三十七、気づいていたよ
その後、雨流は月花を月の宮まで送り届け、月花が雨流におずおずと、
「へ、へいか。お茶でも飲んでいきませんか?」
「なに? よいのか」
「はい。陛下にはお世話になっておりますし」
「なんだ、ソナタから誘うとは珍しいな」
雨流は喜び勇んで月の宮に足を踏み入れる。華女官が扉を開けると、月の宮には先客がいた。仁である。仁が恭しく拱手礼をする。雨流は月花に目をやった。
「せっかくの機会ですし、師匠のことを改めてご紹介しようかと」
「そういうところだろうと思ったよ」
期待していないと言ったらうそになるが、月花はそういう少女だった。仁が下座に座り、雨流が上座に座る。月花は華女官に棗茶を要望する。仁がにこにこと月花を見ていた。次第に棗茶の甘い香りが立ち込める。月花には、もううんざりな香りである。毒出しのために一日に何杯もの茶を飲んで、厠に行く。それは、何度も。風呂も一日三回入って汗を流すし、食べ物も、味がしない上に、解毒作用のある癖のある食材ばかり。しかし、これは月花が決めたことの結果なのだから、月花は文句ひとつ言わない。言うつもりもない。
「仁殿。王宮の生活はどうですか?」
「へ、陛下。おかげさまで何不自由なく」
「そうか。ソナタ、占庁では、だいぶやりたい放題だと聞いているが」
占庁とは、後宮の行事の日取りを決めるのが主な役割だった。例えば、雨流と月花の立后の儀なども、この占庁が日取りを決めた。とはいえ。立后の儀の日取りは、雨流が半ば強引に半年後に決めたのだが、仁は雨流の方を見て、
「この娘――皇后さまには手を焼くでしょう? なにしろ身強の命式なうえに、劫財・帝旺があるゆえに」
「そだな。わたしも身強ゆえ、どちらも我が強くて衝突する」
「陛下も身強でしたか」
仁が優し気に笑っている。仁の目じりにはしわが寄り、月花は仁の笑みがなにより好きだった。だから、仁を雨流に紹介する、というよりは、仁に雨流を紹介したかった、という方が正しい。この二人は、あの小料理屋で一度顔を合わせだただけだったから、いつかはこういう席を設けたかったのだ。月花が仁の方を見る。
「そうなんです。陛下って身強で火が強いんですよ。水がなくて大変なんです」
「ああ、それで皇后さまと相性が良いのですね」
月花の命式は水が強い。つまり、雨流の命式に必要な水が、月花の命式には潤沢にあるのだ。これは、お互いがないものを補い合い、相性がよくて当たり前だ。知ったとたん、月花は顔を赤らめて、なんとか占いの話から転換を試みる。身振り手振りが大きくなるのは、月花が慌てているときの癖のようだ。
「あ、あ。そういえば、師匠は占庁で、なにをしておいでですか」
「いやな。腐っても王宮、みな頭のいいもものばかりで。八字を教えたら、みるみる覚えていってな。月花は覚えが悪かったが」
「し、師匠! だって私は、私には料理しかないのです」
「仁殿。月花の話をもう少し詳しく聞きたい」
前のめりに雨流が仁に詰め寄った。仁がにやりと笑う。月花は仁の口をふさごうとするが、雨流が月花をひょいと抱き上げて膝の上に乗せてしまう。雨流の膝にちょこんと乗せられて、月花はじたばたともがくこともできない。暴れれば、雨流を傷つけるかもしれない。一国の皇帝に傷など、あってはならない。だから月花は、おとなしく膝の上に収まった。
「や、陛下!?」
「ソナタは少し、黙っていろ」
「ああ、ああ。陛下、また私をからかうのですね」
仁は相変わらず笑っている。そして、遠い昔を思うかのように、ゆっくりと口を開いた。その声音は慈愛に満ちており、雨流は仁の愛情の深さをうかがい知る。この師弟は、親子以上の絆でつながっている。うらやましくもあり、妬ましくもあった。その少しでもを、雨流の方に向けてくれてもいいものを。
「月花は、小さいころはそれは頑固で。自分は占いなんてしないって、そう言って最初の一年は私の旅路ついて歩いて、私に料理の指導ばかり」
「仁殿は、月花直々に料理を習ったと? なんとうらやましい」
「へ、陛下。陛下もご興味がおありなら、いくらでもお教えしますゆえ、それゆえ、この話はここで終わりに」
「月花の料理は、最初は食べられたものじゃなかったのですよ。月花にいくら絶対的な舌があっても、料理の経験値がなければそれは意味をなさない」
「なんと。月花は料理が下手だったのか」
「はい。最初の数年は特に」
それなのに、月花は仁に料理を教えようとしたものだから、仁はどうしたものかと悩んだのだそうだ。月花の今の生きがいは料理だけだ。だから、月花の料理指導に付き合って、いうなれば月花の料理の腕と仁の料理の腕は、共に磨かれてきたものなのだ。だからこそ、あの小料理屋を、月花に代わって切り盛りできた。月花は恥ずかしそうに手で顔を覆って、雨流の膝の上でうなっている。
「恥ずかしい」
「なに、月花。誰でも最初は初心者だ」
そして、料理が心の支えになっていたのには、訳がある。仁がちらりと月花をみやる。月花はフルフルと首を横に振ったが、仁はかまわずに続けるのだった。
「両親が生きているころ、月花は町外れでうずくまる男の子に、生まれて初めて作った菓子を渡したことがあるのだそうだ」
「し、師匠!」
「なんだ、よいではないか。それで、その男の子は、初めて月花が作った大して美味くもない菓子を、それは美味そうに食べたのだそうだ」
それは紛れもなく、雨流のことである。あの時の菓子は、なによりも美味しかった、今でもその味をまざまざと思い出せる。月花がちらりと雨流を見やる。笑っている。もしかして、雨流も気づいているのだろうか。
「で、でも、美味しそうに食べたのではなく、空腹だったのだと思います。だから、不味い菓子でも、食べられたのでございます」
「またソナタは。その男の子に、腕を上げた自分を見てほしいと。そのために料理の腕を磨いたと。何度も語っていたではないか」
これには雨流も赤面する。月花はその男の子が、雨流だと知っているのだろうか。雨流が月花を見ると、「見ないでくださいぃ」と月花が小さくうめいた。つまりこれは、月花はあの時の男の子を、雨流だと認識している、のだろうか。雨流が顔を隠す月花の手を退ける。月花が雨流を涙目で見上げる。それだけで、雨流はすべてを悟った。自分だけじゃない、あの出会いを特別だと感じているのは、月花も同じなのだ。
雨流は月花をそっと抱きしめ、額に唇を落とした。
「俺も同じだ」
「陛下?」
「俺もずっと、あの時の少女を探していた。ソナタの店の料理を食べて、すぐにあの女の子だとわかったよ」
そんなあ、と困ったように月花が泣きだす。長年の思いが通じあい、月花も雨流も再会を喜んだ。かといって、月花をこの後宮に縛り付けるつもりはない。仁が我が子と未来の夫を、優しく見守る。仁の看る命式に寄れば、ふたりはきっと――