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H* 真実を抱く偽り

研究室に戻るともう黄昏の姿はなかった。きっと全てを語り終え、他の研究室に出かけたのだろう。私を困ったような目で見つめる永杜に、何かを言おうと口を開いても何も言えなかった。

K17も別の施設に用があるといって途中でわかれてしまったために、研究室内は永杜と私の2人きりで静かだった。その沈黙を破ったのは永杜でも私でもなく、信じがたい声だった。

「貴方が永杜?桜井永杜?」

扉の前に立っていたのはここに来るはずもない女、夕凪だった。

私の体は急にこわばり、急いで永杜と夕凪の間に壁を作る。自分でも不恰好なほど小さな壁だが仕方はない。私の身長は16のときからほとんど伸びていない。

「何をしに来ましたか、夕凪」

そんな私と違ってスラリとした夕凪の体系は年頃の男達がこぞって好む胸あり谷間あり肉なしのナイスバディだ。羨ましくはないと言えば嘘になる。そして研究者たちの間でもマドンナ的存在になるこの女は白い肌に大きな目、綺麗な鼻筋をもつ美人でもある。羨ましくはないと言えば大嘘になる。

「HU06に用はないわ」

私は夕凪があまり好きではない。というかむしろ嫌いだ。いつだって人を蔑み馬鹿にするあの冷たい目が嫌いだ。兄である黄昏とパーツはよく似ているのに、奥底にある何かがあまりに違いすぎてどうしても好きになれない。

「永杜、貴方に用があるの」

「永杜は夕凪に用はありません」

敵わない敵を目の前に声が震えそうになる。怖くても永杜を渡すわけにはいかなかった。

「怯えちゃって、これで最高傑作なんて笑っちゃう。さすが天才の黄昏ね」

嫌味だということはすぐにわかる。昔はこの言葉にずいぶん振り回され、黄昏の迷惑にならないように懸命に努力した。しかし黄昏はそんな私を抱きしめ、頑張りすぎないようにとよく遊んでくれた。本当の父のようであり、年の離れた兄のようだった。夕凪の言葉に言い返そうとする私を黄昏は哀しそうな顔をした。どれほど夕凪が黄昏を傷つけたとしても黄昏は決して彼女を傷つけるようなことはせず、ずっと遠くで彼女を守っていた。それこそ、父ではなく兄として。時折兄でもなく、暖かな目で。

「永杜を渡して」

「嫌です」

「命令にも従えないのね、無能なティオ」

「黄昏の命令以外には従いません」

じりじりと近づく夕凪に体が自然と逃げ腰しになりゆっくり下がってしまう。黄昏の大切な人を傷つけることなどできない。傷つけることもできずに大切なものを守るのは難しい。

もう1歩下がったときトン、と背中に永杜がぶつかった。

「華を苛めないでもらえませんか。僕の大切な恋人なんで」

恋人という言葉に小さく胸が音を鳴らした。

「恋人って・・・、HU06と?」

驚いたような声がすっと笑いにかわる。

「黄昏は調査対象の貴方にティオを送って」

「やめてくださいっ」

明らかに私の声は震えていた。全てを話そうとする夕凪の声をさえぎるためにいつもより大きな声を出したのがいけなかったのかもしれない。感情を露わにすることなど許されない私に夕凪の冷たい言葉が降ってくる。

「調査を楽に進めるために、恋人になれとHU06命令したのよ」

もう声が出ない。喉の奥で息が詰まる。

そんな私の強張ったままの体をそっと包み込むように永杜が私の肩を腕の中に引きいれた。

「それでも俺が華を選んだんです」

永杜のまっすぐな言葉が、すっと胸の奥に響いてくる。

いつか話さなければと思っていた。本当は恋人になるようにと命令を受けて恋人になったこと。

ずっと永杜をだましていたこと。

きっと永杜は気付いているだろうけれど、私の口から謝らなければならないことだ。

そんなふうに思っていた私をいとも簡単に抱きしめる腕が暖かくて、夕凪がいることも忘れて泣きそうになった。

「桜井永杜。いずれ私のところへ来てもらうわ」

そういった夕凪は私のほうを一瞥し、すぐに研究室を出て行ってしまった。

カツカツとヒールの音が耳に煩く響く。

夕凪がいなくなりまた急に静けさを取り戻した研究室の中で、私を抱きしめる永杜を振り返る。

「平気?」

永杜の優しいばかりの声がヒールの音をかき消す。

永杜のほうが平気ではないだろうに、哀しみを隠そうと瞳が細くなっている。

ごめんなさいとありがとうを言わなければと口を開くがうまく言葉にならない。

そのもどかしさを表すように私の右手は永杜のシャツをぎゅっと握りしめていた。

「僕は気にしてないから。もし少しでも華が僕の隣にいることを楽しいと思ってくれているならそれで十分だからね。それでも華が恋人をやめたいというなら、僕に止めることはできないんだけど」

恋人になるなんて簡単なことだと思っていた。命令に従い、愛し合うふりをしていればいいのだと思っていた。ただ優しく囁き合っていればそれでいいのだと思っていた。

「永杜」

けれど私は彼の名を呼び、その手を握り、笑いあうことを知った。

怖いものが苦手な永杜の怯えた顔が可愛いことも、朝が苦手で寝起きはぼうとしていることも、本当は友人と騒ぐのが少しだけ苦手なことも、大きなムカデは平気なのにだんご虫だけは触れないことも、それでも私が怖がるとちゃんと捕まえてくれることも。

嘘じゃない感情がたくさんあった。

だからたとえ始まりが偽りでも、今はここに溢れだしてとめられないほどの想いがちゃんとある。

「私は人間です。人は嬉しいも哀しいもちゃんと感じます」

それを今伝えたいと思った。

今まで1度たりとも言葉にして伝えたことのない言葉をしっかりと、伝えなければと思った。

永杜の哀しげな目に、どうか私の心が映りますようにと願いを込めて。

「私は永杜が大好きです」

心の中でつぶやいた言葉が、永杜にはちゃんと聞こえていた。

真実に触れる者である彼なら、ちゃんと私の心の中にある感情に気付いてくれる。

「やっぱり」

永杜の目がぱちりと瞬きをした。黒く底のない瞳に吸い込まれそうになる。

心の中にするすると溶け込んでくるような感覚が、永杜から流れ込んでくるようで心地いい。

「ちゃんと聞こえていたよ。僕も」

ぎゅ、と抱きしめられる。

「僕も華が大好き」

嘘ではない温度がある。人間である故の想いがある。人でよかったと思う瞬間がある。

大好きな人と同じときを生きて、年を取っていくことができる幸せを私は永杜に教えてもらった。


『よかったら僕の恋人になってください』


白い雪の降った日だった。その日のことを思い出すと、すでに付き合う前から私はきっと永杜のことが好きだったのだと思った。それなら偽りの愛など初めからなかったのかもしれない。恋人になるようにという命令に従い恋人になったのが偽りで、永杜のそばにいたいと思ったあの心こそが真実だったのだ。

永杜のその言葉に体が急に熱くなったあの日。私は小さく頷くので精一杯で、何も言えなかった。

だから今日は私の言葉で始めたい。


「よかったら私をずっと恋人にしてください」


真実に触れる者である永杜はただ耳まで赤くして「はい」と笑ったのだった。


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