竜人様。あなたの番はあなたに挫折と絶望を捧げます。
ここは、煌びやかな王国の一角にある深い、闇のような場所。
誰もが近寄らない、汚くて臭い、スラムの掃溜め。
私の名前はドナ。
そして仲間とも家族とも呼べるのは、七歳のアビーに、十三歳のリカルドだけだった。
この子達から見れば、私は母親か姉って立場になるようだ。
全員、親に捨てられてここにいる。
昔は十人近くいた仲間も死んだり、行方不明になったりで、今はこの三人だけ。
共に身を寄せ合いながら、なんとか私達は日々をやり過ごしていた。
「ドナ。聞いたか?あの噂」
「あー……聞いたよ。スラム内の誰かが王家の宝を盗んだ、だろ?」
「そうそう。本当ならすげーよな。それがあれば、金もたくさんあって、食い物に困らないし、新しい服も買えるよなー」
「いいなあ。アビーも甘いお菓子、たくさん食べたい」
二人の可愛い願望に、思わず笑みが溢れた。
──まあ、王家から宝を盗んだなんて誰かのくだらない嘘だろう。
ここの人間が、竜人に敵うわけなんてない。
私はどこまでも現実主義だった。
夢なんて甘いことを言っていたら、ここでは命に関わる。だけどせめて、この二人に夢があるなら語らせてやりたい。
───私が、汚いことは全部するから。
「私は飯を探してくる。二人はそこで待ってなよ」
「ドナ、俺も行くよ」
「リカルドは靴磨きで稼いでくれたろ?飯くらいは私がやるって。ゆっくりアビーと遊んでやって」
「──わかった。気をつけろよ」
そのまま私は寝床を後にして、スラムの大通りへ出た。夕方辺りから、この通りは最高に治安が悪い。
喧嘩に始まり、一通りの犯罪なんてしょっちゅうで、本当になんでもありだ。
「銅貨三枚なら、パン六つと林檎一個だな」
「はあ?この前までパン十個はつけてくれたじゃん。なんだよ、ロイのケチ〜!」
「そう言うなよドナ。最近、竜人サマ達の監視が強くなってうるさいんだよ。ここに物資を運ぶのも前より制限されてて俺も大変なんだよ」
竜人とは、この王国を統治してるやつらのこと。
自然を簡単に味方にして、操ったり、戦ったりできる、この世でとても高貴な存在なんだそうだ。
この世界には、城に住む王族や貴族の竜人。
獣人、そして私達人間が生きている。
人間以外の種族は、基本的に力が強くて、中には空を飛んだり、水中で素早く泳げたり──と、いろんなやつがいる。
人間は数が一番多くて、弱い。
弱いからこそ、こんなところに私はずっといるんだろう。
「ふぅん……?じゃあ、甘いお菓子はないの?金が足りないならいつも通り体で払うけど?」
「……っ、お前なあ。俺の話を聞いてたか?」
「聞いてるよ。ね……ロイ?どうする……?」
ちらり、と視線で男を誘惑する。
「……甘いのって言ったって、今日はこの売れ残ったチョコケーキしかないぞ?」
「上出来。いいよ。交渉成立ね」
「いや、よくない。ドナ。俺が言うのもなんだがお前はもっと自分を大事にしろって──」
「珍しい、説教?なんだよ、ロイ。もしかして今日は乗り気じゃないとか?」
「───くそっ。店閉めるからそこで待ってろ」
背がひょろりと高く、なかなかに整った顔をしている店主のロイは扱いやすい。
金がない時も、私の体を差し出せばいいから。
──本当は、知ってるんだけどさ。
こいつが私に惚れてるってこと。
でもそんなの、このスラムじゃただの弱点だ。
愛だの恋だの本当にくだらない。
だからこうして毎回私に食い物にされるんだよ。
・・・
「これはアビーが喜ぶなあ」
上機嫌な私は、来た道を戻る。
チョコケーキなんて甘いものはいつぶりだろう。
小さなケーキが崩れないように、大事に運ばなくてはと思ったその時だった。
突然、ドォンとすごい爆発音がスラム内に響く。
ビリビリと体にも感じるくらいの振動がしたあとに遠くで煙が見えた。
それから遅れて、たくさんの悲鳴が聞こえる。
私は弾かれるように、スラム内を駆け抜けた。
あの二人になにかあれば、私は──
「……っアビー!リカルドっ!」
急いで寝床に辿り着くと、二人は互いに抱き合い震えていた。アビーはぐすぐすと泣いて、リカルドはそれを必死に宥めている。
