E* そこに在るもの
『よかったら私をずっと恋人にしてください』
大学内のカフェで一人コーヒーを飲んでいる僕の頭の中で華が優しく笑っていた。
真実に触れるのは恐ろしいばかりでないのだな、と思えた。
その言葉からは暖かな春風が吹いてきて、それは時折華からあふれでるそれと同じで、つまり華はちゃんと僕を恋人にしてくれていたという真実に触れられた。
一番恐れていたことが、一番暖かなもので包まれて、もう不安なことなど何もなかった。
「にやにやして気持ち悪いんですけど」
どさっ、と僕の前に荷物が置かれ少し重い声が響く。その声の方向へ目を向けると、長かった髪が肩よりも短くなった照が立っていた。
「照、髪切った?」
「失恋したのよ」
失恋した割には落ち込み方が軽い。それでも少しは落ち込んでいるようで、小さくため息を漏らしている。照とは高校時代からの付き合いだが、彼女が失恋したなんて初めて聞いた。
「振られたの?」
整った顔立ちで誰にでも気さくに話しかける彼女を慕う男はたくさんいる。しかし彼氏がいたことはない。ただつくる気がないのだとばかり思っていた。
「違う。略奪失敗したの。彼女に噛みつかれちゃって」
噛みつくという言葉に本人は笑みを浮かべている。本当に失恋したのか疑わしいものだが、彼女を包む空気は確かに少しばかり寂しげではあった。
「え、あ、そう。大丈夫?」
「この気持ちを哀しいっていうのよね」
「照」
「というより悔しいのほうがあってるかも」
確かにそんな感じだ。しかも何故だか僕を睨み付けてくる。これは気のせいではなくやつあたりだろう。
「髪の毛、似合ってるよ。大丈夫だって。次がある。男は1人じゃない」
そういって微笑みかけると、照が口元をそっとゆるめて笑い返してくれた。
少し元気のない笑顔だが、見慣れないそれは新鮮で、そこに人間らしさを感じた。
「永杜のそういうところに華は惹かれるのかもね。本当に、永杜って楽観主義者っていうか」
「何?華の話?」
照の口から上がった名前に思わず反応してしまう。そんな僕に照が「気持ち悪い」と冷ややかな目を向ける。寂しそうな空気はまたいつものからっとした照らしい空気にかわる。
「照は元気になると憎まれ口だね」
「楽観主義者はいいわねって褒めてあげたでしょ」
「絶対褒め言葉じゃないよ、それ」
いつも通りの会話に思わず2人して笑った。それから照は「やっぱり失恋ね」といって席を立ちあがり、そのままどこかへ歩いて行ってしまった。
その細い背中が小さくなっていくのを見ていると、この世界に生きている人間の命の形を思い浮かべ、昨日の出来事をまるで夢のように感じた。
こんなふうに落ち込んでも、誰かに励まされ、立ち上がり、歩いていく。
何でもない日常が、実は何でもないわけではないことを、知っている人もいれば知らない人もいる。
そんな世界で生きていたのだと足元のタイルに目をやった。
白いタイルの上に僕の足がある。この地上にたくさんの人間がたっている。
そしてその下には別の世界が広がっている。
「永杜?」
澄んだ声が僕を呼んだ。
「華」
不思議そうな顔をして僕に駆け寄ってくる。
「今日はバイトじゃなかったですか?」
「そうなんだけど」
昨日からずっと華の声が頭の中で響いて、何も手につかない。無遅刻無欠席の僕は初めて友達にシフト交代を頼み、自分の頭を落ち着かせることを考えた。そして華の決まった毎日の行動を思いだして、ここで華を待っていた。
「この後講義とか入ってないよね?」
「え、はい」
「じゃぁ、デートしない?」
華の驚いた顔が見たいという理由から待ち伏せまでしていた僕に華はしっかり驚いてくれた。
それから想像していた通り頬を染めてそっと笑うと、僕の隣に腰を下ろした。
「華、行きたいところがあります」
珍しく華がお願いらしいことを言った。
「どこでもいいよ」
特にどこに行こうとか何をしようとか考えていたわけではない。むしろ華の行きたいところへ行きたいというつもりでいたので、華から言い出してくれて嬉しかった。
季節は秋、春のように心地いい、暖かな日の昼下がり。
僕と華はたくさんの命が生きる世界に立ち、そっと互いに手を繋ぐ。周りから見ればただのカップルでしかないが、ただのカップルにしてはあまりにおかしなことをたくさん知っている。
それでも何も変わりはしない。
それを華と確かめたかったのだ。
たとえどんなおかしな世界に立っていても、照が失恋して苦しみながらでも歩いていくように、ただこの世界に生まれた命として、2人で手を繋いでいることを忘れることがないように。
僕らはそっと歩いていく。




