二十八、師匠
あらかた人がはけてから、月花は仁に事情を話した。辺りはもう、月明りすらない。冬の空気が冷たく、仁はお湯を沸かして、西域で手に入れた紅茶を淹れてくれた。温かく懐かしい香りだ。皇后選びの第一の試問だったそれ。
「なに、オマエがあの気難しい皇帝陛下の皇后だったと」
「はい。どうやらそうなってしまったようで」
「なるほど、オマエの八字に、劫財・帝旺があったから、そうなるだろうとは思っていたが」
頭を手でペチンと叩いて、仁が目を真ん丸にしている。仁が言っているのは、月花の八字の占いのことである。月花の八字はこうだ。
癸水 未土木火
癸水 亥水木
癸水 未土木火(無作用)
戊土戊土 午火(無作用)
この命式から見ると、月花は水が過多だが、土がそれを抑えている。火がひとつもないので苦いものは苦手で、木(酸味)と金(辛味)が不足している。だから積極的にカリーや漬物を取るようにしているが、この命式の中で、月花は同じ柱に劫財・帝旺と続くのだ。この組み合わせは一筋縄ではいかない大きな力を表しており、つまり月花が皇后になるのは、仁からしてみればしごく当然なのだった。
「私もなにがなんだかわからなくて」
「だが、皇后がこんな場所に来て大丈夫なのか?」
「それは……」
うっと言葉に詰まった月花を見て、
「さては、家出してきたな」
「なんでわかるんです?」
「オマエはいつもそうだ。嫌なことがあるとすぐに逃げ出す。料理以外はてんで我慢ができない」
「うう、言い返す言葉もございません」
はあ、と仁のため息が漏れる。月花はしゅしゅしゅと小さくなって、肩を震わせてうつむいている。本当にこの子は、憎めない。仁はしかるのをやめて、外の方を指さした。
「それで、外でずっとオマエを見守っているのが、例の陛下か?」
「え?」
ばっと振り返ると、店の入り口に人影が動いた。その人影は扉を潜り抜け、こちらへと歩いてくる。足取りは重く、怒っているようにも見える。五里もついて歩いてくるのは大変だっただろう。今は真冬で、王宮育ちの雨流には、歩くのも冬の寒さもこたえるだろうに。
「へいか……」
「すまぬ。わたしがふがいないせいで、ソナタに窮屈な思いをさせた」
「いえ、そんな。陛下、政務は?」
「ソナタより大事なことがあるか?」
かっと月花が頬を赤くした。仁はははん、とうなる。仁にとって月花は娘も同然だ。その月花が、妙齢にもなってひとりみであることは常々心配してきた。だが、それもじきに終わりそうだ。
「本当に、陛下は月花を大事に思っているんだな」
「し、師匠、そういうからかいは」
「ああ。俺は月花をなによりも大事に思っている」
さらに月花が顔を赤くする。どうやら、『まんざらでもない』らしい。王宮内でならいざ知らず、ここまできて皇后を寵愛するふりをするのは、なぜだろうか。だが、「大事」という言葉は、女性ならば誰でも胸を射抜かれるだろう。
仁は、くっく、と笑いを漏らして、
「陛下。この娘は幼くして両親を亡くし、不遇な幼少期を送ってきました。ゆえに少し、自分に鈍いところがあります」
「それはわたしも感じている。王宮のものの陰口にも笑顔で対応するなど……わたしに言えば、そのような不埒な輩は解雇できるというのに」
やっぱりですか、と仁は笑った。仁は月花の頭を撫でまわしながら、豪快に声を出す。
「俺は月花の親代わりみたいなもんなんです。だから言わせてください。月花を頼みます」
「あ、いえ。こちらこそ、月花を幸せにしてみせます」
なにやら、両家の顔合わせの様になってしまった。挟まれた月花はあわあわと両者を見て、仁と雨流は、固く握手を交わすのだった。
王宮に戻って、さて雨流は月花に平謝りだった。皇帝が頭を下げるなどあってはならないことだ。月花は何度も雨流の頭をあげさせようとするのだが、かたくなに聞かない。しまいには、月花の方が謝って、この件を早く収めなければと思いいたった。
「申し訳ありません。家出などと」
「良い。わたしの配慮が足りなかった。さするに、師匠殿をこの王宮に呼んだらどうだろうか?」
月花がぱっと顔を明るくする。わかりやすくてかわいらしいと思う。雨流は決して月花の自由を奪いたくない。いや、もう既に、妃として迎えた時点で月花を縛ることにはなっているのだが。だったらせめて、親代わりの仁を王宮に呼べば、月花も多少は過ごしやすくなるのではないか。
「では、本当に呼んでもよろしいですか?」
「ああ、かまわん」
「傍付きの内官にしても?」
「……それは少し考えさせてくれ」
内官となると去勢が必要になる。年のいった仁では、切り落とすにしろ腐らせるにしろ、衛生面で生き残れる気がしなかった。
「ああ、どうしよう、うれしいです」
「そうか。よかった」
「はい。では、料理人たちにも師匠を紹介しないと」
料理人たちと仲良くするのは少し癪だが、月花のためならなんでもしたい。雨流はにこやかに仁との思い出を話す月花に、心奪われるのだった。