「──よかった……二人とも無事で……」
「ドナっ!?外でなにがあった!?」
「いや、私にもわからない。この音だ。何かが爆発したのかもしれない。とりあえず、外に出よう。念の為に大事な物は全部、持っていく」
「──わかった。アビー、聞いたな?急げ」
「うんっ」
いつだって、こんな中で私達は生きてきた。
だから今回だって大丈夫……そう思っていたんだ。
荷物をまとめて、三人でスラムの大通りに出た時、そこはすでに火の海だった。
「な、なんで……こんな……クソっ……!!!」
「アビー、見るな。目を閉じてろ」
ぎゅっと小さな体のアビーを抱きしめる。
見渡せば、悲鳴や混乱で慌てふためくスラムの住人達。死体もあちこちに転がっている。
「──リカルド。ロイのとこに行こう。あそこならシェルターが店の奥にある」
「わかった。急ごう。ドナ、アビーは俺が……」
「ああ」
アビーをリカルドに任せて、異常な熱の中を走る最中、スラム内の様々な声を拾う。
情報を整理すると、竜人が例の宝を取り戻すため直々に現れたというのがわかった。
誰かは知らないけど……本当に余計なことをしてくれた。
あの噂は、嘘ではなかったらしい。
それはロイの店まで、あと少しのところだった。
その瞬間、私達の前に見たこともないそれは綺麗で高貴な存在が、空から音もなく現れた。
その男は長身で、淡い青色をした長い髪は複雑に編み込まれている。目は、見たこともない輝かしい黄金色の瞳だ。
そして、誰もが魅力されるような、非常に美しい顔立ちをしていた。
「……竜、人か……?」
震える声で、リカルドが呟く。
──まさか……こいつが竜人なら、このスラムをめちゃくちゃにしている張本人ではないか。
しかも身なりからして、王族か高位貴族だ。
二人を庇いながら、私は前へと出る。
その竜人は、現れた時から目を見開いたまま、こちらを見て固まっていた。
そして、何かを呟くように言っている。
「────お前……まさか…本当に私の、……番なのか……?……その匂い……なぜ……だ……?」
───番?
竜人とか獣人が、魂で結ばれているという唯一無二の相手の話か?
番に出会ったら、こいつらは狂ったように番しか見えなくなって──
そこまで考えて、私はゾッとした。
「生憎だが、私は人間だ。番なんてわからないし、そんなもんに縛られるつもりもない。悪いが、急いでいるからそこを通るぞ」
「──待てッ!!!!」
竜人に、腕を強引に掴まれた。
なんて馬鹿力だよ。
痛みで全身からは、冷や汗が流れる。
「ドナ!!!」
「ドナぁっ!やだぁ!!!」
「っ来るな!リカルド!アビー!逃げろ!!!」
──その瞬間、パキン……と、音がする。
目の前の二人は、なぜか氷の中にいた。
「…………は?…………う、そ?」
「私の番に触れるな。ゴミ共が」
「────ふざけるなッ!!!!」
息が、乱れる。
突然のあり得ない現実に、衝撃を受けた。
頭に血が昇り過ぎたのかもしれない。
駄目だ、全く冷静でいられない。
今、頭の中を支配するのは、この言葉だけ。
──殺す。
こいつを、殺す。
次の瞬間、太腿に隠していたナイフを片手に、竜人に飛び掛かった。
けれど、力の差は圧倒的で、私はあっという間に竜人によってそのまま強制的に意識を奪われた。
────意識を失う寸前、ロイが叫びながら私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
・・・
目が覚めると、白い天井が見えた。
ふかふかな物に包まれて、温かい。
リカルドとアビーはまだ寝てるかな……なんだろうこれ、すごくふかふかだ……
……………………
…………
「──ッ!!?」
がばりとベッドから飛び起きた。
現実を思い出し、一気に呼吸が乱れる。
息を荒くしながら、周りを見渡した。
どうやら、部屋の中には私だけしかいないようだった。
部屋には、質の良い調度品が置かれている。
テーブルの上には、よく磨かれたガラスの水差しとペアのコップ。
花も飾られていて、いかにもな部屋だ。
(あの竜人が、ここへ連れて来たのか……?)
