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第16話 《香りの罠》



歌原レイラ(28)──死まで、あと18日。


彩(15・高1)──春/5月1日。






---




0:プロローグ 沈黙の部屋




(夜。蛍光灯が滲み、窓ガラスに雨粒が走る。


テーブルの上には請求書と赤い封筒。


冷めた茶の湯気が、誰もいない空気にほどけていく。)




陽子(心の声)


──愛されるたびに、壊れていった。


それでも、手放せなかった。


声も、ぬくもりも。


私を“生かす毒”だった。




(封筒を開く音が、静寂を裂く。)






---




1:夜・歌原家




(蛍光灯の白が、剥がれた壁紙を照らす。)


(和人が封筒を掴み、机に叩きつける。)




和人


「……家を担保にしたのか。」




陽子


「少しだけよ。すぐ返せると思ってた。」




和人


「“思ってた”だと? レイラの金をホストに流すのは勝手でも、


家まで巻き込むな!」




陽子


「あなたこそ。投資も事業も全部失敗して──


誰の金で夢を見てたの?」




和人


「黙れ!」




(缶ビールが飛ぶ。金属音。頬に冷たい衝撃。血が一筋落ちる。)




和人


「これだから働いたことのない女は……!」




(舌打ち。寝室の扉が乱暴に閉まる音。)


(陽子は肩を落とし、テーブルに座り込む。)




陽子(心の声)


──「苦労はさせない」って言ったのは、あなただった。


罵られても、殴られても、


まだ“妻”でいろというの?




(明かりが消え、暗闇にスマホの光が浮かぶ。)






---




2:陽子の部屋(夜)




(鏡の前。頬にタオルを当てる。


鏡の中の女は、誰よりも他人だった。)




陽子(心の声)


──この顔で、まだ“妻”って呼ばれるの?




(スマホが震える。《赤西》の名前。


一瞬のためらい。通話ボタンを押す。)




赤西(低く)


「……陽子さん。」




陽子(かすれた声)


「今から……会えない?」




赤西


「わかりました。」




(通話の切れる音。


陽子は鏡の中の自分に微笑む。)




──壊れる音は、静かなほど綺麗だった。






---




3:喫茶店「マリエッタ」




(夜。曇り硝子越しの光が、カップの縁をなぞる。


時計の秒針が静寂を刻む。)




陽子(心の声)


──彼に会うのは、今日で最後。


そう決めたのに。


終わりを決めた瞬間に、人はいちばん弱くなる。




(ドアベルの音。


黒いシャツ、細身のジャケット──赤西が現れる。)




赤西


「……九日ぶりですね。頬が赤い。どうしたんです?」




陽子


「転んだだけよ。」




(視線をそらす。コーヒーの香り。氷の音。)




陽子


「それより、どうして連絡を?」




赤西


「会いたかったからです。」




陽子(小さく笑う)


「No.1ホストが、五十過ぎの女に“会いたかった”なんて。


嘘が下手ね。」




赤西


「それでも本気なんです。」




(陽子は目を伏せ、カップの縁をなぞる。)




陽子


「言葉を商売にしてる男が“本気”を言うときは、


もう戦いに負けてるのよ。」




(沈黙。氷の解ける音。)




陽子(小声で)


「……それでも、聞きたかった。


あなたの下手な嘘を。


──会いたかった。惨めなくらいに。」




(赤西、何も言わず、テーブルの上の陽子の手に触れる。


掌の温度が、陽子の心の奥で“罪”の形を取る。)




(外は雨。ガラスに光が滲む。)




赤西


「外、ひどい雨ですね。


送ります。……車、すぐそこに。」






---




4:車内




(夜。雨粒がガラスを滑り、街灯が線を描く。


ワイパーの音が規則的に鳴る。)




(陽子は助手席で沈黙し、赤西の横顔を見つめる。)




(赤西が後部座席の紙袋を取る。


ラベルのない小瓶が、金属のように光る。)




赤西(低く)


「痛みもなく、眠るように。


ほんの少しで、すべてが静かになります。」




(陽子の息が止まる。)




赤西


「……これをレイラさんが口にするだけで、


僕と陽子さんは、一緒に生きていける。」




陽子(震える声)


「何を言ってるの……? あなた、正気なの?」




(沈黙。ワイパーの音だけが残る。)




(赤西の瞳に、一瞬過る。


幼い笑顔。公園のすべり台。


──“パパ、見て!”──)




ナレーション(赤西の心の声)


──良心が、一線を越える前に、俺の手を止めた。




(小瓶を戻し、ハンドルに手をかける。)




赤西(絞り出す声)


「……すみません。実の娘を殺めさせようなんて、最低です。


忘れてください。送ります。」




(エンジンの唸り。雨が激しくなる。)




(陽子の指が、赤西の手に触れる。


止めるためでも、責めるためでもない。


“行かないで”──その温度だけが残る。)




(赤西、目を伏せる。沈黙。)




ナレーション(赤西の心の声)


──良心は、まだあった。


けれど、それを見たのは、この女の指の温もりが最後だった。




(外の雨音が一段と強くなる。


車内の香りが閉じ込められ、静寂が“共犯”という名に変わっていく。)




陽子(心の声)


──この香り、覚えてる。


初めて彼に抱かれた夜。


胸の奥に残った匂い。


あれが“罠”だったとしても、


もう逃げられない。




(ワイパーが最後の水滴を払う音。


雨の線が切れ、夜が深く沈む。)






---




第17話へ続く





【あとがき】


愛という名の罠は、いつだって静かに始まる。

叫び声もなく、殴り合いもなく、

ただ「理解されたい」と願った瞬間に、足元から沈んでいく。


赤西も陽子も、悪人ではない。

誰かに“もう一度信じてもらいたかった”だけの人間だ。

けれど、信じた先が地獄だった──それがこの回の真実。


赤西の震える手は、まだ人間の証であり、

陽子の差し出した手は、救いの形をした刃だった。


この夜、二人は同じ罪を分け合い、

そして、香りは《祈り》から《毒》へと変わった。



そして次回――

焦点は夫・和人へと移ります。

酒に逃げ、怒りに任せて手をあげる男。

それでも心の奥底には、かつて“父親だった頃”の残り火が微かに残っている。

娘・彩が家を出たことを知った夜、

その火は、もう一度だけ小さく灯る。




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