H* 握られた手
その日はただの中間検査だと思っていた。
「HU06」
白で統一された無機質な廊下を歩いている私に聞きなれた声がかかる。
「黄昏。どうかしましたか?」
振り返ると白衣を着た背の高い男の姿を確認し、その男の名を呼ぶ。
人懐こく、常にへらへらと笑ってばかりいる女たらしの彼だが、私の父である。私の本当の父ではないが、私を機械化した創作者であるから、父という形をとっている。
「検査は異常なかったみたいだね」
「はい。いつも通りです」
「よかった。ちょっと話があるんだ。とても大事な話だから、俺の研究室によっていって」
珍しく真剣な顔で黄昏はそう言った。
そして静かな研究室でゆっくりと一つのデータを私の前に出して、私に最後ともいえる命令を下した。
「機械化人間とはその字のとおり、機械化した人間のことです。その人間をベースメントポリスではティオと呼びます。どれだけ命令に忠実に従えるか。どれだけ感情を制御できるか。どれだけ無感になれるか。それに付け加え、計算能力などの知能面での審査を通った者だけがティオとなれます」
ただ驚くばかりの永杜に私という人間の存在をインプットされた文字をただ読み聞かせていく。
「私は5年前、ベースメントポリス第五地区総合研究室T6で黄昏によって創られたティオです」
感情を制御することと無感になることにおいては他のティオ候補よりもはるかに優秀な成績で、過去最高のティオだと言われている私の声が、かすかに震えている気がした。
永杜のそばにいるといつも、ティオとしての誇りや自信がなくなる。仕草や言葉や表情1つに簡単に心が揺れ動いてしまう。それが分かっているから、黄昏から命令を受けた時、不安になった。
「調査、観察を目的に永杜に近づきました」
つい先ほどまで騒がしかったテレビはテロップが流れ、静かに文字が流れていく。永杜が食べた私のチョコドーナツも、永杜が飲んでいたコーヒーも、何もない空間に永杜は1人座っているように見えた。
そしてゆっくりと息をすると、驚いていた目を私からそらして、口を開いた。
「そっか」
私の握る冷たい永杜の手がいつ振り払われるのかと怯えていた私に、優しい永杜の声が降ってきた。
「よくわからないけど、なんとなく分かってたような気がする」
分からないけど分かっていた、という言葉のほうがよくわからない。
そう思い首をかしげると永杜はいつもの笑みを浮かべ、何を映しているのか分からない瞳で私を見ると、大きな手で私の両手を包み込んだ。
「そこにいっても僕は大丈夫なのかな。明日は学校もあるし、バイトもある。殺されたりしない?痛い思いをしたりとか、しない?」
いつだったか。私も黄昏にそう尋ねたことがあった。
もしも永杜をここへ連れてきても、何もしないかと聞いた。彼が嫌がるようなことを、彼が傷つくようなことをしないかと。もしもそんなことがあるなら私は命令に背くつもりでいた。
しかし、黄昏は馬鹿にするように私の頭をなでて笑った。
『華はよほど彼が気に入ったんだねぇ。そんなことしたら俺の身に危険を及ぼしそうな言い方だ』
『及ぼします』
『そうか、そうか。でも大丈夫だからね。軽くデータをとって、ベースメントポリス内を案内するだけだよ』
黄昏は永杜に似て嘘が下手だから、きっとそれは嘘ではないだろうと私は理解した。
「大丈夫。黄昏は何も危険なことはしないと言っていました。たとえもし永杜に危険が及ぶようなことになれば、私が永杜を守ります」
私の手を払いのけることもせず、こうして握ってくれる優しいばかりの永杜が傷つけられるようなことがあるなら、私は決して無感でなどいられない。感情を制御するなど不可能だ。
機械化されているからといって、機械そのものになったわけではない。私は永杜にそう教わった。
「じゃぁ、でかけようか?DVD返して、それからでもいい?」
人の皮を被った機械が暗い室内を徘徊しているメニューを指差す永杜に必死の思いで訴える。
「途中までしか見てないです」
「また見るの?華って本当に好きだよね、こういうの」
もう不安なんてものは何もなかった。嫌われたらどうしよう。軽蔑されたらどうしよう。
そんなみっともないようなことばかり考えていた私に永杜はなんでもないように手を握って笑ってくれた。
好きだと言ってくれたのは、永杜だった。
私は今まで一度も好きだと伝えたことはなかった。それはどこか意地を張るような、機械化された人間であるというプライドが邪魔をしているからだろうか。
今、永杜がそれを求めてくれたら言えるような気がした。
全てを捨てて、そういえる気がした。
「永杜」
「ん?」
大好きです。
そんな伝わるはずもない言葉を心の中でそっと告げる。
一瞬、永杜の顔がぽっと赤くなり、それを隠すように永杜が笑った。
「僕も」
普通だと思っている普通ではない彼の言葉に私のほうが驚く。
「私何も言ってないです」
「え?あ、じゃぁ空耳かな」
さっきよりも赤くなって永杜は私から顔をそらした。
きっと彼にはしっかり聞こえていただろう。私の中にあふれんばかりの想いを。
『もうすぐ覚醒するみたいなんだよ、桜井永杜。だからそろそろここへ、つれてきてほしいの』
そう、私の耳の奥にはそれを示す黄昏の声が響いていた。