リカルドとアビーはあの後……それにロイ。
「服が……」
俯けば、白いワンピースを着ていた。
着替えをしているなら、勝手に体を触られたんだろう。
余計なことを……と思いながら私は扉に急いで向かった。そのままドアノブを回すが、ガチャガチャと何度やってもドアは開かない。
「くそ……!鍵かよ!軟禁するつもりかあのトカゲ野郎!!」
これでもかと、口汚く罵る。
いつもはリカルドやアビーの手前、酷い言葉遣いはしないようにしていた。
舌打ちしながら鍵を開けるのを諦め、ベッドに腰掛けたままこの状況を整理する。
あのトカゲは氷を扱っていたから竜人で確定。
獣人ならば、自然を操ることはできない。
私を番だと言っていたが、こっちはそんなの人間だからわからない。
番かの判別方法は、匂いや、出会った瞬間に本能的にわかるなど、多種多様で個人差があるようだ。
人間が竜人や獣人の番になることはとても稀で、可能性はかなり低いと聞いていた。
けれど、今の私の現状を見れば分かるように、こういう残念なこともあるわけだ。
自分の中にある情報は、とりあえずこれくらい。
それよりもリカルドとアビーはどうなったのか。
あのトカゲは私を手に入れたんだから、きっとあの二人を解放したはずだ。
そんな考えを巡らせている時だった。
カチャリと鍵の開く音がした。
「……お目覚めでございますか?」
扉から現れたのは、キツい目をした無表情の美人だ。メイド服を着ているから、あのトカゲに仕える侍女辺りだろう。
「…………誰?」
「わたくしはロキシーと申します。あなた様のお世話を全て、任されております」
「私の世話なんてしなくていい。家に帰せ」
「それはできません。ご主人様からの命令です」
「あんたの主人は、あのトカゲ?」
一気に目の前の女の表情が崩れる。
「このッ、スラムの売女がっ!貴様のような穢れた女が、あの方の番などあり得ないっ!!!」
ロキシーと名乗る女に、いきなり首を掴まれる。
そのまま自身の体が宙に浮いた。
体は細いのに、いとも簡単にこちらを持ち上げるなんて……こいつも竜人か獣人かよ。
「──っ……!」
ロキシーは無表情のまま私を乱暴に床へ投げた。
打ち付けた背中に、鋭い痛みが走る。
「お前の世話など、したくもないのに……」
「……っ……ならしなけりゃいい。私が嫌いなんだったらここに来なくていいだろ?」
「────黙れ、売女」
目の前のロキシーは、拳を振り上げていた。
これは殴られるなと身構えた時だ。
「ロキシー。やめろ」
「……っ……アルドリック様!?」
また、気配も無く現れたトカゲ。
ロキシーはビックリした顔をした後、蕩けるような笑みを浮かべ、主人だというトカゲにすり寄っていた。
見ているだけでも気分が悪い。
どいつもこいつも、やっぱり権力者には媚びるんだなと……それを冷ややかな目で静かに眺めた。
だが私の予想に反して、トカゲはロキシーを無視してこちらにやってくる。
「──起きたか。お前は私の番だからここに連れて来たまでだ。勘違いをするなよ」
私は目も合わせず俯き、黙ったままでいた。
下手なことをこちらから口に出して、ロキシーみたいに逆上されたり、面倒な揉め事は避けたかった。
「………お前は、酷く臭い。私以外の男と交わったな……?その体から他の男の匂いをさせる裏切り者の穢れた売女が」
随分な挨拶だ。
なるほど。
ロキシーの売女発言は、こいつからだな。
私はここに来る前、ロイと───
ああ、気持ち悪い。
竜人はこんなことまで匂いで判別できるのか。
・・・
「本当に愉快だな!!!お前は全然、アルドリック様から相手にされてない!番なのに、なんて哀れだ!!」
あれから数日経っていた。
ロキシーは早々に私に取り繕うのをやめたらしい。
主人があんな態度なら、部下もこうなる。
こういうのは、スラム社会とあまり構図は変わらないんだと、一人で感心する。
「アルドリック様が、食事をしろと言っている。お優しいアルドリック様に感謝しろ。スラム出身の臭い女は普段から残飯を漁ってたから、こんないい物を食べたら逆に腹を下しそうだな」
目の前に、見たこともないカラフルで繊細そうな料理が次々に並ぶ。
マナーなんて全然わからないから、フォークだけを使って適当に食べ物を口にした。
