第34話《天井裏に眠っていた祈り》
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【1】夕方──UTAHARA OFFICE
窓辺に落ちる橙色の光は、一日の熱とざらつきをそっと置き去りにしていた。
扉が開き、彩と神谷が静かな達成感と疲労を肩に乗せて帰ってくる。
南条
「おかえり。どうだった、御堂玲奈は。
……歌原レイラの背中を見てきた彩ちゃんには、刺激が弱かったか?」
彩は小さく首を振る。息がまだ弾んでいた。
彩
「そんなことないです。
テレビも雑誌もCMも……全部の瞬間で手を抜く気配がなくて。
……圧倒されました。息が止まるほど。」
神谷
「本当に、顔色ひとつ変わらなくて。
“プロ”ってこういう人のこと言うんだって、実感しました。」
渡辺が封筒を取り出し、神谷へ差し出す。
渡辺
「お疲れさん。神谷くん、これ日当な。
機材運びも雑務も、影でしっかり動いてくれた。」
神谷は深く頭を下げる。
神谷
「……お給料いただくからには、働かないといけないので。
こちらこそ、ありがとうございました。」
彩
「では、お先に失礼します。」
神谷
「失礼します。」
(二人の背が夕暮れに溶けていく)
彩(歩きながら、ふっと笑って)
「……ねぇ、章介“くん”でいい?」
神谷(ちょっと驚いて)
「あ、うん……。じゃあ僕も……“彩さん”って呼んでいい?」
彩(照れながら頷く)
「うん。
その方が……なんか、しっくりくる気がする。」
(扉が閉まる)
ナレーション
──“距離”なんて、名前ひとつで変わってしまう。
その夕暮れ、二人の間に落ちたのは、小さくて静かな変化だった。
その声は夕方の光に吸い込まれ、扉の向こうでそっと溶けた。
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【2】静かなオフィス──渡辺と南条
南条が椅子に預けた背中のまま、頬を緩めてつぶやく。
南条
「……あの神谷って子、同行させたんですね。
以前の渡辺さんなら、絶対にしなかったでしょ。
年取ると、人情に弱くなるんですか?」
渡辺は書類を整えながら、穏やかな声で返した。
渡辺
「私は変わらないよ。
ただ──彩にとって“必要だ”と思っただけだ。」
南条
「必要? あの子が?」
渡辺はペンを置き、ゆっくりと南条を見る。
その目は、事務所で最も“本物”を見抜いてきた者の眼差しだった。
渡辺
「南条。
モデルの一番の武器はなんだ?」
南条
「容姿でしょう。生まれ持った見た目は、選ばれた才能ですから。」
渡辺
「確かに入口はそこだ。
……だが、出口は違う。」
空気がわずかに張り詰める。
渡辺
「私は何人も見てきた。
美しさを持ちながら、自分で壊れていった子たちを。
競争に負けたんじゃない。
寄ってくる金と名声に心を濁らせ、自滅したんだ。」
南条
「……耳が痛いですね。」
渡辺
「彩は違った。
この事務所を売れば……いや、“売らなくても”、
レイラが残した資産と権利だけで、一生どころか三代先まで暮らせる。」
南条
「三代……?」
渡辺
「レイラの肖像権、パブリシティ権、広告使用料、
死後も動き続けるSNSメディアの価値、
ノルディとの専属契約の残存権──
全部まとめたら“事務所”という箱の値段なんて比較にならない。」
(南条、息を呑む。)
渡辺
「……そんな“財産の塊”をだ。
彩は全部、私に譲る書類を前にしても、迷わなかった。」
南条
「っ……最愛の人の言葉だったから、じゃないんですか?」
渡辺はゆっくり首を横に振る。
その顔には、怒りでも誇りでもない、ただ深い痛みが滲んでいた。
渡辺
「人はな、南条。
大金を目の前にすると──
愛より、正義より、家族より、簡単に心が揺れるんだよ。」
(沈黙。)
渡辺
「遺書も、“最期のメッセージ”だって都合よく解釈する。
“これは俺のものだ”って、信じたいように信じる。
……何人も、それで道を誤った。」
渡辺の視線が遠くを見る。
渡辺
「でも、彩は違った。
社長の座を私に譲る書類を前にしても、手が震えなかった。
『守りたいものは、ここにある』って……
ただ、それだけだった。」
(南条、言葉を失う。)
渡辺
「南条。
最愛の人が遺した言葉だとしても──
二十億を“全部預ける”決断が、お前にできるか?」
その言葉は
叱責でも問い詰めでもなく、
ただ静かに胸の中心に落ちる“真実の重み”。
南条
「……無理、ですね。
怖くて……きっと、どこかで疑います。」
渡辺は、ほんの一瞬だけ柔らかく微笑んだ。
渡辺
「彩は疑わなかった。
レイラが守った場所を、自分が守るんだと。
あの子の“軸”は……金でも名誉でも折れない。」
(静かな息)
渡辺
「……ああいう強さを、美しさと言うんだよ。」
南条の胸に、何かが熱く積もる。
南条
「……そりゃ、レイラさんが選ぶわけだ。」
渡辺
「だから南条。
彩の前に“道”を作ってやれ。
お前の位置は……まだ終わってない。」
南条は、小さく深く頷いた。
胸の奥で、静かな決意が灯る。
夜が満ちていく。
白と黒が交差した一日の余韻が、
UTAHARA OFFICEに深く積もっていった。
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【4】【日曜日・昼前・ガレリア南青山1207号室前】
(青空。街路樹の影がアスファルトにゆっくり揺れる。
神谷章介は自転車を止め、スマホのライン通知を確認する。)
『住所:東京都──』
(顔を上げる。
巨大なガラス壁。重厚な庇。
磨き抜かれた石材のエントランスにはコンシェルジュ。
ホテルの静謐さがそのまま“日常”として存在している。)
神谷(心の声)
「……すげぇ……。
これ、本当に“彩の家”……?」
(何度見上げても建物の全貌は掴めない。)
神谷(小声で苦笑)
