1-4 違和感
画面から目を離した一瞬のうちに気象情報は次の地方の予報に移ってしまっていた。
「天気聞き逃した」
台所に向かって声をかけると、あー、というような母親の惜しがる声が返ってくる。この手のミスをいちいち咎められはしない。会合に出ずに帰ったので彼女は機嫌がよかった。夕食の支度をしながらとりとめもなく喋っている。
アヤトはダイニングと繋がるリビングで、日課にしている紙資源の分別をしながら適当に相槌を打つ。抗議団体が連日のように郵便受けにねじ込んでくれる嫌がらせのビラを大きさ、色、内容ごとに仕分けし、まっすぐに伸ばして纏め、紙袋に入れるのだ。誰もそうしろと言っていない。むしろ綾人の姉などは「異様だ」といって嫌がるが、執念でやっている。
自立思考が可能になる遥かに以前から、アンドロイドは人々に好意と嫌悪、両極の感情を抱かせてきた。労働力としてのアンドロイドの本格的な導入は職を奪われる労働者からの反発を招き、オルタノイドの開発にはより複雑な反応を引き起こした。死の概念が揺らぎ生命の尊厳が脅かされると生命原理主義者たちは非難する。アヤトの観察によれば、そこまで極端にならなくとも、多くの人は人間のような顔をして市中に紛れ込むオルタノイドを怪しげで薄気味の悪いものに思っている。というより、オルタノイドはそれを切実に必要とする人の間でしか歓迎されていない。
「これね。やあね」
母親の声に顔を上げると、七時のニュースが例の人魚事件を報じていた。いつの間にか側に立ち、片手を顎のあたりに当てて顔をしかめている。新たな映像の公開などはなく、スタジオのアナウンサーが今年に入って人魚関係の事件が相次いでいる、などと伝えた。
「やあねえ。どうして海から出てきちゃうんでしょ」
クマかサルのような言われようだ。
「それで人に紛れてるっていうのが質悪いわね。目印でもあればいいのに」
アヤトは作業を中断して片づけ、ソファを立った。ちょうど父親が帰宅したのだ。
「お帰りなさい」
父親はちらりと目を上げるだけで、答えない。ここへ来て二年になるが、返事があったことは数えるほどしかない。それでも帰宅時には一声かけることが約束事になっている。お父さんにお帰りなさいを言ったら、あとは自分の部屋にいてもいい。母親命令だった。
マナに捕まったときにやはり何か起きたらしい膝で普段よりもゆっくりと階段を上がり、部屋に戻る。タカシへの安否確認がまだだ。鞄から端末を出そうとして、覚えのない感触が指に触れた。イサクに渡されたビラがしっかりと入っていた。
改めて見ると、写真のアグリは全く知らない人のようにも見えた。最初に知っているような気がしたのは何かの間違いだったのかもしれない。下方の余白にはボールペン字で、イサクのものと思われるメールアドレスが書き付けられている。ラボロイドの間に闇の連絡網らしきものが存在していることへの驚き以上に、アヤトはその筆致の美しさに驚いた。不器用なアンドロイドの手にきれいな字は書けないと思っていた。何の仕事をしている人なのだろう?
ベッドに座って、電話をかける。また留守電に切り替わるかという頃になって、元気のない声が『おう』と応えた。
「俺、アヤトだけど。どう、具合は。大丈夫?」
『平気、でもさっき終わったとこ。業者来んの遅ぇよ』
テンションの低い声に、アヤトは思わず笑いを漏らした。
「何したん」
『別に大したことじゃ……自転車乗る練習してて路でこけた』
一拍遅れて、はぁー? と、大きな声が笑いとともに飛び出した。
「おまえさぁ、何やってんの?」
電話の向こうには不機嫌な沈黙が広がる。
「何やってんの、おまえ」
『二度言うなよ』
タカシが気分を害しているのはわかっても、アヤトの笑いは収まらない。
『アンドロイドが自転車に乗って何が悪い』
「いやいやだって、それは無理にも程があるでしょ。アンドロイドの平衡感覚で自転車なんて絶対あり得ないから」
アヤトの感覚では跨ぐのだって至難の業だ。
『乗れるだろ、乗れてたんだから』
ぶすっとした応えに、違和感が胸を掠めた。
自転車に乗れていたのは去年交通事故で死んだ小野寺貴志だ。タカシ自身ではない。
『アヤトはどうしたんだよ、もう家? 早くね?』
「――ああ、俺も今日行かなかったんだ。何か変な人に捕まっちゃってさ、二度も。疲れたし雨降りそうだったから帰った。そういや話変わるけど、岩代アグリって知ってる?」
『知らん。誰、それ』
「いや、誰だっけって訊きたかったんだけど。じゃあいいや。おやすみ」
通話を切り、そのまま寝転ぶ。転んだと聞いて心配してみれば自転車だとは、傑作だ。よくもそんなことを思いつく。何かおかしなことを言っていたが、やはり仲間はいい。今日一日の重苦しい疲労感がほぐれてゆくようだった。