味が、よくわからない。
これが美味しいのかでさえ、わからないでいた。
ロキシーはそれを見て、ニヤニヤと笑っているが気にはしない。
「今日もアルドリック様はここには来ない。王城へ行って公務をなさっている。本当に立派な方だ。しかし、お前はいつまでこんな外れの小さな屋敷に閉じ込められるのだろうな」
ロキシーが勝手にベラベラといろんなことを喋っているので、密かに情報収集をしている。
ここ数日で、わかったことはたくさんある。
あのトカゲは王族で、第二王子。
ロキシーは伯爵令嬢。
ここは王都の外れで、どこかの屋敷の二階。
王都の外れならば、スラムも近いかもしれない。
私は会話をするのを全てやめていた。
ロキシーの言葉を、毎回淡々と黙って聞くだけ。
彼女がお喋りに飽きたら、鍵をかけて部屋から出ていく。そして、また数時間後に覗きに来たりを繰り返す。
ロキシーが、私の監視役なんだろう。
聞きたいことはたくさんあるが、ここは沈黙を貫くことにした。
みんなのことはすごく気になるけど、絶対に無事だと思っている。
そうじゃなかったら──
あのトカゲは初日に会って以来、一切姿を見ない。正直、王族を相手にするのはさすがに面倒だったから好都合だ。
困ったのは、時間の潰し方。
暇つぶしに置かれた本も、字が読めない。
針や糸を渡されたが、刺繍も出来ない。
唯一出来たのは、紙とペンで絵を描くことだったが、残念ながら絵のセンスはない。
ロキシーはそれを見て、ずっと嘲笑っていた。
馬鹿にしたければ、そうすればいい。
所詮は生まれや育ちが違う。
こんな貴族みたいな暮らし、私にはとても無理だと再認識させられる。
「やるか。まずは腹筋、百回からだな」
誰もいない間は、静かに体を動かしていた。
体力が落ちて困らないように。
ロキシーが来るのは主に食べ物を持ってくる時。
最近は、その時間帯に無理矢理にでも寝るようにしている。寝ているのわかれば、食事だけ置いていくから。
あの耳障りな声は、聞くだけストレスだ。
そうして、少しだけ季節が変わった頃。
私は、毒に倒れた。
犯人はロキシーだった。
毎日の食事に、少しずつ毒を混ぜて嫌がらせをしていたらしい。
私が意外にもケロリとしていたので、今度は竜人や獣人にも効くような毒を入れたところ、見事にぶっ倒れた。
さすがに主人の番に死なれるのは困るのか、ロキシーは酷く取り乱していた。
(いや、お前がやったんだろ……)
それが、私がロキシーを見た最後だ。
まあ、あれだ。何でも食べていたから。
食い物がない時には、道に生えていた草だって食べていたのだ。多少なり、毒に耐性でもあったんだろう。
しかし、実際にくらう毒は苦しい。
嘔吐に始まり、腹も痛けりゃ、熱も出て、意識は朦朧だ。
このまま楽になれるかなって、少し思ったけど、あいつらを置いては逝けない。
まだ許されるのなら、生きていたい──
久しぶりに夢を見た。
ずっと、誰かが手を握ってくれている。
心配そうに、労わるように。
「……ロ、イ……?」
──それ以降の意識はない。
・・・
どうやら、私は生き延びたらしい。
目を薄く開けば、トカゲがこちらを覗き込んでいた。
それは心配そうに、安堵したように。
「──ロキシーは、私が処刑した……」
仮にも、瀕死だった人間にかける言葉かよ。
普通なら体の心配をするんじゃないのか。
何があったかを、トカゲが説明する。
時には私に八つ当たりしながら、時には怨嗟の声を上げながら。
お前を守ってやった。
ロキシーはとてもいい侍女だった。
そして決まって私を罵り、裏切り者だと言う。
私は黙ってそれを聞いていた。
やがてトカゲは、そんな私を見て顔を顰めると、部屋から何も言わずに出ていった。
(ロキシーは死んだ、か……)
そんな簡単に仲間を手にかける竜人なんて、やっぱり私には死んでも理解できないだろう。
あいつは、お前を慕ってたんだろうに。
「──食べろ」
食事はトカゲが持ってくるようになった。
こちらから会話は絶対、しない。
私が食べるのをトカゲはじっと見ていた。
半分ほど食べたら、席を立つ。
こんなにたくさんは食べれない。
何か言いたげなトカゲを無視して、出窓にあるソファーに腰掛け、窓を開け外を眺める。
