第32話《春の交差点》
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【1】早朝の街角
(まだ薄暗い住宅街。新聞受けに紙が当たる乾いた音。冷えた空気が肺を刺す)
心の声(彩)
──社長を譲って、時間ができた。
お姉ちゃんの遺書が未来を灯してくれたおかげで、やっと“走り出せる”気がした。
(靴紐を締め直し、スニーカーがアスファルトを叩く)
(角を曲がると、自転車のライト。新聞を束ねる背の高い影──神谷章介)
彩
「……神谷くん、おはよう」
(章介、少し驚きながら会釈)
章介
「おはよう、歌原さん。ジョギング?」
彩
「うん。久しぶりにね」
(短い沈黙。彼は再びペダルをこぐ。
テールライトが朝靄に滲む)
心の声(彩)
──モデルになるんだ。
何をすべきかは、お姉ちゃんが教えてくれた。
時間もできた。よし、やるぞ。
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【2】教室・始業前
(窓際。春の陽射しが白いノートを照らす)
彩
「章介くん、毎朝働いてえらいね。家計を助けてるの?」
章介
「うん。母子家庭なんだ。父さんが亡くなってから、母さん一人で頑張っててさ。
少しでも助けたいって思ってる。」
彩
「すごい……ちゃんとしてる。
うちなんて両親とも働かないの。しかも──あ、家庭裁判所の件、知ってたよね。」
章介
「うん。
それより……お姉さんの会社の社長、譲ったって? 専属モデルになったってSNSのニュースで観たよ。」
彩
「そう。これから“現場”の仕事をするの。
どんな日々になるのか、ちょっと楽しみ。」
章介(小さく笑う)
「歌原さん、絶対似合うよ。
……俺も、モデルでも雑用でもいい。仕事、してみたいんだ。新聞配達だけじゃ苦しくて。」
彩(瞬き)
「ん? モデルも、って……章介くん、自分がイケメンって自覚あるんだ?」
章介
「えっ!? いやいや……ちがっ……!
“できるなら”って話で! 自覚とか全然──!」
彩(くすっと笑う)
「ふーん。
でも、そう言えるのって、ちょっとカッコいいと思うよ。」
(章介、耳まで赤くなる)
章介
「だから違うってば……! ほら、そういうのやめて……。」
彩
「やめないけど?(小声で)
……章介くん、顔いいしね。」
章介
「こ、声が小さくて逆に聞こえるんだけど!?」
(彩はノートを閉じ、少し横目で笑う)
心の声(彩)
──この反応、ちょっと好き。
彩
「社長に聞いてみるね。」
章介
「マジで? 助かる。」
(視線が交わる。窓の外、風が桜の花びらを散らす)
心の声(彩)
──“誰かのために働く”って、まっすぐで綺麗。
お姉ちゃんも、きっとこの人の生き方を好きになったと思う。
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【3】夢の中の夜
(暗転。柑橘の香り。白い照明。静かな呼吸音。彩は椅子に座っている)
レイラ(柔らかな声)
「はい、ばんざーい」
彩
「……夢?」
(レイラは笑いながら、肩・背中・腕を確かめるように触れていく)
レイラ
「僧帽筋、いい感じ。肩甲骨の可動域も完璧。
──彩、今日の顔、いいわね。」
彩
「またそのセリフ。もう……いないくせに。」
(レイラ、彩を覗き込むように微笑む)
彩
「……お姉ちゃんの服、何着か残ってるの。
みんな黒で、少しサイズは大きいけど……
背が伸びたら、着てみようかなって。」
(レイラ、静かに目を細める)
レイラ
「そうね。私は“黒”を纏って生きてきた。
闘う場所も、背負うものも、全部その色だった。
でも──彩。あなたは私を追いかける必要なんて、ひとつもないのよ。」
(彩、戸惑うように顔を上げる)
彩
「……じゃあ、私はどんな色なの?
自分の“色”なんて、考えたことなかった。」
レイラ(迷いのない声)
「まだ気づいていないだけ。
人は、自分の生き方が定まったとき、自然と色を纏うの。
彩、あなたにはもう“始まりの光”が見えている。
だから大丈夫。
いつか必ずわかるわ──
“あなた自身の色”が、どんな世界を照らすのか。」
(彩の胸の奥で、温度を帯びた何かが小さく揺れる)
(レイラの手が彩の頬に触れ、香水の残り香がふわりと包む)
レイラ
「ひとりで頑張って偉いね。孤独でも走れる人が、未来を掴む。
──春、ね。次は、あなたの季節よ。」
(光が滲み、声が遠のく)
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【4】目覚め
(朝。カーテンの隙間から陽光。彩の頬を一筋の涙がつたう)
彩(囁くように)
「やっぱり……夢、か。」
(枕元には姉の香水の小瓶。
彩は指先で蓋を撫で、深く息を吸う)
心の声(彩)
──もう少し、見ていたかったな……お姉ちゃんの夢。
(外で新聞配達のベル。
彩はベッドから立ち上がり、今日もスニーカーの紐を結ぶ)
ナレーション
──泣いて目覚めた朝ほど、強くなれる。
静かな光が、今日も彼女の背中を押していた。
第33話へ続く
◆あとがき
第32話《春の交差点》を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、彩にとって「春の始まり」を象徴する回でした。
社長という肩書きを手放し、ようやく“自分の足で走り出す”ステージへ移る。その第一歩目に、神谷章介という同級生の存在、そして夢の中で寄り添うレイラの温もりが重なります。
特に今回描きたかったのは、
「彩はレイラの後継ではなく、彩自身として立つ」
というテーマです。
レイラは黒を纏い、戦いの色を選んだ人間。
でも彩は違う。
過去を背負う必要も、姉を模倣する必要もない。
彼女にはまだ気づいていない“自分の色”があって、それはゆっくりと季節のように形になっていく。
夢の中の会話は、ふたりの絆を描きつつ、
今後の彩の成長への「静かな予告」でもあります。
そして、泣いて目覚めた朝にまた靴紐を結ぶ彩は、
まだ頼りないけれど確かに前へ進もうとしている女の子です。
春は、始まりの季節。
ここから彩の物語は、迷いながらも確かに開いていきます。
次話、第33話もどうぞよろしくお願いします。
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