「トップモデルの姉が残したマンションって……
相場とか、もう別世界なんだろうな。
アルバイト何年分とか……計算が意味ないレベルだ。」
(嫉妬ではない。
母子家庭で育った自分とは“世界が違う”のに──
彩はいつも、ただの高校生のような顔で笑っていた。)
神谷(深呼吸)
「……行くか。」
(インターホンを押す。)
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【5】【室内】
(ドアが開き、彩が申し訳なさそうな笑みを浮かべて出迎える。)
彩
「章介くん、来てくれてありがとう。」
神谷(靴を脱ぎながら)
「ううん……。ところで、ほんとに……すごいところ住んでるね。」
彩(苦笑)
「私のじゃないよ。
お姉ちゃんが……“もしもの時”のために残してくれた場所。」
(胸に小さな痛み。)
神谷
「……そっか。」
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【6】【通帳探し】
彩
「──章介くん、めんどくさい雑用頼んでごめん。
私だけじゃ、どうしても見つけきれなくて。」
彩の声には悔しさがあった。
彩
「お姉ちゃんが残した通帳と印鑑……
この部屋のどこかにあるはずなの。一緒に探してくれる?」
神谷
「もちろん。だけど……本当にここに?」
彩
「うん。実家にはない。
大事なものなら、あの人は絶対に──両親の手が届かない場所にしまうから。」
神谷
「……そういうことか。」
彩(遠慮がちに)
「時給……千円で、どうかな?」
神谷(目を丸くして笑う)
「時給なんていらないよ。
言われなくても手伝うつもりだったし。」
彩
「……ありがとう。」
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【7】【半日探しても見つからない】
(箱を開ける音、収納を探る気配だけが部屋に響く。
数時間が経ち、日差しが傾く。)
神谷(床に座り込み苦笑)
「……彩のお姉さん、マジで手強いな。」
彩(髪を結び直しながら)
「ほんっとに……もう……どこに隠したの……?」
肩が落ちる。寂しさと焦り。
神谷
「再発行とか……別の手はあるんだよね?」
彩
「うん。
弁護士さんも“払い戻しできます”って言ってた。
でも……それじゃ、違うの。」
瞳が滲む。
彩
「“残した”って分かってるなら……
私、自分で見つけたいんだよ。
お姉ちゃんが私のために選んだ場所なんだから。」
神谷(静かに)
「じゃあ──探そう。
見つかるまで。」
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【8】【さらに一時間後・バスルーム】
(彩がタオルを整えていると──
ふわりと空気が揺れ、淡い香りが落ちてくる。)
彩
「……あれ……?」
神谷
「どうした?」
彩
「……香水。
お姉ちゃんの……。」
視線が天井の点検口へ。
彩
「……まさか。」
(脚立を持ってきて天井板に手を伸ばす。
わずかな埃、濃くなる香り。)
(その奥から──
通帳。印鑑ケース。
使い込まれた化粧ポーチ。
どれも丁寧に包まれ、まるで“今日まで息を潜めていた”かのように。)
彩(震える声)
「……お姉ちゃん……
五億の通帳、なんで……こんなところに……」
神谷(固まる)
「ご、ご、ごおく……?
いやいや、住む世界違いすぎ……
そんな大金持ってたのに、時給千円で俺をこき使う気だったの……?」
彩(赤面)
「ち、違うよ!
お姉ちゃんのお金は学費とか生活費とか……最低限のことにしか使わないって決めてるの。
時給も、あの、その──」
神谷(笑顔で)
「冗談だよ。
……そのお金も、このマンションも、全部“お姉さんの想い”だろ?
そんな気持ちのこもったもの、無駄遣いできるわけないよな。」
少し照れながら。
神谷
「彩さんの、そういうところ……嫌いじゃないよ。」
彩がふわっと笑う。
彩
「……えへ。ありがと。」
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【9】【ナレーション】
香りは、時を閉じ込める。
紙より脆く、言葉より正直に──
“その人がここにいた”ことを証す。
天井裏にひっそりと置かれていたのは、
五億の通帳ではなく、
彩の未来を守り抜くための 姉の祈り だった。
そして彩は知る。
本当に大切なものは、
手放したくない誰かのためにだけ、
人は“完璧に隠す”ということを。
──第35話へ続く。
【あとがき】
静かな部屋の天井裏に眠っていたのは、
五億の通帳でも、ポーチでもありませんでした。
──姉・歌原レイラが、
「この子だけは守りたい」と願い続けた祈りそのものでした。
レイラは華やかな世界で生き、誰より傷つき、
それでも最後の最後まで彩の未来だけを見ていた。
その想いが布一枚、香り一滴の中に息づいていた。
今回、彩が見つけたのは“お金”ではなく、
**「自分は愛されていたという事実」**です。
そしてその真実が、これからの彼女の歩みに
どれほどの強さを与えるのか──物語の核心に近づくほど、
この天井裏のシーンが持つ意味は重くなっていきます。
一方で、彩と神谷の距離も、
気づけば“呼び方ひとつ”で変わり始めていました。
大事件ではなく、小さな変化。
でも人の人生は、いつもそういう瞬間の積み重ねで
大きく方向を変えていくのだと思います。
そして渡辺が語った「価値」と「人の心の揺らぎ」。
あの重いモノローグは、
彩の“強さの証明”であると同時に、
これから起こる数々の選択と対峙するための
読者への予告状でもあります。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
あなたの読み進める一ページが、彩たちの呼吸を支えています。
次話も、どうぞよろしく。