(今日は天気がいいな……)
「……護衛付きなら食後、庭に出る許可を与える」
背後から聞こえたその言葉に、何も反応しなかった。少しの間の後、舌打ちが聞こえ、乱暴に扉を閉める音が部屋には響いた。
「お嬢様、庭ならば好きに散策してかまいません」
結局あの後、護衛だという虎の獣人が来て、庭に出してもらえた。
これで部屋の位置や、屋敷の場所がどこだかやっとわかると、ほくそ笑んだ。
広い庭を歩きながら、遠くにある景色を見る。
この屋敷からだと南側に大きい山が見えた。
あの山の近くに、スラムがある。
場所はこれで把握できた。
問題は、いつここから抜け出せるかだ。
こいつらを私が撒けるとは思えない。
少し、考える時間がほしい。
季節は、雨季の時期になっていた。
「お嬢様。夕飯前に湯浴みを。こちらへどうぞ」
今度の新しい侍女は、未だ名前すら知らない。
必要最低限の会話しかしない主義のようだ。
前任である、ロキシーの顛末を知っているからなのかもしれない。
さっぱりしたところで、シルクのナイトウェアに身を包み、いつものソファーに座る。
窓を開け、雨を眺めているとトカゲが来た。
この時間には珍しい訪問だ。
「夏の竜人祭後、お前を安全な場所へ移すからそのつもりでいろ」
それだけ言うと出ていった。
竜人祭。
夏に竜人と獣人達が番に出会うために集まる祭りがあるのを思い出した。人間も便乗して、その祭りの時は浮かれている奴が多かった。
去年は私もその日に、ロイと過ごしたのを思い返し、複雑な気持ちになる。
・・・
「お嬢様。今日は竜人祭ですので、お部屋で早めにお休みをお願いします」
私は静かに頷く。
ここに来て数ヶ月。
私はとてもいい子にしていた。
最近では庭に出ると、侍女と護衛が楽しそうに話していて、私に対しては、全く警戒をしなくなっていた。見張っていなくても、ちゃんとこいつらの元へ戻るように行動する。
こうして慣れる頃が一番、怖いのだ。
誰も、私がこの日に逃げ出そうなんて思っていないだろう。獣同士の逢瀬を、存分に楽しんだらいい。
「明日の朝にまた伺います。おやすみなさいませ」
特に警戒されることもなく、侍女はいつもよりかなり早めに去って行った。
この屋敷には三人の使用人がいるのは既に、確認済みである。
侍女、護衛、料理人。
唯一、料理人がどうしているかがわからないままだが、この静かさだと誰もいないのだろう。
「──行くか」
ベッドの下から、ホルダー付きのペティナイフを取り出す。これはロキシーがいた頃、食事の時に使うと判断されて、テーブルに常に置かれていた物だ。
手癖が悪い私は、これをずっと隠していた。
それをベルトできつく固定して、太腿に巻く。
部屋の鍵は、すぐに開いた。
髪留めに使うピンが数本あれば、本当はこんな鍵なんていつだって開けられるのだ。
でも、ちゃんといい子にしていないとあいつらは何をするかわからない。
階段にはカーペットが敷かれているので、足音は一切しない。靴は手に持ち、裸足のまま音を立てずに階段を素早く降りた。
目的は、一階の小さな窓があるトイレ。
前に一度だけ、散歩前に入ったことがある。
私なら、簡単にあの窓から出入りできるからきっと大丈夫だ。
そうして……自分が思っているよりも、すんなりこの屋敷から脱出できた。
「──はっ……はぁっ……!」
やっぱり、体力が落ちてる。
私は山に向かって、全力で走っていた。
せめて……スラムまでは見つかりたくない。
頼むよ。
いるかもわからない神様。
みんなに、会わせて。
・・・
「────なん……で……?」
走って走って、ようやく目的地に着いた私は呆然と立ち尽くしていた。
そこにあるはずの……確かにあったはずのスラムは、全てが跡形も無く消え去っていたのだ。
「お前、こんな夜にこんな場所で一人か?」
「……っ!!」
突然、背後から声をかけられる。
振り返って見れば、酒臭い端正な顔立ちをした背の高い獣人が立っていた。
「おっと、そんな驚くことないだろ?ここは今、立ち入り禁止区域だぞ?」
「そう、なの……?ごめんなさい……私、知らなくて……」
咄嗟に、か弱い女に見えるように振る舞った。
