H* 彼女の探し物
昔から技術面ではあまりいい成績を残せず、訓練を受け始めたころは人並み以下だと多くの研究者に見放されていた。その中で唯一私を引き受けてくれたのが、その頃すでに天才と呼ばれていた黄昏だった。
誰もが認める落ちこぼれを、誰もが認めざるを得ない最高傑作にしてしまう男。それが黄昏だ。
「今日の午後4時には戻ってくるニ」
黄昏の研究室には見た目は幼い7、8歳の少女の姿をした人間化機械フィオの[K17]がいる。
なんでも助手をしているらしいが、たいていソファに座って研究を眺めているか、寝ているかのどちらかしか見たことがない。
「L03の点検はK17がしているのですか?」
「黄昏先生が月に1度しているニ。今月はもう終わったニ?」
語尾に『ニ』とつくのは黄昏の趣味だといっていた。
「で、あの男があの桜井永杜ニ?」
迷子になったものの何とか研究室にたどり着くと、永杜は研究室の中をぐるぐると見渡していた。
天才とも呼ばれる黄昏の研究室は総合研究室の建物内だけで3室あり、そのうちの1番小さなこの研究室でも他の研究者や学者に比べるとかなりの広さがあった。
「はい」
「桜井永杜のデータ見るニ?」
「黄昏は見せるようにとK17に指示しましたか?」
「してないニ」
フィオは人間に似て時折意味もなく勝手な行動をとることがある。
「では見ません」
「そうかニ?じゃぁもう1度検査するニ?」
K17は小さな体でソファから飛び上がって研究室を歩き回る永杜のズボンを小さな手で握りしめると私のほうを見てそういった。
「黄昏が検査するようにと言いましたか?」
きっとそんなことを言うはずがないと聞き返す。ついこの間中間検査を終えたばかりで異常はどこにも見られなかったのに、そんなこと。そう思っていた私にK17の子供っぽい無邪気な笑顔が向けられた。
「桜井永杜の目の前で検査を受けさせるようにと言われたニ」
「検査?」
永杜は心配そうな顔で私のほうを見る。何も危険な検査ではなく、能力の高低を測るだけなのだが、黄昏の考えにはいつも一歩及ばない。
彼はきっと私が永杜の前ではほぼ無能に等しいことを知っているのだろう。
「・・・黄昏の命令なら仕方ありません。永杜はガラスの向こうで見ていてください。」
言動行動共に軽はずみで、何を考えているかさっぱり読めない男、黄昏のことだ。
ただ自分の作ったものに欠点を見つけて楽しみたいのだろう。
他の誰にも負けないものを作ってしまう人間というのは、自分で自分の欠点を見つけ出すほど暇なのだ。
「平気・・・?」
「半年に1度は受けさせられます。平気ですよ」
痛くもなければ苦しくもない。ただ心の中に何かが入り込んでくるあの感覚はいつになっても慣れない。
座りなれた茶色の椅子に腰かけ、この世界ではあまり見慣れない蛍光灯が何もないこの部屋をぼんやりと照らしている。壁も天井も床も真っ白で距離感をつかみずらい。
「はじめるニ」
小さな窓の向こうからK17の小さな手が揺れるのが見えた。
その瞬間バチンという音とともにそこに暗闇が出来上がる。まずは視覚聴覚などの五感の検査だ。
暗闇の中から飛んでくるものをなるべく椅子に座ったままよけるという簡単なもの。
それが終わると暗闇の中から声が聞こえてくる。いつもなら暖かい春の風に湿った雨の匂いが混じったものがやってきて、それから徐々に視界が開けるとそこは一番好きな丘の上なのだ。
そしてそれはある日の私の記憶であり、私の中にある全ての記憶のうち最も鮮明に記憶され、最も感情を揺らす記憶なのだ。
雨が降り始めると遠くから優しい声が聞こえる。私の名を呼ぶ母の声だ。それに続いて父も私を呼んでいる。
何度も何度も見ているその記憶に、いつも心の奥にあるものがふつふつと蓋を開けそうになる。
けれど私は黄昏によって創られたティオなだけあり、決してその蓋が開くことはないことを知っている。
母の腕に抱きしめられ、父の頬にキスをして、それから家族仲良く車に乗って家に帰る。
たとえその途中に私の人生を変えてしまった事故が起こり、私の大好きだった家族が死んでしまっても。
ふと小さな窓の向こうに永杜が見えた。
一瞬だった。
固く閉ざしていた蓋の内側ではなく、外側から全てを包み込むような優しい風によって、その箱はカタンと簡単に壊れてしまった。囲いを失くした箱の中の黒いものがどっと外へあふれ出るようなそんな感覚に瞬きをした私の頬に、何かが伝った。
感情制御不能、という警告音が胸の奥で鳴り響く。
無感、感情制御、そのどちらも私が最も得意としていた試験だ。
それが永杜の顔を見た瞬間、驚く間もないほどに、内からではなく外からその囲い自身を奪われた。
「華!?」
永杜の声が窓の向こうでくぐもって聞こえる。
私は永杜に抱きしめられた時もこうして同じように泣いたのだ。
