2-1 上陸の手引き
マナが帰りついたとき、部屋の主はカーテンを閉め切り雑多なものの山に埋もれるようにして仮眠を取っていた。彼女の横たわるソファの枕元には衣装ケースが渦高く積み上げられ、足元には出しっぱなしの部屋着が半分蹴りだされた格好で積まれてある。
マナは彼女を起こさないようにそろりそろりとカーペットの上に散乱した紙袋や下着、フリーペーパーなどを踏み分けて窓辺に自分の荷物を下ろした。だが、流しに放置されている食器を洗ってやろうと踵を返したところで呼び止められた。
「帰ったの」
ソファから半分体を起こし、頭痛がするように顔をしかめている。
「随分長く出てたのね」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いいの、もう起きるとこだったから。それよりあなたに色々と渡すものが」
彼女は紙袋の一つを引き寄せると、ローテーブルの上に中身を並べた。
「これがあなたの端末ね。それと身分証、判子でしょ。あと履歴書の見本。履歴書はこれを丸写しすればいいし、一応『佐藤末那』の経歴だから暗記はしとくのね」
マナは彼女の目を見つめた。
「ミチルちゃん、これ、どうしたの?」
「ブローカーに手配してもらったのよ」
事もなげに言って、彼女は風呂場へ向かう。
「誰なの?」
「人魚が上陸するのを手助けする業者みたいなもの。みんな最初は頼りにするのよ、誰の手も借りずにここでの生活を始めるのは不可能だから。私がシャワーしている間に覚えておいてね、とりあえず端末の使い方くらいは」
てきぱきと衣服を脱ぎ捨て、もう風呂場に消えようとする友人に、マナはさっきから気がかりだった用事のことを言った。
「私、ちょっとお台所の方を片づけるわ」
「そんなのいいから、言った通りにして。私、この後出るんだから。明日の晩までマナに構うタイミングがないから、今のうちに必要なことは教えておきたいの。でないと明日困るでしょ、マナが」
「はい、言う通りにします」
マナは肩をすくめた。彼女から「マナ」と陸の名で呼ばれるたびに、何かが自分から抜け落ちてゆくように感じる。
本当の名は毒のせいで忘れてしまったが、「マナ」というのは自分ではないような気がする。彼女の海の名も、不思議なことに今はもう思い出すことができない。だが古くからの親友を「ミチル」と馴染みのない名で呼ぶことにはまだ抵抗があった。
端末はアヤトが持っていたものに似ていた。手に取って眺めると、縁などところどころに細かい傷が付いて塗装が剥がれ、新品ではないのがわかる。見よう見まねでいじってみるうちに、あっという間にミチルは出てきた。髪の水気をバスタオルで取りながらベッドの前を横切り、カーテンの前のスタンド型の物干しから下着を取ってそこで履く。マナが端末に取り掛かっているのを認めて、ミチルは満足そうな顔をした。ローテーブルを挟んでベッドに座り、ドライヤーで髪を乾かしながら、基本的な操作を教えてくれる。
「それで? 一日出歩いてみて、何か収穫はあったの」
ドライヤーを切って、ミチルが尋ねた。
「いいえ……ハローワークへ行ってみようと思ったんだけど、交差点を渡れなかったの」
「ハローワーク?」
ミチルは眉を顰めた。
「人魚が行くところじゃないし、そんなに本格的に働こうとしているの? それでなに、今日はそれだけ? 誰とも話さなかったの?」
「ちょっと面白い男の子と会ったわ。交差点で動けなくなってしまって、どうしようというときに助けてもらったの。アンドロイドって知ってる?」
化粧道具を広げる手を止めて聴いていたミチルは、がっかりしたように舌打ちした。
「なんだ、人間ならよかったのに」
「あら、親切にしてくれたのよ。アンドロイドって何なのか、私訊きそびれたわ。あのね、よく見てみるとお人形みたいなの。動きも少し他の人と違ってぎごちなかったし……でも、手は温かかったわ」
「ゾンビと懇意になってもね」
親友は関心なさそうに化粧に取り掛かる。
「マナはどういう関係を使って宿題を片づけるつもりなの? まさか一か月間、仕事だけするつもりじゃないでしょ」
「仕事をするわ。仕事をすることで、認めてもらうわ」
マナの真剣な様子に、ミチルの顔はたちまち険しくなった。
「そんなんでなんとかなると思ってんの?」