「あーあー。そんなに怯えるなって。俺だってここに入ってるし……ってお前、かなり別嬪な女だな?今夜……俺と、どうだ?」
「──え……?」
「俺は今夜、竜人祭だってのに番が見つからなくてすげー寂しいんだよ。他の奴等は番を見つけて今頃お楽しみよ?不公平だと思わないか?」
「……私……その……っ……!?」
一気に距離を詰められ、腰に手を回される。
体がビクリと揺れた。
「ん?怖くないって。俺のこと慰めてよ?痛いことは絶対しないって約束する」
流れるように顎を持ち上げられ、互いの唇が触れそうになる。
それを、やんわりと手で制止した。
「私……人間よ?嫌じゃないの?」
「ああ、お前が人間だってのは最初から匂いでわかってる。俺は狼の獣人だから、他の奴らよりも鼻がいいんだ」
「……ふぅん……じゃあ、取引しない?私の質問に、いくつか答えてくれたら、今夜はたくさん私を好きにしていいわよ?悪くない話だと思うんだけど?」
男の腕の中で、妖艶な笑みを浮かべて誘う。
狼の獣人だと言う男も、それを聞いて楽しそうにニヤリと笑っている。
「……へえ、面白い。しおらしい女かと思ってたがそっちのが全然好みだ。いいぜ?なんでも答えてやるよ」
これで、私の欲しい情報が手に入れば──
相手の機嫌がいいようで、何よりだ。
私は獣人に抱きつき、絡まりながら質問をする。
「聞きたいのは、このスラムのことよ。数ヶ月前までここにあったスラムに何があったの?」
「あー……竜人がやったんだろ?王家の家宝を盗った奴がスラム内にいたらしくてな。取り戻すそのついでに、この有様よ。しかし、ここまでやることはなかったんじゃねーのか?俺のダチもこのスラムにいたのによ」
「そうね……じゃあ、スラム内の人達はみんなどこに避難したの?知ってる?」
私の質問に対して目の前の獣人は、思いっきり顔を歪めた。
──え……まさか……。
それは、閉じ込められていた時も、絶対考えないようにしていた最悪の可能性だ。
「お前は、スラム出身か?」
こくりと、震えながら頷く。
「ちっ……酔いが醒めたな。それが本当なら、お前はスラムの生き残りになるのか」
「──ねえ、みんな、は……?」
聞きたくない。聞いたらダメ。
相手の服を、無意識にキツく握りしめる。
獣人は眉を寄せたまま、口から残酷な言葉を私に向かって吐いてきた。
「──竜人がここを襲った日、スラム内の奴等は全員……例外なく死んだ。俺もダチを弔うために、今日はここに来たんだ」
──ぷつり……と……
私の中にあった何かが、音を立てて切れた。
・・・
「──お前、大丈夫か?」
「んー……大丈夫、大丈夫。心配してくれんの?あんた獣人のくせに、優しいじゃん?」
「……いや。お前、無理してるだろ?スラムに家族でもいたか?」
「いたけど……まあ、これ見たら、ね……」
跡形も無いスラム。
リカルドもアビーもロイも、全員があの日に死んだなんて、未だに信じられないでいた。
──私に、残酷な現実を突きつけるな。
「おい、変なこと考えるなよ?自分を大事にしろよ?」
「あはははっ!!!あんたロイに似てる。本当はすごいお節介で優しいんだ?」
「そいつは、お前の恋人か?」
「…………さあ?……好きだったのか、な……?」
そうだとしても。
もう想いを伝えることは、できないのだ。
「質問に答えてくれて助かった。私はドナ。あんたの名前は?」
「……ヴェンダル」
「──そう。じゃあ……ヴェンダル。約束は守るよ。どうせなら、今日は私を慰めてよ?」
自嘲的な笑みを浮かべる私に、ヴェンダルは静かに手を差し出してくる。
驚いて、ヴェンダルを見上げると真顔で──
「………………来いよ」
私達は手を繋ぎ、寄り添いながらスラムだった場所を確認するように歩く。
途中、ヴェンダルは友人を弔うために石を器用に積み上げ、そこに持ってきた酒を掛けていた。
私はそれを、側で眺める。
「……番って、大事?」
弔いが終わるのを待って、ヴェンダルに聞いてみた。
彼は困ったように、笑う。
「……そりゃ大事だろ。俺達にとっては、だけどな」
「番が死んだら、やっぱり悲しい?」
「番ってもんは、魂で繋がってるって聞くから、相手が死んだら、追いかけて死ぬくらいはするだろ」
番が死ぬと追いかける…?
