第13話 《香水のバトン》
歌原レイラ(28)──死まで、あと20日。
彩(15・高1)──春。
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0 プロローグ
──三日間、熱に伏せていた。
勝訴の安堵と同時に、身体は容赦なく悲鳴を上げた。
姉であり続けるにも、プロであり続けるにも、体力が要る。
もし私に何かあれば、彩はまたひとりになる。
その想像だけで胸が締めつけられた。
だから決めた。
“備え”をしておこうと。
私の不在が、あの子の未来を閉ざさないように。
──マンションを。そして彩名義の資産を残す。
それは弱さからの選択だった。
けれど結果的に、その備えこそが、彩を支える手になる。
この時の私は、まだ知らなかった。
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1 高級マンション・ロビー
(黒いサングラス、ロングコート。静かな足音)
受付
「ようこそ、歌原様。こちらが鍵と登記書類でございます」
(金色のタグ──“1207”の刻印。レイラは一礼し、受け取る)
エレベーターホール。
虹彩スキャナーの淡い赤が、瞳を覗き込む。
ナレーション(レイラ)
彩の高校から徒歩30分。
都心の一等地、セキュリティ万全の高級マンション。
玄関には暗証番号に加え、虹彩認証。
瞳そのものが鍵になる。
──高校入学祝いであり、後見人としての最初の贈り物。
ここだけは、誰にも奪わせない。
彩の“居場所”として。
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2 銀行・個室ブース
(薄明かりの中、スーツ姿のレイラ。香りがわずかに漂う)
銀行員
「“歌原 彩”様名義の新規口座、贈与契約に基づき開設いたします」
(印刷機から通帳が現れる──¥500,000,000)
銀行員
「通帳と印鑑は当行で保管し、彩様もしくは指定弁護士の請求時のみ交付いたします。贈与税の申告も含め、法的には問題ございません」
(レイラは静かに署名を入れる)
ナレーション(レイラ)
形式に守らせれば、誰にも奪われない。
彩が自分の手で未来を選ぶ日まで──これは確かな“保障”になる。
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3 マンション1207号室・深夜
(新築のバスルーム。静けさの中で脚立を立てる音)
レイラは点検口を開け、ポーチを滑り込ませた。
中には口紅、チーク、小さな鏡、そして香水。
“スター”ではなく、“姉”としての断片。
さらに奥には、贈与契約の写しと口座番号のメモ。
通帳はない──けれど、“五億に繋がる地図”としての証。
レイラ(心の声)
セキュリティで守れるのは外の脅威まで。
心の隙間や記憶の匂いまでは閉ざせない。
(香水を通帳控えの上に吹きかける──シュッ、シュッ)
レイラ(小さく)
「香りは記憶を運ぶ。
この場所に立てば、私がいつも傍にいると分かるように」
(ふっと微笑む)
……もっとも、彩の鈍さじゃ、しばらく気づかないかも。
鼻をひくひくさせて天井を見上げる姿が、目に浮かぶ。
──宝探しみたいに、見つけられるかな。
(月光が差し込み、香りだけが漂っている)
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4 窓辺
(脚立を片づけ、夜景を見下ろすレイラ)
レイラ(心の声)
彩はまだ自覚していない。
けれど歩き方ひとつ、仕草ひとつに、モデルとしての資質が滲んでいる。
骨格のライン、所作の無駄のなさ。
それは天性の“光”に加え、日々の努力が染み込んだ結果だ。
だからこそ、舞台に立てば光をまとう。
彩なら、私の贈り物などなくても成功できる。
素材そのものが美だから。
でも──未来は残酷だ。
芸能界も、モデル業界も、甘さより牙のほうが多い。
どれほど強い子でも、たったひとりでは戦えない時が来る。
だから私は“備え”を置いていく。
宝石より確かな場所と、祈りの香りを。
もしもの時、この“証”が彩を支えになれば──
それだけでいい。
(夜空を見上げ、静かに目を閉じる)
どうか未来が真っ直ぐに拓けますように。
胸を張って歩けますように。
そしていつか、
この贈り物すら不要だったと笑ってくれたなら──
それこそが、私の希望。
(指先に残る香水の匂いを確かめる)
──セキュリティは未来を守り、香水は心を繋ぐ。
その両方を彩に託した、“香水のバトン”。
ナレーション
そして、その準備を終えた夜も──
死まで、あと20日。
第14話へ続く。
あとがき
レイラが“備え”を選んだのは、弱さではなく責任から。
守りたい人がいるという一点だけで、彼女は生き続けようとする。
そして──
後の彩の強さは、まぎれもなくこの夜に宿ったレイラの影響である。
姉の祈りが、妹の意志へと受け継がれていく。




