身のことも、一緒に新田ホテルにいた友人たちのことも。徳富の説明は分かりやすかったが、真倥管という装置の存在をエリコは全く知らなかった。「真倥管、そんな便利なもの、本当にあるの?」

「僕も聞いたことない、」ヒメゾノは頷く。「そんなものがあったら、欲しい」

真倥管。簡単に言えば魔法の制御装置ということだろう。確かに魅力的には違いないが、エリコはそんなものに興味はない。真倥管を使って、例えばエンドレスバーレイなんかを編めたとしても、興奮なんて出来ないだろう。なら気合で、音速で、飛ぶ方がいい。昨日の夜は興奮した。「そんなものいらないわ、そういう風に欲しがる奴がいるから、スナオたちが面倒くさいことになってるんでしょ、それにしても不思議な話よね、」真倥管以外にエリコの知らないことがもう一つ。「鬼の魂が心臓にくっついているなんて」

「うん、縫合術っていってね、」徳富は説明するのを少し躊躇った。「あんまり広めないでね、千場君嫌がるから」

「うん、」エリコは頷いた。「それで、縫合術っていうのね、その、魂を心臓にくっつける、魔法」

「そう、縫合術、千場君に聞いた話だと世界に四人しかいないんだって、そういうことが出来る人」

「そんなに少ないんだ」ヒメゾノは前のめりで話を聞いている。

「縫合術は魔導書に描ききれないほど繊細で緻密な魔法だから、縫合術を知るのには魔法使いに出会って直接教えてもらうしか方法はなくて、千場君は運良く長崎で縫合術師に会えることが出来た、千場君はね、運が良かったって言うんだ、縫合術師に出会えたことが」

「その、阿倍野君だっけ、彼はどうして魂を心臓に、縫合、しているの?」エリコは聞く。

徳富は目を伏せる。「事故があったの、二か月前、大学の実験棟で、実験棟が爆発して、阿倍野君はそれに巻き込まれて重傷だった、それを助けたのが千場君だった、それまで千場君は縫合術のことも自分が魔法使いだってことも隠していたんだけど、阿倍野君を助けたの、縫合術で、鬼の魂を阿倍野君の心臓にくっつけた」

「ふうん、」エリコは息を吐く。「なんていうか、嘘みたいな話ね」

「でもノン・フィクションなんだ」

「そうね、スナオが言うなら真実ね」

「……お願い、エリコ、」徳富はエリコの手を急に触った。「それにヒメちゃんも、お願い、二人とも、阿倍野君と千場君を助けて、お願い」

「お願いなんてしなくてもいいわ、」エリコは徳富の唇にキスする。「キスさせてくれるんだったら、私はなんでもしてあげちゃう」

「ありがとう」徳富の笑顔が可愛くて、エリコはもう一度キスしようとした。

「でも、エリコちゃん」ヒメゾノが口を挟む。

「……なによ?」

「その、新田ホテルの魔女たちは、その、真倥管を持っているんだよね、」ヒメゾノはエリコに睨まれ怯みながらも言葉を選びながらしゃべっている。「だったら僕たちに、勝ち目なんてあるのかな? 僕たちは、キャブズだよ、魔法も上手く編めない、飛ぶことしか出来ない、中途半端な存在」

「ヒメゾノ」エリコはヒメゾノを睨んだ。

「ご、ごめんなさいっ」反射的にヒメゾノは謝る。

「私たちは何?」

ヒメゾノは首を傾けてエリコの質問の意味を考えて困っている。ヒメゾノは所長の机の後ろにある萌黄色の旗を見て疑問形で答える。所長はよくキャブズのエリコとヒメゾノと知念に向かってこう言う。「……雑草?」

「いくら踏みつけられたって、勝手に伸びればいいの、」エリコは挑戦的に微笑む。「向こうが凄い魔法を編んだ私たちを殺そうとしたら、逃げればいいの、逃げるのは得意でしょ、私たちはキャブズ、戦う前に逃げる、逃げても二人を助け出すことが出来たら、勝ちよね、違う?」