それはまるで──
「なんだ?」
「……いや。ヴェンダルには、いないの番?」
「だから、いたらお前を誘ったりしねーっての。まだ番が生まれてるのかも、出会ってねーだけなのかも、俺より先に死んだのかもわからないんだ」
「……そんなの、呪いだ。私なら嫌になる」
「はははっ、拗ねんなよ。人間には、わかんねーよなあ」
用事も終わったし、そろそろ行こうぜと腰に手を優しく回された時だった。
私に触れていたヴェンダルの左腕が、音もなく切り付けられたのだ。
鮮血が飛び散り、反動で私達は地面へと転がる。
──叫び声が、夜空を割った。
私の目の前には、血を滴らせた剣を握ったまま虚に立ち尽くしている竜人。
これは、まずい。
咄嗟に私はヴェンダルを庇うように、その体に覆い被さった。
「…………そこをどけ。そいつは殺す」
「こいつを見逃してくれたら、私はお前のとこへ、このまま一緒に戻る」
「………………聞こえないのか?殺すと言っている」
竜人からは、殺気が伝わる。
とてつもない威圧感で、誰もその場から動けないでいた。
それとは裏腹に、私の心はなぜか急速に冷えていく。こんなことくらいで、他者の命を簡単に奪おうとしているこのトカゲには最早、嫌悪感しかない。
私に、一体何の価値があるのか。
深く息を吐き、呼吸を整えたあと、ヴェンダルを抱き締めたまま私は口を開く。
「お前がこいつを殺したら、私も一緒に死ぬ」
腕の中で、ヴェンダルが息を呑む。
脅しではない言葉は、トカゲにかなり効いたようだ。その場で固まって、動かなくなってしまった。
やはり番に死なれるのは、ヴェンダルが言ったように禁忌に近いようだ。
暫くの沈黙後、トカゲは乱暴に剣を払い、残った血を布で拭っていた。
「────今回だけだ。二度は、ない」
「………………」
「私の気が変わらないうちにさっさと失せろ、犬」
血だらけのヴェンダルを、なんとか立ち上がらせる。そして太腿に巻いていたベルトを取り外し、ヴェンダルの腕にきつく巻いた。
これで、止血くらいにはなるといい。
「……痛む?」
「……っぐ……大丈夫だ。……ドナ、お前……番がいたのか?あいつ……王子だ、ろ……?」
訳がわからない様子で、竜人に怯えながらも彼は性急に質問を投げかける。
ヴェンダルがすぐにわかってしまうほど、トカゲは有名で偉いらしい。
「ごめん、ヴェンダル。約束は守れそうにないや」
「──はは……相手がよりによって竜人かよ」
「巻き込んで悪かった。行って、もう会うこともない」
突き放すように言えば、ヴェンダルは酷く傷付いた顔をした。
そのあとに眉を寄せ、少しだけ笑みを浮かべて、彼はこう言った。
「……っ……お前は……悪い、女だな……」
ヴェンダルが去った後、静寂だけが残った。
夜空を見上げて、ヴェンダルのこれからの無事と、どこかにいる番が見つかるようにと、静かに目を閉じて願った。
「終わったなら帰るぞ。お前には仕置きが必要らしい」
私はまた俯いて、トカゲの話を聞いていた。
「屋敷に戻り次第、お前を城へ移す。また逃げたり言うことを聞けないのならば、今度は足の腱を切り落とす。お前は私だけ見ていればいい」
────こいつが、羨ましいよ。
きっとこのトカゲは、今まで幸福な日々を過ごしてきて、何も失ったりしたことがないんだろう。
私は親に捨てられたり、寝る場所に困ったり、飯が食えなかったり、裏切られたり、殴られたり、体を好き勝手にされたり、家族が殺されたり。
あーあ。
いいこと、全然なかった人生だったな。
目の前にいるのは、圧倒的な力を持つ竜人。
誰からも傅かれ、大事だという番さえも己の自由にできると思っている。
相手のことなんて一切考えず、一方的に蹂躙する姿はただの獣。
──だからお前には、罰が当たったんだ。
こいつの唯一無二の番が、私なんて、罰が。
私は顔を上げて、前を見据える。
「竜人様。私と、会話をしたいのでしょう?」
「……っ……」
私は髪を掻き上げ、男を誘うように振舞う。
そして、初めてまともにこいつと真正面から顔を見合わせた。
番に、しっかり目を合わせて話しかけられたのが嬉しいのか、トカゲの顔は怒りから一転して、歓喜へと満ちている。
本当におめでたいやつだ。
互いの温度差に、私は静かに苦笑した。
「こんなところに、たった二人きり。何をしたって、話したって、誰も聞いていないし、見ていないわ。好き放題できるわね?それにお互いが番っていうなら今更、恥ずかしがることなんて、何もないでしょう?」
スルッと着ていたワンピースの裾を持ち上げ、今日は暑くて体が火照るの……と、自分の太腿を露わにする。
──ごくり、とトカゲの喉が上下して、劣情がその顔にはハッキリと浮かんでいた。
こんな外で興奮出来るなんて、やっぱりただの獣ではないか。
「私が欲しいなら、質問に答えてくれる?」
「…………なに、を──」
「私が知りたいのは、ここであの夜に何があったか。知っているのは、当事者だったあなたでしょう?」