人の持つ暖かさを、触れ合う肌の柔らかさを、私は決して忘れられない。
大好きな人を失う痛みを、永杜は私ごと抱きしめてくれる。
ガンと鈍い音が響き、無理やり開かれた扉の向こうから永杜が私のもとへ駆けて来た。
椅子に座ったままの私を大きな両手で腕の中に引きこむと、つぶれそうなほどに抱きしめられた。
あの記憶の映像は私にしか見えないもので、きっと永杜は何があったのかなんてわかるはずない。
それでも彼はいつだって、私が抱きしめてほしいときに、必要なだけの強さで抱きしめてくれる。
「平気だっていったじゃないか」
怒るような口調で抱きしめたまま永杜は言った。
私だって平気だと思っていた。永杜の存在によって多少の誤差はあれど、まさかこんなことになるとは思っていなかった。
「想定外です」
永杜のそばにいるといつも想定外のことになる。
「永杜がいなければ何も辛いとも苦しいとも哀しいとも感じません」
「僕のせいってこと?」
永杜が怒っている。
「いいえ」
永杜がいなければあの感情はずっと箱の中で波が弱まるを待っていただろう。
箱が壊れ、溢れることなどなかっただろう。
けれど、今痛いほど抱きしめてくれる永杜の温度も肌の感触も、こんなにも幸せに感じることなどできなかっただろう。
「永杜のおかげです。きっと何も感じないなんて不可能なのです。それに痛みを抱えてでも、感じていたいことがたくさんあります」
生きることと死なないことが違うように。
今生きて、私を抱きしめてくれる永杜へのこの感情さえ抑え込んでしまってまで、最高傑作でいることに意味はあるのだろうかと、今更ながらそう思った。
消えない痛みを抱いて生きることに疲れたから、私はこの道を、ティオになることを選んだ。
機械のようになることで、少しでも楽に生きられたらと思ったのが始まりだった。
しかしそれはいつしか黄昏のためになるならと、黄昏が喜ぶならと意味をすり替えていた。
そして私は永杜に出会って自ら捨てたはずのものを、今は大切に拾い集めようとしている。
「すごいね、桜井永杜。本当に想像以上だ」
突然、思いもしない声が小さな部屋に響き、私は永杜の腕の中から扉のほうへ目をやった。
そこにいたのは、こうなること全てを見越していた天才、黄昏だった。
「俺の優秀なティオをここまで破壊できるなんて、愛の力?」
ふざけたことを言いながら彼は笑っている。
ぱらぱらと今取ったデータに目を通した黄昏が優しい目をして私を見た。
「だから言ったでしょ。完璧なティオは天才と呼ばれる俺にも創れやしないって」
それは昔、まだ私が幼い少女だったころ。多くの研究者が私を見捨て、そして黄昏が私を拾ってくれた日の言葉だった。完璧なティオになれば、父や母を亡くした痛みなど消し去ることができ、何にも哀しみを感じずにすむのだろう。そう考えた私は彼に頭を下げて頼んだ。どんなことでもするから、完璧なティオにしてください、と。そんな私に彼は馬鹿にしたように笑った。
『無理無理。あのね、完璧なティオは天才と呼ばれる俺にも創れやしないんだって。それでも努力するなら、君の望むところまで連れて行ってあげてもいいけど。』
その時の私にはそれがただの謙遜にしか聞こえなかったのだが、あの時から彼はすでに何もかもを超越した場所に立っていたのだろう。
『きっと華ちゃんは別の答えを見つけることになるよ。最初から機械と人は違うんだから』
そのうえで私をティオにして、永杜のもとへ送ったのだ。
こうなることを分かっていて。
「名前返そうか?」
私がティオである意味はもうなくなった。名前を返すということは私がティオではなくなるということを示す。それでもいいかもしれない、と思ったとき、私を抱きしめていた永杜の目がじっと不安げに黄昏を見ていることに気付いた。
『華!?』
耳の奥に私の名を呼ぶ永杜の声が聞こえた。
「名前、いりません。黄昏はHU06と呼んでいてください。私には華と呼んでくれる人がちゃんといますから」
永杜だけがそう呼んでくれていれば、それで十分だと思った。
そして心のどこかで、父である黄昏の『HU06』という声が優しく響いて、それが無くなるのも少しばかり寂しい気がしたという理由もあったかもしれない。
「そう」
黄昏が嬉しそうに笑う。その言葉にふっと永杜の力が抜けたのが分かった。
黄昏は私にとって本当の父ではないが、父なのだ。ずっと遠くで私が自分の答えを見つけて生きることを見守ってくれた父なのだ。永杜のことだから、きっとそれをうっすらと感じたに違いない。
気が付けばちゃんと私を想ってくれている人がたくさんいる。
どこの世界も生きにくいけれど、こんなふうに抱きしめてもらえるなら、今度は大切な人を私が抱きしめてあげられるように、たくさんのことに泣いて、たくさんのことに笑って生きていきたい。




