E* 優しい真実
黄昏さんは僕と華をベースメントポリスに呼ぶと、突然カードをひらりと見せて言った。
「今日はお出かけ日和だよね。ってことで通過許可証をとったので第1区に行こう」
とても陽気な彼に華が僕の腕を強くつかみ、引き寄せた。
「あんなところに永杜が行く必要性はありません。黄昏1人で行ってきて下さい」
それはまるで威嚇しているようで、その第1区と呼ばれたのが何なのか、不思議に思っていると黄昏さんが手に持つカードを僕に手渡して説明してくれた。
「怪しいところじゃないよ。HU06には少々誤解を与えちゃってるんだけど。研究施設を集めたここは第5区で、隣の第4区は教育機関を集めた区なんだ。第4区と第5区間の移動は自由なんだけど、区間移動に許可証が必要なところがあるんだ。第1区に入るにはどこの区からもそれが必要なんだよ。そのカードは地上で言うところのビザみたいなもので、第4区と第5区はEUみたいなものだね、簡単に言えば。で、今日行く第1区は一番人口の多い商業の区。可愛い女の子がたくさんいる店もあるし、市場や飲食店もすべて第1区にある。永杜君にこの世界で生きる人々を見せてあげようと思ったんだ」
華はまだ警戒していた。
「永杜君を女の子のいる店には連れて行かないって」
どうやら華にとって第1区は歌舞伎町のようなイメージがあるのだろう。黄昏さんはよくそこへ行くのだろう。華は第1区へ出かけていく黄昏さんの姿にそう感じたのだろう。ふと考え始めると僕の内は真実でいっぱいになっていた。
「行こうよ、華。華もまだ行ったことがないんでしょ」
華は少し悩んだあと、小さくこくんと頷いた。
その日、ベースメントポリスの上空たるものは確かに雲一つない晴天だった。
僕が「いい天気でよかった」というと華と黄昏さんが同時に笑い声をこぼして僕を見た。
「永杜は何も知らないんですね」
「バーチャルだよ。第5区に雨が降るのは月に1度、決まった日だけなんだ。第1区なんて半年に1度しか降らないしね」
「地下から空が見えるなんて変だとは思ってたけど、だから門の向こうからただの白いドームに見えるのか」
「バーチャルは区間ごとだけですから」
地上の人が知ったら驚くに違いないことをこうもすんなり受け入れられるのも真実に触れる力のおかげだろう。
僕と華は黄昏さんにつれられるままメインタワーの1階部と呼ばれる場所に来た。そこはまるで東京の地下鉄ホームがすっぽりと入って浮かんでいるようだった。電車に似た乗り物は皆宙に浮き、ホームに上から降りてくる。降りる瞬間にだけ光るレールのような筋が綺麗だった。
そして僕は初めて、ここで生活している人々を目にした。制服のようなものをきた学生らしき人やスーツを着た社会人のような人、見たこともない奇妙な服を着た人がその乗り物にすいこまれるように入っていく。それは未来の東京の地下鉄ホームに立っているような気分だった。
「すごい・・」
「俺の友達がここを構想するのに携わったんだよ。空間軌道っていう分野の専門家。第5区にはこのベースメントポリスの文明発達にとても重大な役割を与えられているんだ。」
「この空間軌道のもとになった軌道学を発達させたのは黄昏です」
華は嬉しそうにそういった。僕が考えているよりこの世界ははるかに大きくたくさんの命であふれ、僕が思っているより黄昏さんはすごい人間のようだった。
「軌道学はもともと遅れていたからね。他との関連性を持たせるとすぐに役立つ分野だっただけだよ」
だからそんなにすごいことではない、と黄昏さんは笑った。宙を流れていく文字を見ながら、続けていった。
「そんなことより、軌道学を応用してこんなふうに人を移動させることができると思った人間がすごいよ。俺には思いつかなかった」
それは今までよりもずっと愛しいそうな声だった。
「夕凪です」
華が僕に言った。
「空間軌道を用いた移動手段を提案したのは夕凪です」
だから彼はすごいといった僕に嬉しそうに笑いかけたのか。
『妹っていうのはとても愛おしいものだからね』
そう言った黄昏さんの声はどこか冷たかった。しかし今、彼から感じられるのはとても暖かなものだった。
『ただ俺が存在してるだけで夕凪は苦しむ』
黄昏さんはそう言ったけれど、もし黄昏さんがいなければ夕凪さんが研究者になることはなかったかもしれない。こんなふうに人と場所を繋ぐものもなかったかもしれない。
「黄昏さんと夕凪さんのどちらが欠けてもできなかった、2人の合作ですね」
夕凪さんにとって黄昏さんが、自分を苦しめる存在だったとしても、決してそればかりではないことをこの場所は告げている気がした。もしかしたら彼女はそう思っているのではないかとさえ思った。
もしも本当に比べられることを苦に感じ、黄昏さんの存在を感じたくないのなら、彼の歩む道を追ってくることなどしないだろう。全く関係のない世界で生きることもできたのに、彼女はそれをしなかった。
「夕凪さんのところへ行きましょう」
彼女は逃げずに、研究者となる道を選んだのだ。
「え?」
「永杜?」
それこそが答えのように思えた。
「真実は哀しいばかりではない気がするんです」
「何の話ですか?」
華が首をかしげ、僕と黄昏さんを見つめる。
「きっと今なら」
始まりはほんの小さな想いだったのだ。兄の凄さに己を蔑んでしまった脆さと、ただ妹を大切に想う不器用な優しさが、2人をここまで連れてきてしまっただけ。
今ならそれは、そっと溶け合うことができるかもしれない。
「会いに行きましょう」
そこにあるのはきっと、2人を囲う感情が隠してしまった優しい真実。