トカゲは途端に顔を歪める。
感情の起伏が激しい男は面倒だ。
まるで、子供を相手にしている気分になる。
「────やっと、私に話しかけたかと思えば……それをお前が知る必要はない」
顔を背けるトカゲに近付き、縋る。
甘えるように上目遣いで見上げ、困ったように助けてって仕草で、相手の頬に手を伸ばす。
「私のお願いを、聞いてくれないの……?話してくれたら、今夜は私を好きにしていいよ?したいこと、たくさんあるでしょ……?」
トカゲの形の良い唇を、するりと指で撫でた。
その指を自分の唇に這わせ、見せつけるようにキスをする。
「──な……っ……!?」
間接キスくらいで、面白いほどに反応している。
女から迫られるなんて、こいつのこの美貌なら今までもたくさんあったはずだ。
──番ってのは、本当に厄介な呪いだ。
取り乱すトカゲをよそに、私はナイフを素早く取り出して、竜人の首にピタリと当てた。
「驕るなよ竜人。私の目を見て、真実だけを語れ」
「──っ……お、まえ……!」
「私に触れるな。触れたらここで舌を噛み切って、死ぬ。私に死なれると困るんだろ?」
番が弱点なら、利用してやるまでだ。
眉を寄せて固まるトカゲは、やがて観念したように両手を上に上げた。
「───そんな物で私は殺せないし、お前に死なれても困る。話すから……そんなことをするな……全部、話す……」
私は黙ったまま、ゆっくりナイフを首から離した。
それから聞いたのは、予想通りの内容だった。
凍らせたリカルドとアビーの二人はあのまま氷の中で死んで、私の匂いを強く纏っていたロイは、灰も残らないほど焼かれていた。
スラムに用があったのは、竜人族の宝が盗まれて、このスラムに流れていたからそれを取り戻す為。
このトカゲがなぜ王子なのに、スラムに来ていたのかは、こいつが王国の一番偉い騎士団長で、全てを指揮していたから。
そして浄化──という名目で、王から秘密裏に命令が下り、スラムを全て消すという暴挙に出た。
しかし、スラムのゴミを消す為にいざ来てみれば、唯一無二の愛しい番がいた。
すぐに攫って、閉じ込めたこと。
毒を飲まされた番をずっと看病したこと。
その時に、違う男の名前を呼ばれて嫉妬したこと。
ずっと目を見て、会話したかった。
本当は離れたくない、側にいたい。
大事にしたい、たくさん抱きたい。
今までの事と、竜人の欲望を延々と語られた。
お前の気持ちはわかった。
「──じゃあ、私の気持ちは……?」
竜人は、私の居場所を奪った。
家族を奪った、好きだった人も奪った。
それに、これからは?
城の中に連れて行かれた後は?
誰に祝福される?
子供なんて出来たら?
スラムのゴミに誰が傅く?
そこに自由はある?
これからも、こいつは私の未来をずっと奪う。
その想像は、容易にできた。
「お前の気持ち……?お前は番だから、私を愛するのは当然のことだろう?他の男と交わっていたのはもう許す。相手は、ちゃんと殺したからな」
「───そう……」
どうやら、私の気持ちはわからないらしい。
価値観の違うこいつと、この先ずっと一緒に生きるのは無理そうだ。
ふふっと心の中の私が小さく笑う。
私を尊重してくれない男に、何の価値がある?
私はこんなちっぽけで、何も持たない存在だけど、プライドだって、誇りだって、守りたいものだってあった。
────全部消えたけど。
だから───
最後に残った私だけは、誰にも好きにさせない。
絶対に、誰にも渡さない。
私は、私で在りたい。
この舞台から降りる覚悟をちゃんと決めたから、そこで見ていてほしい。
「……私は、行かない」
「──何を言っている…?」
「私の帰る場所はここなの。もう何もないの私。私の大事なもの……あんたが全部奪ったから」
「私がいるだろう!?私がお前の帰る場所に──」
「それ本気で言ってる?いらないよ……」
竜人から距離を取り、自分の首にナイフを静かに当てる。
────さあ、これが最後。
何も願いを聞いてくれない神様は、今世の私にとても意地悪だ。
私のことだから、前世で何かやらかしたのかもしれないが来世があるなら、少しくらいまともだといいなあ。
誰にも打ち明けたことのない、私の欲しいもの。
──来世で、手に入るかな?
優しい家族と、温かい食事に、寝床。
柔らかい日差しと、風を受けて、日々を穏やかに過ごし、心から愛する人と最期まで添い遂げたい。
「──だから、ここで終わり」
竜人は目を見開き、震えながら焦り出す。
私に手を伸ばそうとするが、思うように体が動かないようだ。
今度こそ本気で、私が死ぬと悟ったんだろう。
恐怖で顔が引き攣る竜人を見て、私は笑う。
「私が初めての挫折と絶望をお前に贈るよ」
自分の首を、そのままナイフで掻き切った。
命が静かに──急速に流れ出す。
血の温度が、やけに生暖かく感じた。
死に向かう最中、聞こえたのは悲鳴だった。




