第35話《聖地が消えた朝、世界が動き出す》
レイラ死後一ヶ月──
【1】良太の部屋・朝
(カーテンの隙間から、やわらかい朝の光が差し込む。)
(薄暗く、カビ臭かったはずの部屋は──)
(床には埃ひとつなく、安物のラグはきちんと整えられ、
積み上がっていたダンボールは消え、
壁際のカラーボックスには最低限の本と小物だけが
「余白」を意識した配置で並べられている。)
(空気さえも、どこか軽い。)
良太(布団の中でうめき声)
「……あ゛ー……腰いてぇ……」
(のそりと上体を起こす。寝ぼけ眼で部屋を見回し──固まる。)
良太
「…………は?」
(数秒の沈黙。)
良太
「……あれ? 俺の……“聖地”は?」
(視線が部屋の隅に走る。)
(かつてフィギュアとグッズで埌尽くされていたメタルラックが──)
(今は、たたまれたバスタオルと謎にセンスのいいアロマディフューザーだけになっている。)
良太
「ちょ、待て待て待て待て……!」
(慌てて布団を蹴飛ばし、ラックの前へ。)
良太
「俺の限定フィギュアどこいった!?
推しT、アクスタ、抱き枕カバー……あの尊い山が……!」
レイラの声
「おはよう、良太。朝から、騒がしい。」
(頭の中に響く、あの落ち着いた声。)
良太
「……レイラぁぁぁぁ!!」
(天井を仰ぎ、両手を突き上げる。)
良太
「俺の“青春と財産の結晶”返せぇぇ!!」
レイラ(淡々と)
「それ、汚れた祭壇。そう呼ぶ。
あのカビ臭さで、よく呼吸、してたね。」
良太
「ツッコミどころそこじゃないから!!
なんで、なんで俺のグッズが綺麗さっぱり消えてんの!?」
レイラ
「決まってる。
彩に会いに行く、お金。作るため。」
(良太、一瞬動きを止める。)
良太
「……は?」
レイラ
「あなた寝てる間に、何回か、身体 借りた。
質屋の場所も、交渉の仕方も、全部、一から勉強。
フィギュア、状態 よかった。思ったより、いい値段。」
(机の上には、きちんと封筒に入れられた紙幣。
表面には綺麗な字で《当面の活動費》と書かれている。)
良太
「……マジで……売ったのか……俺の……十五年分の愛が……」
(その場にへたり込む。)
レイラ
「安心して。彩のために使う、お金。
あなたの“推し”、もともと人間。
ちょっと、方向、修正しただけ。」
良太
「論破の仕方えぐいな……!」
(ふと、自分の腹まわりに手を当てる。
前より明らかに“掴む肉”が少ないことに気づく。)
良太
「……ん? 待て、なんか……細くない?」
(立ち上がり、全身鏡の前へ。)
(以前はパツパツだったTシャツが、少し余裕をもって落ちている。
顎のラインも、気持ちすっきりして見える。)
良太
「え、ちょっと待って、誰の身体これ!? フォトショップ入った?」
レイラ(少しだけ誇らしげに)
「それも、私の成果。
あなた眠ってる間に、毎晩 “レイラ体操”、ちゃんとした。」
良太
「俺の知らないところで俺の身体を鍛えるな!!」
レイラ
「彩の初仕事、見る。だからね。
中年太りの無職男、そのまま、ノイズ 強すぎ。
“背景”に、まぎれるには、最低限の輪郭、整える必要 ある。」
良太
「言い方ぁ……」
(しかし、鏡に映る自分を、もう一度まじまじと見る。)
(腹はまだ理想には遠いが、“絶望”ではない。
肩の丸みも、ほんの少しだけマシになっている。)
良太(小声で)
「……マジで、半月でここまで……?」
レイラ
「あなたの体力、壊滅。
でも、骨格、意外と悪くない。
あとは、習慣と、少しの覚悟。」
良太
「……フィギュア売って、勝手に筋トレさせて……
やってること、だいぶ鬼だけどな……」
(良太、ふっと視線を落とす。)
良太(続けて、弱く)
「……でも。
人間としては、まともになった……よな。
今までの俺の生活習慣が破綻してただけで……
レイラのしてくれてること、正しいって……わかってる。
身も心も……痛ぇけど。」
(鏡に映る“少しだけ変わった自分”に、指先が触れる。)
良太
「……まぁ。
その……なんだ。
ありがとう、って言うべき……なんだろうな。」
(小さな静寂。)
レイラ(淡々と、しかしわずかに柔らかく)
「感謝、いらない。
私は、私と彩のために、動いてるだけ。
でも──気持ち、受け取る。」
良太
「……素直じゃねぇな、お前も。」
レイラ
「あなたに、言われたくない。」
(ふたりの間に、朝の光がゆっくり差し込む。)
ナレーション
──レイラ死後一ヶ月。
カビ臭いオタク部屋は、“移動拠点”へと作り替えられ、
十五年分のフィギュアは、“誰かの初舞台を見届けるための切符”へ姿を変えた。
そして、無職・与那嶺良太の身体もまた、
知らぬ間に、“誰かを支えるための器”として形を変え始めていた。
第36話へ続く
■あとがき
良太とレイラ──
この二人の関係は、ここから一気に“物語の中核”へ変わっていきます。
今回描いたのは、
レイラ死後一ヶ月という、もっとも静かで、もっとも深い水面下の変化。
華やかでも劇的でもないけれど、
人生がふと“動き始める瞬間”というのは、いつもこんなふうに
生活のディテールから静かに侵食してくるものかもしれません。
レイラはもう生きていない。
けれど彼女は、良太の部屋を整え、睡眠中の彼の身体を鍛え、
フィギュアを売って資金を作り──
そのすべてが
「彩の初仕事を見る」という、たったひとつの願いに向かっていた。
愛情でも執着でもない。
彼女にとって“美”とは 選ぶこと、手放すこと、前へ進むこと だから。
そして今回、
フィギュアが消えた代わりに現れた“変化した良太”は、
未来で彩を支えるための 最初のパーツ になります。
彼の変化は、
レイラに使役された結果ではなく、
“自分も彩の今を見たい”という理解から始まるもの。
このエピソードは、
三人を繋ぐ物語の「ゼロ地点」でもあり、
ここで初めて彼らは 同じ方向を向く準備をした と言えます。
次回、良太とレイラは“お金の問題”と向き合います。
ここから物語は、静かに、しかし確実に、
彩の未来へと傾きはじめます。
どうぞ、この先の三人の歩みを見届けてください。