「……そうだね、うん、」ヒメゾノは雰囲気で頷いた。頷いてからエリコの言った言葉の意味を考えて悩む。「んー?」

「深く考えるなっ、」エリコは短く発声する。「男の子でしょ?」

「うん……、」ヒメゾノはまだ考えている。「でも、二人を見つける前に魔女に見つかったら?」

 その時、営業所のドアが開いた。

「たっだいまぁ、」ふわふわとした、カスタードクリームのような声。知念が配達から戻ってきたのだ。「たっだいまぁ、知念クミ、帰宅ぅ、ふぅ、おやすみなさいぃ」

エリコはソファに倒れ込もうとする知念を抱き締めて立たせる。「これで全員揃ったわね、さあ、行くわよ」

「ふえ?」知念は目を開けて困惑している。「エリコちゃん、ど、どこに行くの、かな?」

「ホテルよ」

「え、まさか、そんな、」知念は営業所の中を見回す。ヒメゾノと、徳富にも目を合わせる。それから顔を真っ赤にして言った。「よ、四人でっ!?」

 エリコは真っ赤な顔をした知念に徳富のことを説明した。そしてグラス・ベル・キャブズで新田ホテルに囚われた徳富の友人を助けに行くと伝えると平和主義の知念は一旦エリコをソファに座らせて対面に座った。「エリコちゃん、あのね、変なことを想像して興奮しちゃった私が言えることじゃないと思うんだけどぉ」

「想像したって、何を?」エリコは足を組んだ。「聞こうじゃないの」

「それはいいの、それはいいの、うん、忘れて、」知念は頬を両手で包んで熱を冷ましているようだ。「忘れて冷静になって、エリコちゃん」

「冷静になるほど乱れてないわよ、」エリコは紅い髪を払う。「まぁ、乱れれば乱れるほど私はきっと魅力的なんだわ、うん、それはきっと事実で、」

「冷静になって考えて、」知念はエリコの声を遮った。「その、私たちの未来はつまり、怖い魔女の住まうホテルに殴り込みに行こうってこと、だよねぇ、違う? 違わないよね?」

「殴りに行くんじゃないわ、助けに行くの、知念ったら物騒な言葉を使うのね」

「私たちだけで行くの? 警察に相談したの?」

「警察なんて当てにならないわ、それは知念が知っている真理の一つでしょ、」知念は昔、警察が出動する事件に巻き込まれ散々な目にあったことがある。「警察の優秀な魔女だってよっぽどのことがないと動いてくれないし、だったら彼女たちよりも速く飛べる私たちがスナオの願いを叶えてあげるのが素敵な真理だと思う、そう思わない」

「そうだけど、確かに警察なんて役に立たないクズどもの集まりだけど、」知念は早口で言った。「でも、少なくとも警察はピストルを持っているし、身分が法律によって守られてるし……、」知念はそこで溜息を吐く。「ああ、だから役に立たないのか」

「ごめんなさい、知念ちゃん、」黙っていた徳富が真剣な表情で口を開く。「難しいことをお願いしているのは分かってるんだけど、でも、お願い、私の苦悩をどうにかしてくれる頼りになる魔女は、あなたたちだけなの」

「ねぇ、一つだけ聞いていい? 答えたくなかったら答えなくてもいいよ、すなわち、それが答えなのだからっ、」言って知念は背筋を伸ばし咳払いをした。「……キスはしたの?」

「え?」徳富は丸い目をさらに丸くした。

「した」代わりにエリコが歯切れよく言った。

「……へぇ、したんだぁ、早いなぁ、ああ、もう、そしたら飛ばない訳にはいかないよねぇ、弱ったぁ、弱ったぁ」

 知念は知っている。エリコは夢中になってキスした女の子のためならなんだってするってこと。エリコは不可能を可能にするキャブズだってこと。知念はエリコを一度夢中にしたことがあるから、よく知っている。



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